人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[江戸編] 転回、そして転落へ

7月6日の第231回例会で新年度が幕を上げた。新役員就任式を経て、会長は私から田中氏へとバトンタッチした。はまクラブや横浜クラブでの活躍を経て江戸へ移籍した田中氏なので、江戸の会長としても申し分ないと思われたが、今思えばそれが落とし穴でもあった。この回は私がプログラムの準備をし、田中氏が今夜のトーストマスターを務め、例会テーマを「江戸クラブ転回!」としていたのだが、後々の経緯を考えると転落への序章、と言えなくもなかった。今までに何度も述べたが、この年度は会長が2回交代した波乱の年度なのだ。日本がJTCからディストリクト76Pへと昇格する記念すべき年度の陰で、江戸クラブは2度に渡る会長交代劇を迎えるというのも皮肉なものであった。まさに盛者必衰であった。

長らく古参会員として江戸の入会順名簿のトップを飾っていた大嶋R氏は既に退会を表明し(但し会員権は残したままだったので実は休会)、事実上私が最古参となっていた。江戸の会員がほとんど全て入れ替わったわけである。江戸クラブは今年で創立20周年を迎えるが、10年以上会員権を保持している会員は一人もいない。江戸クラブという器は20年に渡って存在するものの、中身はすっかり別物ということ。ただそこにトーストマスターズの理念が連綿と受け継がれているからこそ、長きに渡り続いているのだろう。ちなみに第231回例会プログラムのメモの中に、小俣Y氏の名前があった。ちょうどこの回が初ゲスト参加で、以降断続的に参加され、一時途切れたものの最近また復帰されている。この様な方もいるという所に、20年の継続の重みを感じることもできる。

その長い歴史の中での、最初のどん底がこの年度に来たのは、何かの因縁だろうか。時に西暦1999年7月、江戸クラブの転落への緩やかな第一歩が始まろうとしていた。
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by inv-pyramid | 2008-01-28 19:07 | 1999年後半

[さくら編] 役員になる人、ならない人

例年5月から6月という時期は次期役員選出の季節である。TM憲章では役員選挙は5月の第1例会と定められているものの、これに沿っているクラブは少なく、特に人数の少ないクラブでは6月末になっても決まっていないという事例も多々ある。

さくらクラブの場合、エリアコンテスト運営以降はまた参加者が増えだして、人選には困らないように見えたが、5月の例会でその話が出だし、候補者選びが始まると表情が曇り出す人も見受けられた。ただ参加するだけならよいが、役員になるのは話が別、と考えるのがまずは一般的な反応だろう。候補者として名前が挙がっただけで、次の例会から来なくなるという極端な方もいた。

さくらの場合、結局次期役員が決まったのは6月23日の年度末最後の例会で、会長には私と同時期に入会していた斉藤氏、教育副会長には今期会長の梶谷氏が選出された。私は会場係を受け持った。私としては江戸や武蔵でも役員をしているので本当ならこれ以上の負担は避けたかったのだが、引き受け手がいないということと、正式に千駄ヶ谷社教館を正会場にすれば、江戸と同じになってむしろやり易いと考え、引き受けることにした。ただ、社教館のロッカーの抽選には惜しくも補欠当選となり、次年度はまだ毎回荷物運びをすることになった。

斉藤氏は当時まだ20代のカナダからの帰国子女で、クラブ会員としても歴代会長としても最年少、キャラクター的にも型に嵌らないユニークな存在で、クラブの雰囲気を変える可能性を秘めていた。実際にはその型破りな所が後々の問題を起こす発端にもなってしまうのだが、この頃はマスコット的な立場に収まっていて、クラブの雰囲気作りに一役買っていた。

クラブ役員というものは短期間で決まるものではないので、円満に決めるためにはそれなりの準備期間が必要である。人数の多い少ないも実際にはあまり関係なく、人数が多くても諸般の事情で人選が難航することもある。ただトーストマスターズのような自主運営の組織では、会員一人一人の自主性が全てなので、一人一人の参加がクラブ運営を成立させているということを、もっと認識する必要があるだろう。
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by inv-pyramid | 2008-01-13 18:51 | 1999年前半

[江戸編] コンテスト運営か、クラブ運営か

1998-1999年度の総会には、江戸からは私と次期会長の田中氏、常石氏が出席していた。総会でやることといえば、年次の活動報告と次年度の役員決定、コンテストの振り分け、エリア編成の問題などが相場であるが、中でもこの頃はまだクラブ数が少ないこともあり、各コンテストの運営クラブを決めることが一つのハイライトであった。現在の様な勝ち上がりシステムは、英語のスピーチコンテストのみであったので、総クラブ数の半数が運営クラブに決まれば、残りのクラブはコンテスト運営を担当しなくてもよかった。現在の様にコンテスト運営によるクラブの疲弊はまだそれほど顕著ではなかった。むしろ、コンテストを運営することが一つのステイタスになると考えるクラブの方が多かったように思う。そのため、一つのコンテストに複数のクラブが立候補した場合は、くじ引きで決めたり、共催にしたり、協議してどちらかが降りたりといった感じで、各クラブの思惑も絡んで、時間が長引くこともしばしばであった。

