人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[江戸編] 大海(会)へと漕ぎ出した日

1月30日、私は江戸会長として千葉県の葛飾公民館で行われた英語の Tall Tales Contest 1999 に参加した。日本語では、ほら吹きコンテストとして開催されるもので、最近では2005年の秋季コンテストでの開催実績がある。運営クラブはICF千葉クラブと埼玉クラブであった。

私はそれまで英語のみのコンテストには参加したことがなかった。日本語クラブだけの会員としてはそれはほとんど当然のことで、大抵の日本語クラブの会員は英語のみのイベントには興味を持たない。最近ではそれにも幾分変化が見られるものの、大勢としてはあまり変わっていないと思う。私自身はこの頃は英語クラブにも参加していたので、少しは英語イベントに対する抵抗感は減っていたが、この時 Tall Tales Contest に参加したのは、会長の名の下に寄せられる数多の英語イベントのお知らせに対して何らかの形で応えたいと思ったからだ。その中でこのコンテストは自宅から近場だったので、ちょっと覗いてみよう程度の考えで参加した。またこの頃はまだ日本語によるほら吹きコンテストは行われていなかったので、Tall Tales というものがどういうものなのかという興味もあった。

JTC時代のコンテストは、英語に関してはルールブックに記載されているコンテストは1年度の間に全て行われていたが、スピーチコンテスト以外はエリア予選はなく、全日本の名を冠していても実際に集まるのは開催クラブの周辺クラブのみになることが常であった。現在の様な秋と春の2季に色分けされた、クラブからの勝ち上がりシステムではなかった分、まだ大らかさがあったと思う。

この時の Tall Tales Contest への出場者は全10名だったが、いずれも首都圏のクラブからの出場だった。私の知っている方では大嶋T氏やコール氏、さくらの斎藤氏、つくばの根木氏らが出場されていた。圧倒的な鬼気迫る演技でコール氏が優勝された。英語によるほら吹きなので、私などはどの辺が架空の話なのかわからない所もあったが、入賞された方はどの方も視覚的に分かり易いスピーチだったのが印象に残った。
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この年度はこの後にさくらクラブ運営のエリアスピーチコンテストが控えており、また藤沢で行われた英語の全日本スピーチコンテストにも参加するなど、英語イベントへの参加が増えた年である。ただ、会長になっていなければ参加しなかったかも知れない。前にも述べた通り、TMの連絡は全て会長宛に届く。それを生かすも殺すも全ては会長次第なのである。
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by inv-pyramid | 2007-08-27 01:09 | 1999年前半

[番外編] まぼろしの和光クラブ

今でこそ数々の新クラブを設立し、あちこちの新クラブ設立の立ち上げにもお呼びが掛かる私であるが、その全てがうまく行った訳ではなく、苦い思い出もある。

1998年12月から1999年3月頃までの間、私は地元の和光市にクラブを設立すべく一人で活動していた。まだ武蔵の設立に関わり始めたばかりで、クラブの作り方もよくわかっていなかった頃だが、最近のどなたかと同じように気持ちだけが先行していた。きっかけは12月の埼玉国際フェアで、そこで和光国際交流会なる団体がブースを出していたので、武蔵の宣伝がてらチラシを配りに行ったことに始まる。私も地元が和光市なので、どんな活動をしている団体なのか話を聞いたりして、こちらのチラシを束ねて渡したところ、交流会の中で配っていただけることになった。また年内に忘年会を行うのでよろしかったらどうぞと誘われたので、その集まりに参加したりもした。忘年会の席で交流会の代表の方と話をする機会があり、TMのことを色々と話している内に、では交流会の活動にTMのやり方を使ってみてはどうか、と話してみた。最初はこんなやりとりをしていただけで、必ずしもクラブ立ち上げが念頭にあるわけではなかった。

代表の方は私がマニュアルを見せながら説明しているのをみて、宗教か何かの類の勧誘のような印象を持った感じで、それほど関心を示されていなかったが、当時交流会の日本語教室で講師を務められていた方が興味を示され、交流会の活動の中で、「Hiroba」という外国人と日本人がざっくばらんに歓談する集まりを持っているが、いつも雑談で終わってしまうので、特に外国人の方にとってもう少し有意義な時間にしたい、ということで、それにTMを取り入れてみたらどうか、とのことだった。それで私も段々とその気になり、「いつでもデモ例会は行えます」、などと口走ったりもした。

年明けて2月の第2水曜日、「Hiroba」に参加した。毎月第2水曜日夜に和光の公民館で開催とのことで、私にとってはちょうど東京バイリンガル例会と週がずれていたので都合がよかった。その日は外国人参加者は少なめだったが、TMの話題は外国人の方が受け入れ易く、その時話した外国人の方が興味を示され、武蔵野線沿線住まいとのことで、武蔵の例会に誘った。交流会のメンバーも3月の武蔵例会を一度見学するとのことだった。

