人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[武蔵編] 念願の日を迎えて

武蔵クラブが正式なトーストマスターズクラブとして認定、つまりチャーターされたのは1999年10月13日である。第1回の準備会が行われたのが1998年8月、第1回の例会が行われたのが同年10月であるから、チャーターまで丸1年かかった。最初の半年間は泣かず飛ばずで、その後徐々に風向きが変わり始めて入会者が増えだし、チャーターに至った経緯を振り返ると、最初から関わった者としては感慨深いものがあった。

特に発起人である梅本氏の情熱とTMのクラブ設立マニュアルに忠実なクラブ作りには学ぶ所が多かった。それでも当時は現在と比べて英語力にも乏しく、マニュアル類も正直な所読みきれていない部分も多かった。「学ぶ所が多かった」、とは今だからこそ言えることである。武蔵がチャーターした頃は、まだ自分がクラブ作りをすることになるとは夢にも思っていない。ただ、触発されたことだけは確かである。

既に武蔵はこの年の日本語のテーブルトピックスコンテストを開催することになっており、チャーターしたことでコンテストの日に認証式であるチャーターセレモニーを行うことも正式に決定した。チャーターした日の翌日が第24回例会で、早速クラブの予選会が行われた。優勝は9月に入会されたばかりの田口氏であったが、当日は参加できないとのことで、3位の佐藤氏が出場者に選ばれた。

翌週にはさいたま国際フェアへの参加が控えており、チャーターした喜びに浸るのも束の間であった。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 19:52 | 1999年後半

[武蔵編] 恒例・横浜での合同例会

9月4日土曜日、毎年恒例となった首都圏日本語クラブの合同例会が、横浜の国際交流ラウンジで行われた。前年は千駄ヶ谷での開催だったが、今年はまたはまクラブの本拠地ヨークでの開催となった。普段は内陸の場所での例会ばかりなので、たまに土曜の昼下がり、港町ヨコハマでの例会に参加するのは気分転換にもなってよかった。

参加クラブは江戸、はま、東京バイリンガル、武蔵の4クラブで、私は武蔵として参加した。この合同例会には、江戸クラブ3代目大統領のルーマン氏や、湘南クラブ創設者でこの頃はまクラブにも入会されていた小林H氏の姿もあった。小林H氏とは後にリーダーシップクラブで活動を共にすることになるのだが、この頃はまだ藤沢のコンテストでお目にかかった程度の関係だった。

司会進行ははまの本郷氏、テーブルトピックはミスリンスキー氏が行った。ミスリンスキー氏は厚木座間クラブのメンバーで、はまには数年前より参加されていた。以前はまに訪問にした際に私のスピーチへの論評をして頂いたこともあった。スピーチは各クラブ1名ということだったが、武蔵は予定していた川上氏が欠席されたので、急遽私がすることになった。即興スピーチということで、「帰りたい」という題で、自分のこれまでを年代別に振り返るという、どちらかといえば普段あまりやらない内容で話した。論評ははまの太田氏にして頂いた。

総勢16名という、例年に比べて参加者数の少ない合同例会となったが、各クラブの状況を考えれば、妥当な人数とも言えた。合同例会自体は、翌年ディストリクト体制になってからはエリア合同例会というスタイルに形を変えて実施されることになる。したがって旧体制での合同例会としてはこれが最後となった。今は無きヨークと、その会場設備の関係から来る形式で行われたアメリカンなスタイルの例会が懐かしい。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 18:52 | 1999年後半

[武蔵編] 埼玉新聞の取材を受ける

8月の例会はお盆休みを避けて5日の第1木曜に開催された。第20回となるこの回には、埼玉新聞の記者が取材に来るということが知らされていた。武蔵としては立ち上げ時に次いで2度目の新聞社の取材である。今回の取材は、埼玉新聞の長年の読者であった近藤氏の働きかけにより実現に漕ぎ着けたものであった。

唯一の懸念は、8月ということで参加者が少ないことが予想されたことである。案の定当日は記者の方を含めて9名という状況だったが、パイザー会長を始めとして、スギモト、梅本、川上、近藤、佐藤などの主要メンバーが揃っていたので、例会自体はいつも通りに進めることができた。今夜のトーストマスターは佐藤氏が努め、テーブルトピックが私、スピーチは入会したばかりの今井氏、川上氏、近藤氏の3名が行った。アイスブレーカーを含めて3つの異なるスピーチを披露することができたのが、トーストマスターをアピールするという点ではよかった。

