人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[江戸編] 出会いは無限大

千駄ヶ谷社教館では毎年春に「社教館祭り」という登録団体の学習成果発表会を行っている、ということはこれまでにも何度か述べている通りである。江戸クラブも千駄ヶ谷を拠点とするようになってから最初の何年かはこの集いに参加していたが、いつしか参加しなくなっていた。それはやはりこの祭りが地域のイベントであるから、非在住者が中心の江戸クラブとしてはこの手のイベントに積極的に音頭を取って参加する有志がいなくなれば、疎遠になるのもまた当然と言えた。私はそんな状況を打破すべく、また将来も千駄ヶ谷で活動を続けるなら地域住民の参加は必須条件であると考え、久しぶりにこの祭りに参加することに決めた。

7月に社教館に登録している団体で祭りに参加する団体の初顔合わせがあり、私も参加して江戸クラブの存在をアピールした。続いて9月に2回目の会合があり、私も実行委員会に参加することになり、演出部会のメンバーとなった。以降は月1,2回のペースで各担当部会ごとに集まって打ち合わせることになった。演出部会は祭り全体をプロデュースする係りで重要な役割だった。この頃は祭りのテーマを決める時期で、色々なアイディアが出た。私も「出会いは無限大」という案を出したが、結局最終的にこれに決まった。ついでにポスター制作もグラフィックデザイナーの池田氏がいる関係で江戸クラブで引き受けることになった。これで江戸の知名度も少しは上がったかに見えた。

打ち合わせの後は、もみじ茶屋で館長や地域役員の方と飲む事もしばしばあった。当時の館長は打ち解け易く話のわかる人だったので、年齢的に近い私とは結構ウマが合った。職員と通じることは一つ間違うと問題にもなるかも知れなかったが、それで何かの便宜を払ってもらおうなどとは思ってもいなかった。
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by inv-pyramid | 2007-06-30 03:24 | 1998年

[武蔵編] ゼロからの出発

9月10日夜、別所公民館にて2度目の準備会が行われた。参加者は梅本、ヴォート、小原の3名で前回と同じ顔ぶれ。2回目の会合では主にデモ例会のプログラム内容の確認と、それに向けての広報活動をどうするかが話し合われた。デモ例会の内容についてはクラブ設立マニュアルに書いてある通りに準備された。つまり今日のトーストマスターがいて、スピーカーが2名いて、総合論評者がいてという具合である。デモ例会の進行の仕方は全てマニュアルに書いてあり、デモ例会を含めて計8回の例会を行って会員を募り、正クラブへの認証=チャーターに持っていくのが基本プランであった。ただし武蔵の場合は通常例会は平日夜で行く方針であったものの、デモ例会は日曜午後に行うことにしたので、デモ例会とその後の例会のやり方については分けて考える必要があった。

広報活動については梅本氏が入念に準備をされていて、地元の色々なサークルや教育団体、ライオンズやロータリークラブのリスト等を集め、その一つ一つに武蔵の案内を送るというのがまず一つあった。他には新聞への記事掲載依頼、ビラ配り等考えられるものはほぼすべて行うことになった。まさにローラー作戦である。受け持ち区域は電車の路線ごとに担当することになり、埼京線下り方面が梅本、上り方面がヴォート、武蔵野線上り方面が小原ということになった。各人の住居、通勤範囲ということである。当時私の住居は今と同じ和光で、それが故に同じ埼玉県内で近隣の浦和での日本語クラブ設立にも協力することにしたのだが、平日夜の開催では例会へ行くときは会社から電車で武蔵浦和へ直行するため、わざわざ赴くという感が強かった。私は例会の土日開催を望んだのだが、梅本氏は土日は家族と過ごしたいということで平日開催を譲らなかった。結局梅本氏が発起人であるため、私の方が折れざるを得なかった。

こうして広報活動が行われることになったが、梅本氏は物怖じしない性格なのか、自分の受け持ち区域の家のポストにチラシを配ったり、通勤の電車の中で一人一人声をかけたりといった逸話を度々聞かされた。私はこの手の作業は苦手分野で物怖じすることもしばしばあったが、地元の公的施設やスーパーなどを回ってチラシの掲示などのお願いに回った。購読している新聞の支局に例会案内の記事をファクスで送ったりもした。それが掲載されたのを読んだ時は正直嬉しかった。この時の体験が後のクラブ作りに生きることになる。そういう意味では梅本氏こそは正に私のクラブ作りの師匠であった。
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by inv-pyramid | 2007-06-25 01:40 | 1998年