3月下旬の武蔵例会には4名ほどが参加されたが、その日はちょうどクラブスピーチコンテストの日で、初見学としては具合が悪かったかも知れない。1時間ほどで帰られてしまった。後日感想を伺ったところでは、我々の活動には合わないような気がする、とのことだった。私も地元でのクラブ立ち上げに期待を寄せていたので、これを聞いた時は大いに落胆した。交流会の方々とはその後も国際フェアなどで顔を合わせる機会があり、近況などを伺ったりした。

かくして、和光TMCの設立は陽の目を見ることなく終わったが、この時の経験はその後の宇都宮クラブの立ち上げなどに生かしている。それはつまり地域クラブを作る時の地元との付き合い方である。今は地元でのクラブ立ち上げは最後のお楽しみにしている。
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by inv-pyramid | 2007-08-14 17:40 | 1999年前半

[江戸編] 井の中の蛙、大海を知らず

1998-1999年度クラブ会長を拝命して、それまでと最も変わった事と言えば、それはクラブ外との接点が増えたということだろう。国際本部やJTC、他クラブからの行事の案内などはすべて会長の所へ届く。会長はそれらの情報を捌き、必要な情報は漏れなく会員に伝えなければならない。それまでの自分がいかにクラブ内のことに留まっていたのかを知ると同時に、今までの会長があまり多くのこと、特に国際本部やJTCからの情報を伝えずにいたかを思い知ることになった。まさに井の中の蛙の心境だった。

何故国際本部等からの情報があまり伝わらずにいたかと言えば、それは連絡文書が英語だったから、ということに尽きる。日本語クラブの面々、それも普段英語に接する機会の乏しい人々にとっては、英文というだけで取捨選択の「捨」の方へ気持ちが行ってしまうものだ。私もどちらかといえばその部類であり、私の所へ届いた情報を全てクラブへ伝えていたかどうかは疑問である。

1999年初頭から、私の所へいくつかの英文の手紙が届いた。JTCやクラブからの行事の案内である。JTCからは「スピーカーズ・ビューロー」、「2010/2020ビジョン・コミッティ」等のお知らせ、他クラブからは前述の「全日本論評コンテスト」や「全日本テーブルトピックコンテスト」、「ホームページワークショップ」等の案内が来た。この年度は翌年度にディストリクトへの昇格を控えていたからか、色々と動きが活発にも見えた。JTCのマーケティング担当副ガバナーを務めていた渡辺N氏(前述の広報担当は誤り)という熱心な人の存在も大きかった。

これらの文書の中には、後に歴代のディストリクトガバナーに就任されるソーリー氏、ギボンズ氏、稲継氏らの名前も見受けられる。私がこれらの人々との邂逅を果たすのもこの年度からで、それも単に会長職に就いていたからこそ、そのような機会を持つことができたのだと言える。大海への船出の年の始まりであった。
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by inv-pyramid | 2007-08-11 12:26 | 1999年前半

[東京BL編] 仕掛けられた論評コンテスト

大成功に終わった1998年の全日本スピーチコンテストに続いて、東京バイリンガルクラブは再び全国レベルのコンテスト開催に名乗りを上げていた。それは三笠クラブとの合同による論評コンテストだった。1999年2月、横須賀の米軍基地内での開催に照準を合わせ、年明けから慌ただしく準備が始まった。

開催に当たっては三笠と東京バイリンガル間で何度か綿密な打ち合わせが行われた。残念ながら私はクラブ役員ではなかったので、詳細は知る由もなかったが、例会で報告された内容はトリッキーというか何というか、今までのものとは違ったもの、それでいて論評の公平さが保てるようなコンテストにしようという意気込みが伝わってくるものだった。

それはまず出場者がテストスピーチを聴いた後、一人一人別々の部屋へ移動し、そこで各出場者が同時に論評のスピーチを披露、それをビデオに撮り、撮り終えたビデオを再びコンテスト会場に持ち込んで上映、その上映されたビデオの論評を審査するというものである。言わば論評版ビデオテープスピーチコンテストである。この方法だと、論評者一人一人が順番に発表する際の時差が生じず公平さが保てる。非常に画期的な仕掛けのある方法だった。役員の方々がいかに公平さを保つか、ということをポイントに練り上げられた企画だった。もちろん難点もあり、ビデオカメラを複数台準備しなければならない。仕掛けは独創的だったが、どちらかといえばそちらの方に腐心した部分もあった。

ちなみに本来のコンテストルールではこんなやり方は認められていない。まだディストリクトに属せず、国際本部からの制約をあまり受けないJTCの時代だったからこそ可能なことだった。それ故、この方式はたった一度切りしか行われなかった。旧き良き時代ならではの産物であった。
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by inv-pyramid | 2007-08-09 12:55 | 1999年前半

[武蔵編] 所変われば品変わる!?

