人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[台湾編] 法螺吹き後は水で乾杯!?・12月4日(その3)

コンテストスピーチ後は一旦30分の休憩に入った。ここで審査団が審査に入った。審査員は台湾3名、日本2名。休憩後はまず審査員一人一人の講評。その後結果発表の前に、余興として詩吟の披露が行われた。台湾の方は歌がお好きなようで、例会の中にも歌のセッションがあったりするのだが、中でも詩吟は詩吟だけの集まりを持つほど愛好者が多いようだった。
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詩吟の後、台湾のガバナーと日本のガバナーがそれぞれ挨拶。日本側は副ガバナーとして大嶋団長が挨拶に立った。そして表彰。表彰後、日本の訪問団メンバー一人一人に台湾オリジナルのミニバナーが手渡され、一人ずつ記念写真を撮り、最後に集合写真を撮ってコンテストは閉会した。
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この後、場所を仁愛福華飯店というレストランに移して懇親会となるのだが、バイキング形式のこの懇親会は何とノンアルコールであった。飲み物は水のみ。台湾の人にとってバイキングとは食事を楽しむもので、酒などは飲まないのだという。そのため、食べ物は色々なものが楽しめたが、飲み物はひたすら水のみであった。お茶すらないのだ。これがこの日最大のカルチャーショックだった。
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高雄から移動したこの日、懇親会後ようやくホテルへチェックインしたものの、大嶋団長を始めとして酒無しの宴は物足りなかったという声多し、一旦部屋へ荷物を置いてすぐロビーに全員集合し、近くの茶店へ繰り出した。ここでお茶グループとお酒グループに別れ、ようやくこの日も長い1日が終了したのである。
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by inv-pyramid | 2008-04-30 01:02 | 1999年後半

[台湾編] 未知なる法螺吹きコンテスト・12月4日(その2)

12月4日の13時から、台北市の精華大学で日本語の法螺吹きコンテストが開催された。会場に着くと入り口で、熊本でお目にかかった黄氏がミニバナーを振って「小原さん!」と声を掛けてくれた。他にも熊本以来の再開となる太平洋クラブ高氏らが出迎えてくれた。台湾の日本語クラブのメンバーが大勢集結しているだけあって、着くなり早速名刺交換会となった。この日はその後の日台交流のキーパーソンとなる大勢の方と知り合うことができた。

さて、前述の通り日本語の法螺吹きコンテストは日本では未だ開催されたことがなく、台湾で初めて目にすることになった。コンテストルールなどは台湾のメンバーが和訳版を準備していたので、それによって内容もよく理解することができた。従ってこのコンテストだけに関しては台湾の方が日本の先を行っていたことになる。我々も今後の開催の参考にするべく、情報収集には余念がなかった。実際に日本が法螺吹きコンテストを開催したのは、実にこの6年後、2005年のことであった。

受付を済ませて暫し交流後、13時45分にまず会旗入場。バナー行進である。日本ではまだこの風習は一般的ではなく、台湾で初めて目にすることになった。区総監(ディストリクトガバナー)の挨拶の後、来賓の紹介を当時仕事で台湾に赴任されていた日本人TM尾花氏がされた。尾花氏は我々が台北にいる間のエスコート役でもあった。コンテストの司会は黄氏が務めた。出場者は総勢13名で台湾の各クラブから2名ずつ、日本からは渡辺Y氏、山中氏が出場された。スピーチの題名と出場者は下記の通り。

橋をかける             李(平和)
オランダ人の子孫         瀟(成功)
奇跡の薬              陳(中央)
細胞の自殺             林(太平洋)
私の故郷              キュウ(太平洋)
肌の色を白くする-Y-2K     莫(平和) 
私の発明:脳波診断機      李(容樹)
ロープダイエット法         程(古都)
月旅行                渡辺Y(東海)
サミットトーク            山中(名古屋)
大漁                 呉(成功)
お転婆娘              陳(古都)
真っ赤な嘘つきが上手な私    楊(中央)
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台湾には笑いの文化が根付いているのか、法螺吹きコンテストは台湾の方にはぴったりのコンテストだな、と思った。どの方のスピーチもユニークだったが、個人的に印象残ったのは、古都クラブ陳氏、平和クラブ莫氏、という所。日本勢は法螺吹きとしてはやや真面目な感じがした。
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by inv-pyramid | 2008-04-26 14:04 | 1999年後半

[台湾編] 高雄から台北へ・12月4日(その1)

台南での心温まるひとときもつかの間、慌しく高雄のホテルに戻った時はぐったりしていた。早朝に自宅を出て、台湾へ飛び、夜遅くまでTMの活動に興じていたのだ。長い1日だった。

