人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


by inv-pyramid

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリ

2000年後半
2000年前半
1999年後半
1999年前半
1998年
1997年
1996年
1995年
1994年
1994年以前

以前の記事

2012年 09月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 01月
2009年 11月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 04月
2009年 01月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月

フォロー中のブログ

津田沼トーストマスターズ...
Utsunomiya T...
話し方で四季を彩る 大田...
調布フリーフライトトース...

メモ帳

最新のトラックバック

検索

タグ

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧

<   2007年 10月 ( 8 )   > この月の画像一覧

[熊本編] 温泉×阿蘇山×宮本武蔵

熊本編も私の思い入れとともに5回連続で綴っているが、この項で最後にしたい。コンテスト翌日は朝から嶋村氏の案内で熊本城見学となった。泊まったホテルが熊本城の目の前にあり、徒歩数分で城に辿り着いた。
b0108857_0433517.jpg

城の中は博物館になっており、熊本縁の歴史の遺物を色々と見学、最上階の展望台に上がって景色を楽しんだ。前日とは打って変わっての晴天で汗ばむ陽気となった。

熊本城から帰った後は、チェックアウトして、帰りの飛行機の便までいくつかのグループに分かれて観光に出かけることになった。だいたい前日の内にグループが出来ていた様で、パイザー夫妻、本郷氏は熊本クラブ宮本氏の車で温泉へ、渡辺、松崎、東、矢浪氏らは嶋村氏の車で阿蘇山方面へ、そして私は連れと共に午前中は市内観光、午後は粟田氏の案内で宮本武蔵が座禅を組んだという大きな石や五百羅漢像を観て回った。
b0108857_0555155.jpg

そうこうしながら途中の出店で遅い昼食を取ったりして、熊本空港に集合、帰りの便の時間までその日の報告をしたりしながら別れを惜しんでいた。阿蘇山組は阿蘇まで行こうとしたが、時間切れで草千里までで断念して引き返したとのことだった。温泉組は観光には目もくれず、ひたすら湯に浸かっていたらしい。
b0108857_104590.jpg

かくして熊本ツアーは終わった。この熊本行は私のTMへのモチベーションを一気に全国、そして海外へと向ける良い機会となった。色々な意味で思い出深きイベントであった。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-26 00:42 | 1999年前半

[熊本編] 熱き熊本の夜

さて、コンテスト会場となった熊本テルサは市中心部よりやや外れた所にあったので、2次会場へ移動するため、まずタクシーに分乗して宿泊先である熊本城近くのホテルへ移動して荷物を降ろした後ロビーに集合し、全員でアーケード街を歩いて、熊本の銀座にある居酒屋「一気」へ向かった。会場には既に先行した熊本、肥後クラブのメンバーと台湾の方々が到着していた。
b0108857_1273323.jpg

乾杯の後、しばし歓談してクラブごとに自己紹介をした。私は名古屋勢の山中氏、ピアース氏、鎌田氏らの近くに座っていたので、主に名古屋勢の近況を尋ねていた。山中氏とは横浜での合同例会以来の再会で、この年はエリア4のガバナーをされており、今回のコンテストでも審査委員長を務められていた。なんでも今回の参加は強行軍で、名古屋~熊本間を往復とも夜行バス利用だという。しかも翌日の名古屋クラブ例会に参加するとのことで、ピアース氏ともども自己紹介が済むと足早に会場を後にされていた。この時得た情報では、6月に名古屋地区の4クラブ合同でのエリアコンテストを企画しているとのことで、私も参加したい旨を伝えた。
b0108857_1274848.jpg

熊本クラブは何年もメンバー構成に変化がなく、その組織だった行動と団結力の深さのようなものはこのコンテストでも感じていた。古参メンバーの津出氏や粟田氏、森口氏や甲斐氏などは以前のコンテストでも顔を合わせていたが、話をするのは今回が初めてだった。聞けば熊本のメンバーは熊本を中心とした周辺地域から参加している方が多く、例会にはほとんどが車で来るとのことだった。よってこのコンテストで我々をエスコートするためにホテルに泊まられている方もいた。

台湾のメンバーも今回の訪日はコンテスト参加だけでなく、九州観光も兼ねているとのことで、小1時間ほどで先に帰られた。残ったメンバーでしばらく飲んだ後、ホテル帰参組と3次会組に分かれて、熊本の有志と関東勢の有志で熊本の銀座へ繰り出して行った。実はこの日はあのトルシエジャパンのサッカーU20W杯の決勝が夜中に行われる予定で、サッカーフリークの東氏や梅本氏は観戦のため先に帰られた。
b0108857_1291736.jpg