年明けて最初の例会の翌週、1月21日に初めての役員会が開催された。場所は事前の申し合わせで池袋で行われることになった。武蔵浦和で例会を行っているクラブが何故池袋で役員会を、と思われる向きもあると思うが、この頃の武蔵はまだ地元メンバーは少なく、東京やその他地域からの参加者の方が多かったので、埼玉と東京の中間点ということで、池袋が選ばれたのだった。当時私やパイザー氏は目黒から、JTC広報担当で武蔵にも加入していた渡辺N氏は都内、スポンサーの大嶋R氏は神田からそれぞれ武蔵浦和へ通っていた。

待ち合わせはメトロポリタンプラザの噴水の後ろにあるカフェで、ということになり、人数が集まった段階で西口の大きな喫茶店に移動して役員会を行った。議題は多岐に渡り、特に梅本氏や渡辺N氏はTMのプログラムに精通されていたので、色々なマニュアル類のコピーをたくさん準備され、我々はただ圧倒された。特に梅本氏が第1回の役員会という早い段階で議事運営手順による進行を心がけていたのはよく印象に残っている。

例会の運営の仕方については、梅本、パイザー、私の間で色々と駆け引きがあった。皆それぞれのクラブでのやり方が染み付いているので、武蔵クラブにもそれを持ち込もうというわけである。例えば江戸では「文法チェッカー」としている役割を、パイザー氏は東京バイリンガルと同じく「日本語の生かし方」にしようといい、また梅本氏は今夜の言葉は埼玉は文法係が設定している、といった具合である。まさに所変われば品変わるで、最終的には折衷案を取ることになった。以後2007年現在に至るまでこの役割構成は崩れていない。スピーチの制限時間についても微妙なずれがあったが、とりあえずはマニュアル通りで進めることになった。

広報関連ではクラブ会報を作ることが決定され、「武蔵」という案が出ていたが、発行時には「武蔵倶楽部」と修正された。ホームページについては検討課題ということになったが、初代広報担当の川上氏の行動は早く、比較的初期の段階でホームページも出来上がった。クラブ作りの黎明期の第1回役員会は、個性のぶつかり合いもあったが、みんなが同じ方向を向いて心を一つにしていく場でもあった。
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by inv-pyramid | 2007-08-06 00:06 | 1999年前半

[番外編] 年越しは中国式餃子作りで

話が少し遡るが、江戸忘年会の折りに武蔵会員で江戸にも入会された陳氏に年越しはどうするのか尋ねてみたところ、特に予定はないとのことだったので、我が家にお招きして中国風に餃子を作って年越しをすることになった。陳氏は日本企業に研修に来ている建築技術者で、寮が新座、会社が新宿ということで武蔵と江戸に参加されていた。江戸の例会にはよく自転車で来ていた。

大晦日の夜、陳氏は友人の王氏を伴って我が家にやってきた。中国では祝いの席では必ず餃子を作るのことで、特に皮作りが重要なのだという。したがって皮作りは小麦粉を練るところから始まった。具は豚の挽肉の他は、ホタテ貝とセロリ(!)だそうで、陳氏の故郷ではこれが一般的なのだそうだ。セロリは香り付けに使うとのことで、ニラを入れるのは日本人だけとのことだった。これらの具は熱したフライパンの上で油を使ってつなぎ、手でこねた小麦粉を小さく丸めて皮を一枚ずつ作って餃子の形にする。出来上がった餃子は水餃子にするのが、中国式とのことであった。餃子の形は通常の波型の他、数が多い時の簡単な整え方も教えて貰った。こうしてできた餃子はふっくらと丸みがあり、ことの他美味しかった。この時の陳氏直伝の餃子の作り方が、以後のホームパーティーで私が作る餃子の基本となった。

大晦日なので我が家の方では年越しそばを準備し、紅白を見ながらみんなで餃子とそばを食べながら除夜の鐘の鳴るのを待った。そして1999年の幕開けとともに、近くの神社へみんなで初詣に出かけた。日本の初詣は初めてらしく、夜中の行列に並んで新年の祈願をした。

年越しをトーストマスターズの仲間とともに過ごしたのは、今のところこの時だけである。家族で過ごすのとは一味違った年越しは、餃子作りの体験共々良き思い出となった。
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by inv-pyramid | 2007-08-02 12:53 | 1999年前半