日本語クラブの場合、次年度は武蔵と東海がチャーターすることを念頭に置いて、この両クラブがコンテストを運営することが前提としてあった。江戸は田中次期会長との事前の申し合わせにより、次年度はコンテストの運営は担当せず、停滞期にあるクラブの立て直しに主眼を置くことにしていた。ただコンテストを運営しないことでクラブの立て直しが図れるかどうかは不明であった。前にも述べた通り、積極策を取るか、消極策を取るかの問題である。この翌年度は一転して、コンテスト運営を取って積極策に転じるわけだから、毎年のこととは言え、コンテストを運営するかしないかの選択はクラブの運営に大きく関わる。

次年度はJTCとしての最後の年度であった。日本語クラブのイベント運営は、

 ・テーブルトピックスコンテスト:武蔵
 ・ビデオテープスピーチコンテスト:東京バイリンガル
 ・論評ワークショップ&コンテスト:愛知
 ・ディベートワークショップ&コンテスト:春日井
 ・ユーモアスピーチコンテスト:はま
 ・スピーチコンテスト:名古屋

と振り分けられた。JTCから準ディストリクトへと昇格する年度ということで、この他にもイベントが目白押しとなった。とりわけ年末に台湾訪問ツアーが組まれたことは、その後の日台交流を加速させるものとして特筆すべきもので、両国のメンバーの往来が活発になる年度ともなった。

JTC時代には年間の特別功労者に送られる奥野記念賞(現在の Outstanding Toastmaster of the Year=最も活躍したトーストマスター賞)というものがあり、この年度は稲継氏が受賞された。稲継氏はTMの広報活動としてのホームページの整備、運用に尽力されていて、各クラブのホームページ作成のサポートもされていた。新クラブの立ち上げにも積極的で、次年度にはイースト神戸クラブをチャーターさせている。私にとっては複数クラブ立ち上げの先生とも言える方であった。

次年度のJTCガバナーには東京クラブのキルパラニ氏、教育訓練担当副ガバナーには関東クラブのストロガノフ氏と東海クラブの浪川氏が就任された。日本語のできる方がガバナーに就任されたことが日本語クラブにとっては明るい材料となった。
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by inv-pyramid | 2008-01-13 12:52 | 1999年前半

[江戸編] やさしい議事運営手順入門

藤沢でのAJSCの翌日、6月20日の日曜日に、この頃の定番会場だった横浜ランドマークタワーのフォーラムよこはまで、JTC主催の役員研修と年次総会が行われた。この頃はまだ役員研修も総会も年1回で、しかも必ずしもコンテストと同じ会場で行われるとは限らなかった。コンテストはあくまでも運営クラブが主体、総会はJTCが主体という感じで、現在のような春季大会としての統一感はなかった。そしてこれが私の江戸会長としての公式行事参加の最後のお勤めとなった。

前半が役員研修、後半が総会で、この年度は日本語クラブからガバナーが出ていることもあり、研修は日本語と英語に別れて、また総会は一部バイリンガルで行われた。前年度の役員研修と総会がほぼ全て英語で行われていたのに比べれば、ある意味画期的なことだったと思う。ただ、これに関しては年度で温度差があり、日本語クラブからの役員が少ない年度の時はまた英語中心の進行に戻ってしまったりでがっかりすることもあった。

役員研修では、田園都市クラブの斉藤氏による議事運営手順のワークショップが行われた。資料は英語、進行は日本語というバラつきもあったが、議事運営手順のワークショップが日本語で行われたこと自体がまず画期的であったと思う。斉藤氏による解説はわかり易く、また資料は英語ではあるものの議事進行の流れが斎藤氏独自のチャートによって手順が追い易く整理されていた。解説の後で3ラウンド程度、模擬的な議事進行を行った。日本語の方が分かり易いということで日本語のワークショップに参加された英語クラブの方もいた。この時のワークショップで学んだ内容が、私にとっては議事運営手順の原点であり、以降私も同様の手法でワークショップをさせて頂いている。

TMの議事運営手順ついては、クラブ創設の際にその手順に乗っ取ることを批准しなければならないことになっている。つまりクラブの会員になるということは、議事運営手順を理解しているということでもある。このワークショップを受けるまで私はクラブの例会で議事運営手順に乗っ取った議事を見たことはなかった。最近、日本語クラブでも割と行われるようになってきたが、本来はやって当たり前のことであり、また特に難しいことをやっているわけでもない。今はクラブ作りが盛んに行われているので、この様なことをもっと設立初期から極普通に行ってもよいと思う。否、行われるべきものなのだ。
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by inv-pyramid | 2008-01-09 20:46 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その4)