3次会終了後はとんこつラーメンで締めようということになり、熊本のメンバーがとんこつラーメンならここ、という店に連れて行ってくれた。本当にラーメンとは思えないあっさりした味は締めにはちょうどよかった。

長く熱い熊本の夜はこうして終わろうとしていた。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-25 01:28 | 1999年前半

[熊本編] 全日本スピーチコンテスト・許されし試み

かくして1999年4月24日14時から、熊本での全日本スピーチコンテストが始まった。JTC時代の日本語コンテストであるため、コンテストルールについては寛容で、台湾の方の出場も認められた。これによりコンテストは日台交流戦の色合いも濃くなった。くじ引きの時に並んだ出場者の数は総勢12名で、内台湾のメンバーは3名だった。私はよりによってトリを務めることになった。

大嶋ガバナーが欠席となったため、JTCの主賓はエリア5ガバナーの大石氏が務めた。総合司会は最近ではエリアやディビジョンのガバナーとしてすっかり全国区になられた嶋村氏、コンテストの司会は田代氏が勤められていた。このコンテストは初の日台交流コンテストという記念すべきものであるため、12名の出場者とスピーチの題名を紹介しておきたい。
    
東(はま)            「蛍を最近みたのはいつですか?」
ピアース(名古屋)       「菊と刀」
陳(サクセス)          「旅行の思い出」
黄(パシフィック)        「ゴキブリの歌」
甲斐(熊本)          「今さえよければ?」
鎌田(東海)          「旅の思い出」
パイザー(東京バイリンガル)「なぜ」
川上(武蔵)          「弟」
李(サクセス)         「ネズミ捕り物語」
松崎(東西)          「思い出にかわるまで」
永松(肥後)          「少年の非行増加を防ぐには!」
小原(江戸)          「走れメロスのように」

優勝は松崎氏、2位東氏、3位陳氏というのがその結果であった。この他特別賞が設けられ、ベストドレッサー賞が黄氏、ベスト共感賞に川上氏、そしてベストパフォーマー賞に私が選ばれた。特別賞の商品は熊本の名産品で私が頂いたものは馬刺し。他には熊本西瓜など、トロフィーよりもこちらの方が良かったかも知れない。
b0108857_194651.jpg

優勝した松崎氏のスピーチはアメリカ留学時代の恋物語で、ロマンチックな話が軽やかな身振りと共に伝えられて文句なしの1位という感じであった。2位の東氏も身振り、声共によく、共感できる内容、3位陳氏は青春時代の台湾での旅の思い出を印象深く伝えられたのが良かった。特別賞は、黄氏のドレッサー賞は小道具に使われたメロンパンが効果的だった点、川上氏の共感賞は障碍を持った弟との兄弟愛が共感を呼んだ点、そして私のパフォーマンス賞は言わずもながのオーバーアクション気味の身振り手振りによるパフォーマンスが光っていた点が授与の理由で、これらは熊本クラブからによる粋な計らいであった。

総じて台湾の方の日本語力が素晴らしく、カタカナ言葉をほとんど用いない古き良き日本語によるスピーチは、我々日本人が忘れていたものを呼び覚ますのに十分なものがあった。これは後々台湾を訪れた人々が必ず口にすることで、台湾の日本語クラブの実力を日本のクラブの面々に知らしめた点で非常に有意義であった。
b0108857_1103053.jpg

コンテスト出場者の顔ぶれも常連の方々がほとんどなく、新鮮な感じがした。台湾の方を交えてのコンテストは翌年もう一度行われ、以降日台ともディストリクトに昇格してからはルールに従って、お互いに出場し合うことはなくなったが、いつかまた交流戦は行いたいものである。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-22 01:48 | 1999年前半

[熊本編] 全日本スピーチコンテスト・邂逅の時

1999年の全日本スピーチコンテストは4月24日(土)、熊本市の熊本テルサで行われた。運営はもちろん熊本クラブである。熊本クラブは日本語クラブの老舗で、経験のあるメンバーが揃っていた。私はTMで熊本を訪れるのは初めてで、他のイベントで熊本の方と交流した機会も乏しかったので、この日が熊本クラブの面々との実質的な邂逅であった。