[武蔵編] その名は「武蔵」

このブログもかれこれ1年、1994年の江戸入会時から1998年までのいきさつを綴ってきたが、まだ現在に繋がるまでは至らない。まさに遥かなる道のりである。そしてここまで綴ってようやく武蔵のプロローグ編に辿り着いた。武蔵は私が初めて創設に関わったクラブであり、ここからの話は私のTMライフが次のステップへと移ったことを意味する。

忘れもしない8月13日木曜日。蒸し暑い入盆の日。その日私は初めて武蔵浦和の駅に降り立った。TM関連で荒川を越えたのは実に4年前の大宮での聴能言語士ワークショップ以来のことだった。その頃埼玉には埼玉クラブがあったが日本語クラブはまだなかった。その頃の関東の日本語クラブは江戸とはま、東京バイリンガルで交流していたので、東京、神奈川エリアがもっぱらの活動領域であった。私は梅本氏に誘われるままに埼玉の日本語クラブ設立のための準備会に参加するべく、武蔵浦和の別所公民館を訪れていた。余談だが、私が今まで設立に関わった5クラブどれもが夏に最初の集まりを行っており、クラブ設立といえば必ず思い出されるのが「蒸し暑さ」の記憶である。

最初の準備会には梅本氏、ヴォート氏と私の3人が参加した。ヴォート氏というと何やら堅い響きがするが、川口市に国際交流員として来日されていた英国人女性で、ちょうど埼玉クラブに見学に訪れたところを梅本氏にスカウトされ、日本語クラブ設立に関わることになったという。当時の梅本氏は私から見れば掴みどころのない人物で、TMのことに関してはよく精通していた。聞けば海外のTMともよくパソコンでチャットしていたという。クラブ設立に関しても資料をよく準備されていた。その時私はクラブ設立マニュアルの存在を知らなかったが、後に私が発起人となってクラブ作りを始めてマニュアルを読み込んでいた時、梅本氏が極めてマニュアル通りに準備会を進めていたことがよく理解できた。とにかく私の知らない事をよく知っていたので、その頃の私はただうなずくしかなかった。

スケジュールとしては10月にデモ例会を行うこととし、それに併せて広報などを準備することになった。この日の最大の焦点はクラブ名の決定。梅本氏の頭の中には既に「さきたま」のイメージがあった様だが、準備会の時点では「むさし」を仮称としていた。準備会で3人で話し合った結果、漢字の「武蔵」で行くことが決まった。由緒ある「さきたま」の名前はこの後梅本氏が立ち上げた英語クラブのさきたまクラブに引き継がれた。

準備会の後、埼京線ガード下の今はなきマリンファンタジーという店で、3人でピザをつつきながらささやかな結成式をしたのも懐かしき思い出である。それは武蔵クラブがどのような雰囲気のクラブに育つのかを予感させるものであった。
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by inv-pyramid | 2007-06-20 03:38 | 1998年

[さくら編] ジプシークラブと呼ばれて

さくらクラブほど例会の場所を転々としたクラブも珍しい。江戸も現在の千駄ヶ谷に落ち着くまでは何度か場所を変えているが、さくらの場合は私が入会してからの半年間で実に4回も場所が変わった。半ば自嘲的にジプシークラブと呼ばれる所以でもあった。

高田馬場は当時会員の児玉氏の勤務先があったり、丸山氏の住まいがあったりで利便性は申し分なかったが、如何せん利用料が高かったので、会員の中でも「場所を変えたほうがいい」という声が上がっていた。当時の会長梶谷氏も代替地の目星は既につけていて、8月の26日はとりあえず表参道の東京ウィメンズプラザで行なわれることとなった。現在キーフォースクラブが例会を行なっている場所である。しかし公的会場は予約受付が2ヶ月前、3ヶ月前という所がほとんどなので、まだ東京ウィメンズプラザに固定するわけにもままならず、東京都生涯学習センターを併用することになった。この状態がこの年の年内まで続いた。