休憩終了後、インタビューの部に入る。インタビュアは湘南の福島氏と田園都市のフィッシャー氏。全員を舞台に上げて一人ずつ話を聞くスタイルで行われた。両端に福島氏とフィッシャー氏がついて、交互にインタビューしていく方式が取られた。インタビューの共通の質問事項は「お気に入りの言葉」。答えられた中で最も耳に残ったのは東西クラブから出場したラリー氏の「パス」。単純ながらTM的には意味深長な言葉であった。
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審査委員長の斎藤氏の講評に続いていよいよ受賞者発表。結果は3位:白石、2位:バーネット、1位:杉田の各氏となった。JTCガバナーの大嶋R氏より各受賞者にトロフィーが授与された。関西クラブから出場された杉田氏は前年代々木で行われたコンテストにも出場されていたが、この時は小道具を駆使されたにも関わらず入賞ならずで、今回はその反省からか過剰な演出を控えてスピーチされたのが印象に残っている。満を持しての優勝であった。その後のコンテストでは見かけなくなったが、先日関西クラブの方から伺った話では、高齢のためTMは既に引退されたそうである。
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受賞者発表の後、大嶋ガバナーの挨拶に続いて、湘南会長の岡本氏、田園都市会長の岡崎氏の挨拶で閉会となった。その後は会場を移してのパーティーが立食形式で行われた。

総じて何故このコンテストについてここまで鮮明に覚えているのかといえば、まず運営の準備、手際の良さが光っていたこと。そして全体の進行に破綻がなかったことが挙げられる。ゲストを迎え入れる姿勢、対応の良さにもきめ細かな所があった様に思う。ディストリクト体制となって、スピーチコンテストも世界大会への道が開かれた現在では、AJSCも一つの通過点となってしまったきらいがある。また開催に関しても予算面その他の部分でTMの制約に縛られ、あれこれ注文が付けられる面もあり、自由度が少なくなった。その点からみてJTC時代のコンテストには、まだ運営クラブの独自性を反映させる余地があったと思う。それでいて当時のTMのやり方に沿って行われたこの藤沢でのAJSCは、私にとってコンテスト運営の原点となった。
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by inv-pyramid | 2008-01-03 19:16 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その3)

さて、6月19日当日である。この日は生憎の小雨模様であった。会場が藤沢ということで、埼玉在住の私は新宿からロマンスカーに乗って藤沢に赴いた。藤沢市民会館は藤沢駅の南側、東急ハンズ(当時)方面にあり、少し歩くと途中から田園都市の方が道案内に出ていた。なぜ、東急ハンズが出てくるかというと、以前アルバイトでこの辺まで来たことがあったからである。そのため少々懐かしさがあった。
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開場は13:40から。小ホールには既に多くの人が入っていて、総入場者数は400人になったという噂を後で聞いた。所謂典型的な地方の市民会館の小ホールなので、階段式の座席で照明はやや暗め、座席はシアター形式なので、それほど広さは感じない分、人がある程度入るとそれなりに入場者があるように感じた。座席後方にはテレビカメラと思しき大型のカメラが設置されていた。私は写真撮影のため最後尾に陣取っていた。

コンテストの進行は、総合司会とコンテスト委員長を分けるやり方で、コンテストパートのみをコンテスト委員長が仕切り、その他を総合司会者がコントロールしていた。総合司会者は田園都市の望月氏。会場の左端の司会者用演台で開会宣言の後、まずハリスの"Opportunities"と題された基調講演が始まった。前述の著作をベースとした15分程度の短いスピーチであった。続いてコンテスト委員長である湘南の五十嵐氏が紹介され、ここから司会者が交代。張りのある声で会場の雰囲気が微妙に変化した。審査委員長は田園都市の斎藤氏で、ルール説明の後コンテストがスタート。出場者は各エリアから2名ずつのはずだったが、エリア5(西日本地区)が1名のみとなったため、9名で競われた。横浜クラブのバーネット氏を皮切りに、エリアコンテストで関わりのあった福井、ラリー、白石各氏のスピーチが続き、9人目梅本氏のスピーチで締めくくられた。

ここで一つのアクシデントが発生した。エリア4代表として出場したギボンズ氏がスピーチの途中でスピーチ内容を忘れてしまい、自ら棄権を宣言して退場してしまったのだ。ストップモーションが長く続いたので、最初は演技かと思い、聴衆も固唾を飲んで見守っていたが、最悪の結果になってしまった。しかし全員のスピーチ終了後、関係者の協議によりギボンズ氏に再演のチャンスが与えられ、今度は最後までスピーチを終えることができた。現行ルールではこのような温情は与えられないと思うが、この時ばかりは関係者判断に喝采を送りたかった。ちなみにこの時が私がギボンズ氏の姿を拝見した最初の機会であった。
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コンテストスピーチ終了後に休憩となり、ロビーにて運営クラブからの飲み物の提供となったが、この時の配給の仕方がとても細やかで、小瓶のジュース類を並べたテーブルで、ゲストの要望に従って一人一人栓を抜いて渡すというものである。小瓶であるから量的にはかなりの量が用意されたはずだが、湘南、田園都市とも人数の多いクラブのためか、それに見合った人員を投入しての対応が見事であった。
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by inv-pyramid | 2008-01-03 12:00 | 1999年前半