翌日は早朝の出発だというのに、のんびりしてホテルをチェックアウトしたのは一番最後になってしまった。今回のツアーはオーダーメイドで、我々のTM訪問先に合わせて、国内の移動に関しては旅行会社に任せてあった。現地のガイドが高雄から台北までお世話してくれるのである。だから移動に関しては時間厳守であった。2日目はまず高雄から台北まで飛行機で移動することになっていた。バスで空港まで行くのだが、団体ツアーのお約束で途中土産物店へ立ち寄りとなった。ここで1時間ほど時間を潰して飛行機に乗る。台北へは午前中に着いた。

台北といっても空港は桃園よりにあるため、空港から台北市内へはバスで1時間弱の移動になった。市内到着後は台湾流の食べ放題レストランで昼食の予定だったが、開店まで時間があるとのここで、市内をぶらつく。近くに寺院があったのでみんなで見学に出掛けた。
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レストランはバイキング形式で、基本的にはまず台湾風シャブシャブがテーブルにセッティングしてあるのだが、レストラン内に屋台形式で様々な出店が出ており、そこで自分の好きなものを選んで食べるというスタイル。4日間の台湾ツアーの中ではこの日の昼食が最も印象に残っている。色々と食べ過ぎてしまった。

満腹になったところで、この日の主会場である台北市内の大学の講堂へ向かった。ここで、日本語のほら吹きコンテストが行われるのだ。日本語のほら吹きコンテストは日本ではこの時点まで開催されたことがなかった。だから我々にとっては初体験となるもので興味津々であった。
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by inv-pyramid | 2008-04-25 12:55 | 1999年後半

[台湾編] 台湾流お茶の手解きを受ける・12月3日(その3)

さて、台南の例会は2時間の4部構成で、プログラムには細かく時間が割られていた。4部構成といっても、即興講演、テーマ講演、論評、表彰と分かれているだけで、日本と全く同じ。TMなのでこれは当然だが、異なるのはスピーチと言わず「講演」としている所のみ。古き良き日本語を大切にしているのが台湾の日本語クラブなのだ。

即興講演(テーブルトピックス)では、司会者の設問に従って日本と台湾から2名ずつが指名された。出題は全員同じで「旅行について」。日本側の講演者は大嶋団長と山中氏であった。
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ここで10分の休憩を取り、料理を暫しパクつく。再開後はテーマ講演(スピーチ)。講演者は3名で、台湾2名、日本1名。台湾の方2名の講演はお二人ともインパクトある内容で、最初の王T氏は「自己心肺蘇生術CPR訓練」と題して、自分がある日突然道端で心臓発作で倒れた時に、自分で自分に対して蘇生術を行ったという体験を通して、生死の境を分けるものについて熱弁を奮われた。続いての寥氏の話は「稀代の毒婦」。これが何とあの和歌山カレー事件の某被告を取り上げた週刊誌の記事を、「解釈を含んで」読み上げるという異色の内容で、その記事のコピー自体が配られたのだが、所々アンダーラインや書き込みがされているのが強烈であった。何よりこの事件を取り上げるということが、日本への関心の高さを物語っていた。

3人目、日本からの講演者は訪問団メンバーの最年少近藤A氏。武蔵でも一度披露した「青との出会い」の再演で、自分と青という色との関わりを静かに語った。場内の中でも最年少ということで好意的な感触を得たようであった。

論評も台湾2名、日本1名で日本からは東海クラブの加藤氏が最初の講演者王T氏への論評を行った。通常なら総合論評者に当たるポジションが文法評論者となっている所に、台湾の日本語クラブがプログラムのどの部分に重点を置いているかが垣間見て取れた。
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程会長による表彰式の後、近隣の英語クラブのメンバーが顔を見せ、英語クラブ(Tainan TMC)の宣伝をしていた。英語クラブのメンバーは日本語を話せないようだった。集合写真を撮った後、予定では高雄にバスで戻ることになっていたが、台南のメンバーで翌日のほら吹きコンテストにも出場予定の陳S氏が近所でお茶屋を営んでいるとのことで急遽伺うことになり、バスですぐ移動した。表通り沿いにあるお店は、入り口の直ぐ脇に茶釜などが置かれたスペースがあり、そこで和になって座り台湾流のお茶の作法を受けながら、お茶を楽しんだ。指南役は陳S氏の娘さんで、我々がいる間は一言も発しなかったが、お茶を入れる手つきは流石に慣れているようだった。
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台湾のお茶は烏龍茶と同じ発酵茶で、ほんのり甘味がした。色々な台湾茶を試飲させて頂いた後で気に入った銘柄をお土産に購入した。