例会後、記者の方は主に女性、外国人を中心にインタビューを行っていた。新聞記事とした場合はその方がやはり受けるのだろう。淡々と取材されていたので、少し寂しい印象を持たれたかな、と思っていたのだが、後日掲載された記事を読んでその思いは払拭された。例会内容、トーストマスターズのことが的確に紹介されていたからだ。
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地方紙のためか扱いは大きめで、発起人である梅本氏の想いやテーブルトピック、スピーチ、論評のシステム、さらには当日のスピーチの内容にまで触れていて、申し分のない出来であった。

地方紙なので、どれ位の人にアピールできたのかは不明だったが、反響は少なからずあった。新聞記事掲載以降の例会では、埼玉新聞を見てきたという見学者の方が複数名あり、9月には5名の入会者を迎え、ついに念願のチャーターを果たすことになった。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 17:42 | 1999年後半

[江戸編] されど受難の日々

7月27日の第232回例会以降、年末に至るまでは出席者が会員、ゲスト含めて1桁台の例会が続いた。江戸クラブ受難の年となったこの年度を最も的確に示す状況であった。会に勢いがないときはこんなものなのだろう。人数が揃わないので定刻には始まらず、毎回のスピーチも1,2本という有様では、会長の意気込みも空回りするだけであった。

例えば7月27日の例会では、スピーチ2本の予定が1名欠席で1本となり、例会が何と20時15分で終わった。2時間の例会で45分も余るという状況では、いくら場をつなぐにしても長すぎる。皮肉にも今夜の言葉は「繁栄」。2次会が反省会となったのは言うまでもない。

続く8月3日の例会は会員4名、ゲスト2名という体たらくで、私が江戸に入会した以降での最低記録となった。もっとも旧やまのてクラブでの会員2名、ゲスト4名という記録もある。この日は事前より欠席者多数になることはわかっていたが、夏休みとはいえお寒い状況であった。こんな日に限って女性ゲストが2名も来たりするのだが、このような有様では勧誘するのも虚しかった。ただ、この日来た女性ゲスト2名、川浪氏と赤根氏は後にキーフォースクラブへ入会することになる。特に赤根氏とはこの後リーダーシップクラブで再会し、さらに響クラブ設立にも協力して頂くことになるのだから、そういう点ではこの日の例会は記念すべき日になった。

その後、9月、10月頃までは、開始時刻が19時15分前後、参加者6~8名、ゲストなしという日々が続いた。参加者が6名ちょっとということは、つまりほとんどが役員というわけで、当時の江戸クラブの最も濃いメンバーだけで例会をこなしていたことになる。だから例会が退屈になることはなかったが、例会の予定表はあくまでも全員参加を想定して役の割り当てをしているので、毎回予定通りに行かないのは教育担当としては忸怩たるものがあった。9月の半期報告では、17名更新ということで本部には報告したが、半分は幽霊会員で音沙汰のない方ばかりであった。大嶋R氏の登録もこの時点で抹消した。
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by inv-pyramid | 2008-03-18 04:48 | 1999年後半

[江戸編] 涙のロッカー抽選会

7月6日は江戸クラブ例会と並行して千駄ヶ谷社教館の利用者懇談会が行われていた。役所の年度代わりに合わせて、この頃は例年7月の第1火曜日に懇談会があった。この前年までは、登録代表の中野氏に出席をお任せしていたのだが、この年は私が江戸例会を途中抜け出して出席した。社教館祭りで職員の方々と懇意にしていたこともあり、また中野氏の関与が以前と比べて難しくなっていたこともあったが、ロッカーの抽選という一大事を他人任せにしておくことに抵抗があったことが一つの理由でもあった。自分が出ればロッカーの抽選に当選するという強い確信はなかったが、自分の目で抽選会を見ておきたいという欲求もあった。

利用者懇談会は、社教館の利用団体が年度初めに集まって、各団体の紹介や館長の挨拶、社教館祭りの相談、意見交換などを行う場だったが、各団体の関心事はロッカーの抽選会にあることはありありで、抽選会の時間になると参加者間に緊張が走った。私は江戸とさくら両クラブを代表していた。この年度は館長の交代があり、新館長がくじを引いていた。新館長は利用者に気さくに対応されていた前館長と比べると堅い感じの方で、前年度の様には行かないだろうな、という予感があった。これが後々の江戸クラブ最大の危機の伏線ともなった。

抽選の結果、涙を呑んで江戸は外れとなり、さくらは補欠当選となった。補欠当選とは、ロッカーに空きが出来たら繰上げで利用することができるというもので、事実上は外れと変わりなかった。こうしてこの年度も荷物の持ち運びが確定した。ロッカーは後に増設され、翌年度からは江戸クラブにもロッカーが割り当てられることになったが、この時は軽い失望感を味わって、私は懇談会場を後にした。
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by inv-pyramid | 2008-03-16 01:41 | 1999年後半