人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


by inv-pyramid

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ

2000年後半
2000年前半
1999年後半
1999年前半
1998年
1997年
1996年
1995年
1994年
1994年以前

以前の記事

2012年 09月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 01月
2009年 11月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 04月
2009年 01月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月

フォロー中のブログ

津田沼トーストマスターズ...
Utsunomiya T...
話し方で四季を彩る 大田...
調布フリーフライトトース...

メモ帳

最新のトラックバック

検索

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧

<   2007年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その2)

湘南クラブと田園都市クラブの合同例会は11月14日に、田園都市クラブの例会場である青葉国際交流ラウンジで行われた。私は完全な部外者だったが、田園都市クラブとしては2度目の訪問ということもあり、私の事を覚えていてくれた方もいらしたので安堵した。両クラブは雰囲気的に似た所があり、合同例会に参加しただけではクラブの差異は掴めなかった。この合同例会に参加されていた方々とは因縁浅からず、後に色々な所で協力して頂いたり、活動を共にした。湘南では、岡本、五十嵐、大町、諏訪、田辺、矢野、谷岡らの各氏であり、田園都市ではフィッシャー、斎藤氏らである。湘南の方が多いというのも何かの縁だろう。個人的にはかつて茅ヶ崎に住んでいたこともあるので、藤沢辺りは馴染みがあった。2次会も参加したが、この時点では一人一人とはそれほど話す機会はなかった。やはり顔だけでも出しておくということが重要なのだ。

正式なAJSCの案内は、翌年の2月に各クラブに送られた。岡本氏と岡崎氏の直筆による連署で送られた案内状は、私にとってはコンテスト案内状の見本とも言うべきもので、私が運営主体になった時のコンテスト案内状は、この案内状の書式をそのまま流用させて頂いている。国際本部発行のコンテスト運営ガイドはあるが、運営サイドが本当に知りたい細かい部分はやはり過去の例を参考にする他はない。学ぶべき所が多かったのが私にとってはこのAJSCであった。

4月になって案内の第二報が同様の書式で届いた。第二報では参加申し込み書や会場案内図などが同封されており、また基調講演として、この直近に「欧米流スピーチのすすめ」と題された本(日本語)を執筆された、TMメンバーでもあるGハリス氏を招待することが紹介されていた。
b0108857_17514740.jpg

実はこの案内と前後するかのように、3月にハリス氏から直接私の所へこの著作が届けられた。AJSCとの関連、各クラブ会長宛てに送られたのかなどは一切不明で、送付状には私の名前がタイピングしてあった。恐らくは各クラブへ一冊ずつ贈呈されたものだと思う。送付状によれば、ハリス氏はブレックファストクラブの創立メンバーで当時はATM。この著作はタレントの生島ヒロシ氏との共著で、「日本人がスピーチべたなのは特別な練習をしたことがないから」という前提の下で、欧米流スピーチ術、つまりTMでやっているようなことを手ほどきした内容だった。生島氏は実際にTM例会を訪問されていて、その時の体験も反映されている。本著のある章でも、「トーストマスターズ エキスパートへの道」と題されて、TMのプログラムの紹介がされている。

これは余談だが、本著のある章で「触れてはいけないタブー」ということで、ハリス氏が「国際社会では特に政治、宗教、民族、人種、セックスに関する話題は避けるべきでしょう。(中略)私が全日本ユーモアスピーチコンテストの主任ジャッジを頼まれたときの経験ですが、日本人スピーカーの半数以上がトイレ及び下半身に関してのスピーチでした。外国人聴衆はみなびっくりしていました」という下りがあった。スピーチに関するタブーについてTMのマニュアルのどこかに書いてなかったかとつい最近まで調べていたのだが、この本に書かれていたのか、と今改めて思った次第である。

本著は各クラブ例会でも盛んに取り上げられていて、この本を読んで見学に来た、というゲストの方もこの頃は結構いた。本の影響力というのは流石である。ハリス氏に実際にお目にかかるのは2ヵ月後のことであった。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-30 17:20 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その1)