このコンテストでは他にもいくつもの邂逅が待ち受けていた。まずは肥後クラブである。肥後クラブは熊本で2番目の日本語クラブとして1998年にチャーターしたクラブで、私がそれを知ったのはチャーターした後だったので、正直驚いた。首都圏のクラブはついつい首都圏の方が中心であるかの如く考えてしまうが、それは単に交流がない、情報が伝わらないからそう思うだけで、クラブ誕生の芽はどこにでもあるということを肥後のチャーターにより思い知った。同じ様な誤解はこの後にも待ち受けていた。メンバーは熊本クラブより上の世代の方が中心で、一時期は熊本よりも人数が多いこともあった。

もう一つは、台湾の日本語クラブの方々との邂逅である。台湾の方々が熊本のコンテストに参加することになったのは梅本氏が誘ったのがきっかけだった。梅本氏は海外のTMとのチャットなどにも積極的で、私などとは比べ物にならないチャンネルを持っていた。台湾にも日本語クラブがあるということなどこの時まで知る由もなく、この話を聞いた時は驚いたものだ。台湾の方々はこのコンテストに参加すべく、メンバーを募って日本訪問ツアーを組んで来日された。これが現在まで続いている日台交流の礎であった。

我々関東の熊本ツアー一行も曇天の熊本空港に着陸するや否や、バスで熊本市内へ直行、途中のバス停で降りて会場の熊本テルサへ徒歩で向かった。会場には既に台湾の一団や名古屋の方々が到着していた。私も今まで何度となく「全日本」と冠されたコンテストに参加したが、全国の日本語クラブの面々が一同に会する場で出場者として振舞うのは初めてのことで、これが実質的な全国デビューと言ってよかった。この日が新たなる交流の始まりの日となったのもきっと何かの因縁だろう。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-15 20:42 | 1999年前半

[熊本編] 熊本へ...

このブログは基本的にそれぞれの所属クラブからの視点で書いてきたが、所属クラブが増えるにつれ、各種行事へも色々な顔で参加しているので、参加行事に焦点を合わせて書く方も時には必要な気がした。というわけで、ここでは熊本編として1999年の全日本スピーチコンテストを振り返ることにする。

さて、私が入会してしばらくの間は、各コンテストは各クラブの持ち回りで開催していたことは前にも述べた。熊本でも年1回は毎年何かのコンテストを行っていた。それが1999年直近ではその流れが少し途絶えた。理由としては東京バイリンガルなどの新興勢力がコンテストの運営を始めたこともあると思う。その様なわけで、1999年4月の熊本での全日本スピーチコンテストは久しぶりの様な気がした。

私は熊本へは修学旅行で行った程度で、TMに参加してから熊本へ行ったことはまだなかった。それが今回はコンテテストへの出場も決まったので、一路熊本への旅に出ることになった。この年は大嶋ガバナーの音頭で、関東圏のメンバーはツアーを組んでまとまって行くことにしていた。当時東西クラブの会長だった松崎氏が旅行代理店勤務だったので、ツアーの段取りは一切お任せだった。

関東圏の各クラブからは、江戸、はま、武蔵、東京バイリンガル、そして東西が出場者を出す予定になっており、最終的には総勢10名ちょっとのツアーとなった。往復は飛行機を使うということで、4月24日のコンテスト当日の朝、羽田に集合ということになった。しかしここで何と大嶋夫妻が都合により急遽不参加となることが判明。松崎氏も少々狼狽していた。結局参加者は江戸2、はま3、武蔵1、東京バイリンガル2、東西2の10名になった。天候は東京も熊本も曇り空だったが、これから始まるコンテストを前にして、誰もがスピーチのことを考えていた。出場者の半数が朝からこうして飛行機にまとまって乗り込み旅立つというケースは、恐らくこれが最初で最後のことだったと思う。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-12 01:12 | 1999年前半

[武蔵編] 潔き人

4月7日の第12回例会より、武蔵会長はスギモト氏からパイザー氏に交代した。スギモト氏は元々イギリスからの国際交流員として来日されていたのだが、その期限が切れて就職活動をされていた。そして目出度く就職が決まったのだが、勤務先が都内となり例会への参加が難しくなっていた。そこで、2代目会長としてパイザー氏が立つことになったのである。パイザー氏は会長を引き受けるに当たり、この4月に熊本で開催される全日本スピーチコンテストへの出場を最後に、ホームクラブである東京バイリンガルクラブを退会して、武蔵のクラブ運営に就くことを決めていた。パイザー氏はこの頃自分のデザイン事務所を設立されていて、2つのクラブには関わっていられないということで、新設クラブを選択されたのである。その潔さにはただ脱帽するだけであった。