この様に初日から心温まる歓迎を受けたが、現在台湾古都日本語演説会は解散して存在しない。聞く所によれば演説会よりも読書会に重きを置くようになり、TMから離脱したとのことであった。とても残念なことだが、この日のことは良き思い出として胸に留めて置きたいと思う。
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by inv-pyramid | 2008-04-23 22:30 | 1999年後半

[台湾編] 台南での合同例会・12月3日(その2)

台湾訪問弾丸ツアーの初日、名古屋のメンバーとの邂逅も束の間、ホテルにチェックインして身支度を整えるとすぐさま最初の訪問先である台南市へとバスで向かった。台南は高雄から北へバスで1時間ほどの所にある。訪問先は当時台湾の最も南で日本語例会を行っていた台南古都日本語演説会であった。

「日本語演説会」。台湾では日本語のトーストマスターズクラブはこう呼ばれていた。台南は台湾の古い都、つまり日本で言えば京都のようなもの。それで名前が「古都」ということであった。当時の台湾には6つの日本語クラブが存在した。台北3、桃園1、台中1、台南1という割合である。このツアーは、翌日行われるほら吹きコンテストの日程に合わせて訪問可能なクラブをピックアップして組まれており、ちょうどこの古都クラブが金曜開催だったので、最初の訪問先として選ばれたのである。
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夕食は古都クラブの方で各自持ち寄り形式、いわゆるポットラックパーティーを開催してくれることになっていた。例会場はなんと幼稚園の教室。決して広いとは言えない部屋の後ろの方に古都クラブメンバーの手作り台湾料理が用意されており、例会前にまずは乾杯して料理をつついた。
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例会は19時30分頃から始まった。司会は王氏。王氏は明治大学に留学していたこともあるという女性で、日本語は流暢だった。日本では今日の一言やちょっといい話などで始まる最初のウオームアップの時間は、笑い話や諺の紹介で始まった。続いて名曲(!)のコーナー。ここで何と会歌の合唱が始まったのである。自分たちで作詞作曲したクラブの歌があるクラブなど初めて見た。驚いた。楽譜のコピーを全員に配り、我々も即興で混ざって一緒に歌った。この時の模様はMDに録音してあるが、何度聞いても珍妙な驚きがある。会歌に続いては唱歌。ここでは日本の古い歌、「故郷」や「旅愁」などを歌った。年配の台湾の方々にとっては日本への郷愁、若い人たちにとっては日本的なものへの憧れがあるのだろう。そして歌を歌うことで言葉を学んでいるのだな、とも思った。
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by inv-pyramid | 2008-04-22 00:42 | 1999年後半

[台湾編] 訪問団、高雄に集結・12月3日(その1)

12月3日(金)の朝、「トーストマスターズ台湾会議」ツアーの関東出発組は成田の空港第2ビルで待ち合わせていた。午前のフライトなので朝が早い。私はまだ暗い早朝に家を出て、日暮里へと向かった。そこで近藤A氏と合流することにしていた。近藤A氏は上尾からなので私よりさらに早い。日暮里発7時台のスカイライナーに乗車した。近藤A氏はまだ大学生で、今回当初は母親である近藤K氏が行く予定だったが、都合により近藤A氏が行くことになったと言う。実はこのツアーの前に父親の海外出張に同行してヨーロッパへ行ってきたばかりとのことでもあった。学生生活最後の年なので、行ける時に海外へ、とのことだそうな。

成田に着くと既に大嶋T団長とストロガノフ氏がロビーの椅子に座っていた。9:50発のフライトで、ぎりぎりになって豊坂氏が現れた。全員揃ったところで搭乗手続きへと向かう。航空機は日本アジア航空便だった。快晴の中、成田を飛び立つ。高雄到着は13:10であった。高雄も晴れていた。空港に降り立つと現地の案内人が我々を待ち構えていた。総勢5人にも関わらず大型観光バスでのお出迎えで、バスの中で一人ずつ用意されていた台湾元に両替して貰い、南国ムード溢れるフェニックスの並木道の中、まずは当夜の宿泊地であるリンデンホテルへと向かう。もちろんまだチェックインはできないので、荷物を預けて名古屋のメンバーが到着する夕方まで高雄市内をしばしぶらついた。