"AJSC"=All Japan Speech Contest。日本語では全日本スピーチコンテスト。現在は、International Speech Contest(国際スピーチコンテスト)の District Revel として行われている年に一度の全国大会は、JTC時代はこう呼ばれていた。これは既に何度も述べた通りである。言うなれば日本選手権となるこの大会こそが、当時の日本国内でTMとしてのナンバーワンスピーカーを決めるイベントであった。当時はまだ日本語と英語のコンテストは別々に開催されるのが常であり、英語コンテストは6月に行われていた。そして1999年のAJSCは湘南クラブと田園都市クラブの共催で行われることになっていた。

私は1994年以降の事情しか知らないので、私が参加したコンテストで判断するしかないが、今までに参加したコンテストの中で最も成功した例がこのコンテストだったと信じて疑わない。それだけ鮮烈なものを感じた。これ以降主として私が運営したコンテストは全てこのコンテストをお手本としている。ここでは、その運営に敬意を表して「湘南&田園都市編」として、AJSC1999 の顛末を簡単に振り返ってみたい。

この年度、1998-1999年度の湘南クラブ会長は岡本氏、田園都市クラブ会長は岡崎氏。岡本氏についてはまた後で詳しく触れたいと思うが、新クラブ設立やエリアガバナーとしての精力的な活動は言うに及ばず、現在も日本語委員会の中心メンバーとして、日本語マニュアルの整備に尽力されているのは周知の通りである。岡崎氏は会長職に就く前に江戸クラブを何度か訪問していた。この辺の経緯は「触発」の項で述べたが、その時に田園都市クラブについての情報を色々伺っていたので、私もクラブ訪問に出向いてみようという気になった。

AJSCの準備は既に年度初頭から始まっていたようで、1999年6月19日に藤沢市民会館で行うことが決まっていた。私は7月に1度田園都市クラブを訪問したが、湘南クラブと合同例会を行うという情報を岡崎氏から得ていたので、興味を覚えて11月の合同例会にも参加した。AJSC共催の前に両クラブの交流を深めておこうというわけである。その前に岡本氏からは8月の時点で各クラブ会長宛で、コンテストのお知らせを兼ねた湘南クラブ会報が届けられており、これがAJSCの開催を告げる第一報となった。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-30 16:33 | 1999年前半

[武蔵編] 学生でTMになるということ

武蔵クラブの特徴として、学生会員が多かったことが上げられる。5月に入会した近藤A氏が武蔵としては初の学生会員(留学生は除く)だったが、6月になってまた一人学生の入会者が現れた。高木S氏である。入会のきっかけはインターネットで調べてとのことで、6月10日の第16回例会が初見学であった。奇しくもこの前の例会で入会された近藤K氏と同じT塾大生ということで、通学とは無縁な武蔵野線で見学に来たという熱心さだった。

初見学の日のことはよく覚えている。会議室の後ろの方で、人数が少ないにも関わらず、机から椅子を少し離して控えめに座っていた。例会後にコメントを促しても緊張しているのかおどおどした感じで、第1印象としては入会は難しいかなと思ったものだ。しかし次の例会にも参加して結局入会することになった。私のスピーチに対してコメント用紙に細かい字で丁寧に感想を綴ってあるのが今見ると懐かしい。高木S氏はその後就職して都内に引っ越すことになり、武蔵は退会することになったが、やまのてクラブ設立の際に、現住所が近所ということでやまのてに誘い、以降やまのて会員として現在まで活動を続けている。

学生でTMを知り、入会するということはとても有意義なことであり、社会人に混ざってスピーチや論評をこなしていくのは、コミュニケーションのみならず良い勉強になると思う。我々もまた学生会員と活動を共にすることで、物事の考え方が一面的にならず、年齢、世代を超えた付き合いを通して学ぶことがある。何より長い付き合いを通して、学生から社会人へと続く彼らの成長の過程を見守り、見届けることができるということは我々にとっては貴重な体験である。