チャーター準備期間が長引くと、チャーター前に会長が交代することも当然ありうる。できれば避けたい所だが、これを機に武蔵のチャーターへ向けての活動も次のステップへと進んだ感があった。4月の例会はジリ貧で参加者数1桁の状態が続いたが、ホームページも開設され、さらに5月に入ると武蔵のチャーターまでの道のりを語る上で欠かせない人物、近藤氏の参加を得た。すると相乗効果なのか人も徐々に集まるようになり、いよいよチャーターへ向けての加速が始まった。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-08 14:31 | 1999年前半

[江戸編] ムードメーカーの条件

4月に入るとまた少しずつゲストの見学が増えてきた。4月6日第226回例会では4名、同月20日第227回例会では5名、といった具合である。そのいずれもが相次いで入会され、江戸クラブも一時的に活況を呈した。ただこれはまた後述するが、諸事情でこの方々の在籍は短期に終わった。この年度は短期在籍者が多く、入会して即来なくなる方も多かった。とりわけやる気はあるものの、転勤等で退会される方の損失は致命的であった。

こんな状況下では、クラブの盛り上げ役、俗に言うムードメーカーの存在は重要である。どんなクラブにも大抵一人はこの役割を担っている人がいる。この頃の江戸クラブではそれに該当したのは、はまクラブから移籍した田中氏であった。空手の有段者で横浜クラブのメンバーでもあり、ディベートの集まりにも参加していた田中氏は、大きな声でよくしゃべるのが持ち味で、例会の最中でもよく声を出していた。現やまのての浅井氏や響の渡辺氏の様な存在であった。ただ五月蝿いだけでなく、スピーチもダイナミックなものが多く、パワーポイントをいち早く取り入れてみたり、メンタルタフネスのワークショップを行ったりと、型破りな面もあった。一時期のはまクラブの牽引役でもあり、その勢いをそのまま江戸へ持ち込んだかのようであった。田中氏は私の次の代の会長にもなったが、その後の事を考えると、この頃が最後の輝きであったのかも知れない。

とはいえ、ムードメーカーの存在は特に低迷期のクラブでは貴重である。これは作ってできるものではなく、どちらかといえば天性のものだと思う。例会を盛り上げるには全員の協力が必要なことは言うまでもない。しかし、ムードメーカー足りうるメンバーの存在も大切にしたい。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-07 22:33 | 1999年前半

[江戸編] 偽りの報告

1999年3月度の会員権の半期報告。この頃は国際本部への会員権更新のことはまだ"Semiannual Report Of Club Membership"、つまり「クラブ会員権の半期報告」と称していた。現在は"Dues Renewal Invoice"(会費更新通知)に一本化されているのは周知の通りである。更新時の会員権の報告だったものが、より直接的に会費の支払いを更新するか否か、という表現に変化している所が興味深い。

JTC時代の日本語クラブは、現在よりまだ本部からの情報を正確に理解する雰囲気に乏しく、一部の英語のわかるメンバーに頼るところが大きかった。JTCガバナーを擁していた江戸クラブでさえ、TMの情報を十分に理解していたとは言えなかった。媒体が英語というだけで資料を読まない人がほとんどであった。日本語のクラブであれば、この状況はある意味当然である。

例えば、TMの会員数は20名が基準であることは今更言うまでもないことだが、では20名を下回るとどうなるのか、についての解釈は人によって曖昧で、20名を下回るとクラブの登録が抹消されるというのが、この頃の大多数の解釈だった。したがって江戸クラブとしても、ここ数年は報告上の会員数は常に20名としていた。実際は休会者、それも音信不通の方が多かったが、まだ会費に余裕があったので、少なくとも連絡がなくても最低次の半年は会員登録を残しておくことにしていた。であるから、この3月の更新も報告上は20名としていたが、実際の所、「活動状況良好な」メンバーは12名ほどだった。

現在は翻訳活動が充実していたり、英語の資料を熟読する日本語メンバーが増えたこともあって、この様な例はないと思う。むしろ日本語のメンバーの方が翻訳という作業が伴う関係から、英語の資料を熟読しているケースもある。いずれにしても偽りの報告をせずに済むクラブ運営を心がけたいものである。
[PR]
by inv-pyramid | 2007-10-07 22:11 | 1999年前半