通りを歩きながらいくつかのことに気付く。まずはオートバイの多いこと。そしてオートバイに乗っている人はみな一様にマスクを付けていたことである。よほど排ガスがひどいのだろうな、と推察する。さらに道路脇の歩道は、高さが均一でなく段差が激しいこと。大通りを外れて市街地の中へ入り込み、のどが渇いたので自動販売機でウーロン茶を買った。飲んでみるとこれが甘いのである。砂糖入りのウーロン茶など初めてだった。このように初日からささやかなカルチャーショックの連続であった。

そうこうしている内に夕暮れ時となり、一同ホテルへと引き返した。ホテルには既に名古屋からのメンバーが到着していて、山中氏や加藤氏らとテーブルトピックスコンテスト以来の再会を果たした。
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by inv-pyramid | 2008-04-22 00:11 | 1999年後半

[台湾編] 訪台前夜

さて、ここからは少し1999年の最後を飾ったイベント、台湾訪問ツアーについて述べてみたい。そもそも日本と台湾のトーストマスターズの交流はいつ頃から始まったのだろうか。私が台湾にも日本語クラブがあると知ったのは熊本編でも述べた通り、熊本へ行った頃である。既に梅本氏がチャットなどを通じて交流を深めていた。この年の7月には春日井の嶋田氏や名古屋の山中氏、そして大嶋夫妻らが相次いで台湾を訪問していた。台湾のメンバーは既に熊本でのコンテストでツアーを組んで日本を訪問していたが、日本のメンバーがツアーを組んで団体で台湾を訪問したのは、私が知る限りこの時が初めてである。

誰が音頭を取ってこの訪台ツアーが企画されたのかははっきりしないが、テーブルトピックスコンテストが終わった時にはもう話が回っていた。ツアー名は「トーストマスターズクラブ台湾会議」で、JR東海ツアーズが代理店であった。11月に入ると山中氏からツアーに関する連絡文書が送られ、パスポート等の準備に追われた。訪問団のメンバーは次の通りであった。

名古屋クラブ:山中、孔井、今枝、瀧口
東海クラブ:浪川、加藤、渡辺Y
はまクラブ:大嶋T、豊坂
三笠クラブ:ストロガノフ
武蔵クラブ:小原、近藤A

大嶋T氏を団長として、関東地区と名古屋地区のメンバーが別々に集合して、台湾で合流することになっていた。関東地区のメンバーは成田集合で一路高雄を目指した。日程は次の通りであった。

12月3日(金)

成田発/高雄着
・関東組は午後高雄観光。名古屋組と合流後、バスで台南へ移動し、台南古都クラブと食事付き合同例会。高雄泊。

12月4日(土)
高雄発/台北着
・台北観光後、午後から日本語のほら吹きコンテストに参加。夜は懇親会。台北泊。

12月5日(日)
・午前は台北観光組と英語の Tien Mou TMC との合同例会参加組に別れる。午後はバスで桃園市へ移動し、成功クラブと合同例会。夜は懇親会。台北泊。

12月6日(月)
台北発/成田着
・午前は故宮見学。昼食会後、台北より帰路に着く。

3泊4日の台湾縦断、英語の例会にも参加するメンバーにとっては、3つの例会と1つのコンテストに参加するという、TM尽くしの超豪華な弾丸ツアーであった。
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by inv-pyramid | 2008-04-18 18:59 | 1999年後半

[JTC編] 翻訳委員会発足

JTCこと日本トーストマスターズ評議会は現在のディストリクト76の前身である。各国または地域のトーストマスターズクラブが、国際本部から直接予算を配分される国または地域ごとのディストリクトとして認定されるためには、1構成単位当たりに所定の数のクラブが存在しなければならない。それまでは任意の評議会を結成して活動する必要がある。日本は1999年まで国際本部非公認の評議会を結成して国内のクラブを統括していたが、2000年に準ディストリクトとして認定されるための準備が整っていた。そこでJTC最終年度となるこの1999年から2000年にかけての年度には、ディストリクト体制になることを念頭においてのさまざまな取り組みが行われた。その一つが翻訳委員会の発足である。

現在は国際本部の意向もあって、マニュアル類の日本語化を進めるための専門委員会は日本語委員会としているが、その前身となる翻訳委員会が発足したのがこの年度であった。当時教育訓練担当副ガバナーを担当されていた浪川氏が11月30日付けで、翻訳委員会への協力を募る文書を各クラブに送っている。それは、旧基本マニュアルは1991年に翻訳され、国際本部発行の正規マニュアルとなったが、それから8年が経過し、日本語やバイリンガルのクラブが増え、日本語でCTMを取得する人も増えてきたので、上級マニュアルの日本語翻訳を待望する声も高くなったきた、よってJTC日本語担当役員一同としても何とか上級マニュアルの翻訳を完成したい、との決意表明であった。