自分の成長のみならず、他人の成長を見守るということ、トーストマスターズに参加することで得られるものは計り知れない。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-24 19:48 | 1999年前半

[東京BL編] 不滅のトーストマスターズ

6月15日の例会で東京バイリンガルクラブを去ることにした。理由としてはやはり4つのクラブに参加して、月8回の例会に出席することの心理的負担が大きくなったからである。じゃあ今はどうなの、という気もするが、当時はまだTM以外の活動も平行して行っていたので、首が回らなくなったというのが本音だ。8年前のこの頃はまだ習い事や他のネットのオフ会、趣味である山やスキーなども盛んに行っていた。幸いにして東京バイリンガルでは役員をしていなかったので、他の3クラブに比べて退会し易い環境にもあった。

クラブの質の変化というのもある。私が入会した頃に比べるとメンバーも半数近くが入れ替わり、特に外国人と女性会員の激減が目立った。日本に定住していない外国人ビジネスマンの場合、やはり任期を終えると帰国されてしまうので、たまたま私が在籍していた時期が、その手の外国人会員が多かった頃なのだろう。外国人がいなくなると潮が引いたようにクラブの雰囲気も地味な感じに変質した。

というわけで、多少の思い入れを残しながら、最後の例会では日本語の部の今夜のトーストマスターを自ら買って出た。私の性分として、幽霊会員になって自然退会ということは考えにくく、それなりの筋を通して辞めたかった。この日の例会はちょうど英語、日本語という順であり、例会の最後に退会の挨拶をして締めるという流れで行くことにした。従ってプログラムにも「今宵限りのトーストマスター」と入れていた。最後の挨拶は巨人の長嶋元監督の「巨人軍は永久に不滅です」のフレーズを引用し、「トーストマスターズは永久に不滅です!」と叫んで結んだ。

退会宣言はしたものの、東京バイリンガルクラブとはこの後も合同例会やエリアガバナーのクラブ訪問などを通してしばらくの間は関わっていた。次年度の会長は石津氏に決定したが、クラブが下降線を辿り始めたのは残念なことであった。しかし低迷しながらも生き残って8年後のまさかの私の復帰に繋がるのだから、やはりトーストマスターズは不滅です、と言うほかはない。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-20 12:54 | 1999年前半

[江戸編] 料理室で納会

6月に入り、私の江戸会長の任期も残りわずかとなった。4月以降新たな会員を迎えて一時的に盛り返したかに見えたが、同時に退会者も多数出ることになり、差し引きゼロという感じだった。この時期は英語クラブからの入会者が多く、東京から榊原、川崎氏、関東から小俣氏、それに八王子で武蔵の滑川氏と英語の会で一緒に活動しているという近松氏の入会などがあった。コンテストなどを通じて交流の機会が増えたことによる効果であった。

1日の第229回例会では次期役員の発表があり、次期会長には田中氏が選出されることになった。私は教育担当で役員会に残留、榊原氏が会員担当、池田氏が広報担当で、書記:常石、会計:蓑田、会場:砂川という布陣になった。但し、この陣容は長くは続かず、江戸クラブ存亡の最大の危機を迎えることになる。これについてはまた後述したい。

続く15日の第230回は年度末最後の例会ということで、初の試みとして料理室で実際に料理を作り、納会を行うことになった。納会といえば普通は年末に行うものだが、TMの年末は6月ということで、少し意図的かつ実験的な要素も含めて納会をやってみたいと思っていた。また個人的には上級マニュアルの食後のスピーチを行う目的もあった。スピーチクラブが料理室を使うことに関しては、会場予約の際に「食事をしながらのスピーチの練習のため」という口実を設けていた。それは別に偽りではないので、気にすることはなかったが、料理室で本当に料理をするのは初めてだったので、器具の使い方やゴミなどの後始末などには気を遣った。