この頃既に一部有志によって上級マニュアルの翻訳は進んでいたが、それが組織化されたのである。2008年現在ようやく国際本部の正式認定により2冊の日本語上級マニュアルが発行されようとしているが、その口火を切ったのがこの時であった。紆余曲折を経る事になる翻訳委員会の活動がここから始まった。
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by inv-pyramid | 2008-04-18 01:15 | 1999年後半

[東京BL編] 終焉の予感?ビデオテープスピーチコンテスト

11月25日に東京バイリンガルクラブの運営により、ビデオテープスピーチコンテストが開催された。ビデオテープスピーチコンテストとは、ビデオで撮影したスピーチを審査するコンテストで、出場者は自分のスピーチをビデオで撮影し、運営クラブへ送る。運営クラブは然るべき会場と審査員の前で集められたビデオを上映し、審査員はスクリーンに映し出されたビデオ映像によるスピーチを審査するのである。スピーチが生か収録かの違いだけで、後は通常のコンテストと同様の手順で進行する。つまり、司会者がいて審査委員長がいてという具合である。ただ、インタビューは当然のことながらない。

このコンテストは前年度も行われていたが、この年度の開催、つまりJTC時代を最後に開催されていない。それは一つにはディストリクト体制になってからのコンテストスケジュールの変更から来るものもあった。スピーチは生で、という向きもあるかも知れないが、トーストマスターズには「テレビでのコミュニケーション」等のテレビに映った時のスピーチを学ぶプログラムもある。映像として映った姿を競うコンテストがあってもいいと思う。

さて、東京バイリンガルクラブは一貫して日英同時開催コンテストにこだわっていたクラブであるが、このコンテストも日英同時開催で、有楽町の東京都生涯学習センターで行われた。この会場は当時の東京バイリンガルの本拠地であるが、映像設備が整っており、それでいて格安の料金で利用できた、当時としては穴場の場所であった。審査委員長にディベートでお馴染みの井上氏をお招きし、前半英語、後半日本語で行われた。英語の記録が残っていないのだが、日本語の方は5名の出場者の中、当時東海クラブの渡辺Y氏が「老いる」なる題のスピーチで優勝した。江戸からは梶谷氏が出場し、例会の時に撮影していた「正しい株の買い方」なるスピーチで2位入賞、3位は名古屋クラブの犬塚氏「原子力発電はもういらない」という結果であった。

古きよきJTC時代の終焉を告げるかの如く、ビデオテープスピーチコンテストはここに幕を閉じた。
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by inv-pyramid | 2008-04-16 02:28 | 1999年後半

[江戸編] 会長が来なくなった日

武蔵の会長交代劇と呼応するかの如く、江戸クラブでも会長の田中氏の欠席が目立つようになった。この頃の江戸クラブは会場を社教館の学習室中から学習室小に移していた。無料なのでどの部屋でもいいのだが、少人数では中では空席が目立つので小の方がちょうど良かったのである。それでも会長の欠席は目立つ。特に田中氏の様に元気のいい人の場合、いるといないでは大違いであった。田中氏は9月21日の第236回例会から3回連続欠席し、その間連絡も取れず、久しぶりに顔を見せたのは11月に入ってからであった。

その日、11月2日の例会で田中氏は既に退会されていた大嶋R氏を伴って現れた。その理由はよくはわからなかった。例会が終わった後で何の前振りもなく「江戸会長は小原さんにお任せします」と退会を匂わせる発言をした後、続く11月16日はまたしても欠席で、代わりに(?)大嶋R氏が参加。2次会では田中氏が来なくなった理由について、仕事が忙しくなった、TM内での女性問題、さらには私との不仲説まで諸説憶測が飛んだ。大嶋R氏は真相を知っている様であった。

次の会長を誰にするかという話になり、当然の様にまずは私という話になったが、私は前年度の会長で、さらに武蔵の会長も受けているため、他の人を擁立することになり、みんなの目線は大嶋R氏に向けられた。聞けば仕事が一段落したのでしばらく復帰するとのことで、だったら退会ではなく休会で良かったのにとも思ったが、ここは一先ず大嶋R氏に会長をお願いしようという雰囲気になった。すかさず国際本部へ会員登録をしたのは言うまでもない。

こうして12月の例会から大嶋R氏が3度目の江戸会長登板となった。江戸クラブの看板女優(?)はかくも健在なり、というところであった。
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by inv-pyramid | 2008-04-15 12:55 | 1999年後半