料理については私が3品を作った他、池田氏や川崎氏などの料理自慢の会員が自作を披露した。肝心のスピーチは「恩人」という題で、私がこれまでにお世話になった方々に謝辞を述べるという内容で行った。料理を作りながら、そして食べながらの例会ということで多少まごつきながらの進行だったが、余興もあり楽しんで行えたのが良かった。これ以後数年間、6月の納会はこのスタイルが維持された。

また前回とこの回を持って、大嶋R、野島、パイザーM、川崎の各氏が退会されることになり、一つの終止符が打たれようとしていた。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-16 23:01 | 1999年前半

[名古屋編] エリア4論評&スピーチコンテスト(後編)

昼食を挟んで午後からはスピーチコンテスト。論評コンテストと同じく各クラブから2名ずつ8名の出場者での競い合いとなった。女性陣の活躍が特に目覚しく、優勝は職場におけるセクハラなどの問題を扱った東海クラブの加藤氏。加藤氏はチャーター時の東海クラブ会長を務められ、この後翻訳委員会やディストリクトの役員などを精力的にこなされていった。その出発点がこのコンテストでの優勝であった。またTMと家庭の関係を話されていた関井氏は以前さくらクラブに所属されていたそうで、転勤で名古屋へ来られて名古屋クラブに入られたとのことで、以前のさくらクラブのことなどをお聞きすることができた。やまのてから東海に移られた鎌田氏もそうだが、東京から名古屋に転勤されて、こちらのクラブに入られる方は結構多く、江戸の孫氏や鈴木氏など、これ以降ももそのような方々とお会いすることがあった。
b0108857_18393875.jpg

このコンテストで個人的に気になったのは、舞台正面に飾られていた大会看板で、ビニール地にTMのロゴなどが印刷されていた。国際本部でカタログ販売されているのかな、と思っていたら、名古屋クラブで作ったものだそうな。名古屋地区のコンテストでは使い回されているらしく、以後のコンテストでも何度も見かけた。
b0108857_18394833.jpg

コンテスト後は懇親会まで時間があるとのことで、山中氏と浪川氏に犬山の観光名所を案内していただいた。定番は何と言っても犬山城で、城の展望台からは犬山市内が見下ろせた。懇親会は犬山駅前の魚民で行われ、普段お目にかかることのできない方々と話を咲かせた。この後1,2年間が名古屋詣の最盛期で、名古屋地区の方々とは交流を深めていくことになった。熊本、名古屋と立て続けに訪問したことで、日本語クラブは関東だけで盛り上がっているわけではないことを実感できた。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-16 18:39 | 1999年前半

[名古屋編] エリア4論評&スピーチコンテスト(前編)

さて、話をエリア4コンテストに戻そう。このコンテストは大嶋ガバナーが参加するというので、私は江戸会長としてそのお供も兼ねていた。大嶋ガバナーによれば、「名古屋地区は最近元気がないのよ」ということだった。確かに以前は頻繁に名古屋地区の方々が江戸やはまに訪れていたが、1998年~1999年頃はやまのてOBで現東海クラブの鎌田氏が時折コンテストに顔を見せる程度だったので、私も気にはなっていた。そこへこの話が舞い込んで来たので、この機会に一度名古屋を訪れてみようという気になったのだ。

当日は午前が論評コンテスト、午後がスピーチコンテスト、夜が懇親会というハードスケジュールだったので、私も朝5時起きで家を出発。東京から新幹線に乗り、新横浜で大大嶋ガバナーと合流して名古屋到着。ここから名鉄に乗り換え一路犬山へ。犬山はもちろん初めてであった。犬山観光センターフロイデという国際交流施設が当日の会場で、ここは名古屋地区の方々がイベント会場に利用する場所らしく、私もこれ以後は何度も訪れることになった。会場では既に顔馴染みになっていた名古屋クラブの方々や山中エリア4ガバナー、春日井の重鎮嶋田氏、江戸OBの浪川氏らが迎えてくれた。
b0108857_1632294.jpg

名古屋クラブ犬塚氏の開会宣言後、山中ガバナー、大嶋ガバナーの挨拶が続いた後、予定にはなかったが私もゲストとして挨拶した。この後、午前はまず論評コンテストが行われ、名古屋、春日井、愛知、東海の各クラブから2名ずつの出場者を出してのコンテストが始まった。テストスピーチは愛知の松浦氏が担当。和菓子屋を営む松浦氏のスピーチは、お店の和菓子の新作をOHPを使ってPRするというもので、和菓子の写真などを見せながら、風情を感じさせてくれた。
b0108857_16322248.jpg

この後8名の出場者が論評を披露、結果は3位犬塚氏、2位伊藤氏(春日井)、1位大塚氏(春日井)という結果であった。司会は春日井クラブの伊地知氏が担当された。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-16 16:20 | 1999年前半

[名古屋編] 日本語クラブ発祥の地

エリア2とエリア1の合同スピーチコンテストが行われた日の翌日5月16日に、今度は中部関西地区となるエリア4で、日本語の論評とスピーチのコンテストが愛知県犬山市で開催された。これは以前熊本での全日本スピーチコンテストの際に、名古屋クラブの山中氏からお聞きしていたもので、エリア4の各クラブの親睦を深めるために行われたローカルイベントであった。全日本コンテストが普段遠隔地で行われていて、なかなかコンテストに参加できない会員のための動機付けの意味合いも含まれて企画されたものでもあった。

この頃のエリア4は中部が日本語とバイリンガルクラブのみ、関西が英語クラブのみと棲み分けされていて少々異色のエリアであった。特に中部は愛知県に4クラブがあるのみで、その両隣は東京と大阪まで飛んでいた。愛知県は日本語クラブ発祥の地であり、日本語クラブの歴史を語る上で忘れてはならない地域である。ここで少々日本語クラブの歴史を振り返ってみたい。

江戸OBで現東海クラブの浪川氏が以前まとめられた資料によれば、1982年に名古屋クラブがまず産声を上げた。現在は犬山に近い扶桑町で例会を行っている名古屋クラブだが、設立当時は名古屋市に所在していた。このためよく言われるのが、名古屋で例会を行っていないのに何故クラブ名が「名古屋」なんですか、という質問である。これはこのような事情による。日英のバイリンガルになったのは後年のことで、バイリンガルクラブとしても最初のクラブである。続いて1983年に春日井クラブ、1985年に愛知クラブが誕生した。この2つは同じ会場で同じ日に午前と午後に分かれて例会を行っており、「トーストマスターズ」という同じ名称では団体登録ができないので、愛知の方は「愛知スピーカーズクラブ」という名称にしていた。TM登録上はもちろんトーストマスターズクラブである。この2つに続いて出来たのが熊本クラブで1987年の創立である。そして1988年の江戸クラブ創立へと続く。同じ年に中部クラブが活動を始めたがチャーターには至らなかった。

翌年の1989年には、はまクラブ、東海クラブがスタート。東海クラブは中断時期を経て1996年に活動を再開、1999年に武蔵クラブと仲良く念願のチャーターを果たした。この間、1992年に西宮クラブ、1993年に東京バイリンガルクラブ、旧やまのてクラブ、1995年に肥後クラブ、1996年に高松クラブがそれぞれ活動を始めたが、チャーターに至ったのは東京バイリンガルとやまのて、肥後のみである。20世紀に誕生したクラブは以上で、21世紀以降についてはまた後述したい。ここでは日本語クラブ発祥の地は名古屋であるということ、日本語クラブは誕生から既に26年が経過しているということを胸に留めておきたい。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-12-15 20:31 | 1999年前半