さくらクラブに入会したのは9月であるが、この現状から私はすかさず梶谷氏に千駄ヶ谷社教館に団体登録するのはどうか、と申し出た。彼女はあまり関心を示さなかったが、とりあえず予備会場として予約できる状態にはしておくということになり、社教館に団体登録の申請をした。この頃私は3月に行なわれる社教館祭りの実行委員会にも参加しており、館の職員の方とも顔なじみになっていたので、比較的話は通りやすかった。それでも当初は江戸クラブが既にあったので、同じような名称のクラブがあるのは紛らわしいという理由で難色も示された。私は江戸は日本語、さくらは英語のクラブであることを強調した。半数が渋谷区民という条件については、私の知人関係にお願いすることでクリアした。

この間さくらの例会はウィメンズプラザと生涯学習センターを行ったり来たりしていた。梶谷氏はウィメンズプラザを固定会場にする考えだったが、後のある事件によりプラザより利用停止を申し渡され、結局翌年からは千駄ヶ谷社教館を本拠地とすることになった。
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by inv-pyramid | 2007-06-18 00:46 | 1998年

[江戸編] 蝉時雨れる日吉の森にて

8月8日土曜日、日吉の某大学校舎の森の裏手にある閑静な住宅街の一角で、江戸クラブの夏企画として納涼ホームパーティーが行なわれた。ペントハウス付の部屋からは新幹線も見えるこの場所は大嶋夫妻の居宅で、夫妻のご好意により実現したホームパーティーであった。江戸クラブでクラブを挙げてのホームパーティーを行なうことは、私が入会してからは恐らく始めてのことだった。

江戸クラブはこの年のJTCイベントを運営するに当たり、ディベートコンテストを選択しており、当日はテーブルトピックコンテストを同じ日に合同運営する予定のはまクラブとの合同での打ち合わせがパーティーに先駆けて行なわれた。この年のはま会長は知的な眼差しのする太田氏で、私と同い年ということもあって何かと意気投合して打ち合わせが進んだ。ディベートは過去の経験からコンテスト形式にすると何かと時間がかかるので、最終的にワークショップという形で行なうことになった。ただ過去のやり方を踏襲するだけでは面白くないので、田中氏の意見を参考に、ディベートに関するペーパーテストを前座として行なうこととし、ワークショップ講師としては、当時の江戸クラブきっての熱弁家である芦沢氏にお願いすることとした。

打ち合わせ後のホームパーティーでは、事前の予告で私が手料理を振舞うことにしていたので、3品ほどを作った。他の方も自前の食べ物を提供して、総勢10名ちょっとのパーティーは夜遅くまで続き、一部の方はそのまま泊まることになった。時間を気にせず語らいの時間が取れるのがホームパーティーの良さで、大嶋夫妻宅ではその後も何度か行なわれた他、私の自宅でも後には何度か行なうことになった。
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by inv-pyramid | 2007-06-18 00:45 | 1998年

[東京BL編] メンターは何処に

8月5日の例会ではもう一つ特筆すべきことがあった。埼玉クラブの梅本氏がゲスト参加されていたことである。ちょうど所用で東京に来た帰りとのことであった。私と梅本氏との出会いは以前書いた通り聴能言語士ワークショップの時で、再会はそれ以来だったので実に4年ぶりの邂逅となった。

この例会で梅本氏は欠席者の穴埋めとして総合論評を担当されていた。その総合論評で私のスピーチとその論評に触れ、「このクラブにはメンターはいないのか」、というようなことを述べていた。つまり、メンターがついて事前に何らかの打ち合わせをしていれば、スピーチも論評ももっとよくなる、ということである。東京バイリンガルではメンター制は敷いてなく、もちろん江戸クラブもそうだったので、私がメンターなる言葉を耳にしたのは、実にこの回が始めてだった。今では新会員に対してメンターを割り当てるのは当たり前のように行われているが、この頃は稀であった。梅本氏はその辺はTMの常識として行われていることを普通に行っているクラブに所属されていたので、メンター制についても当たり前のこととして言及したのだった。

この回の2次会で梅本氏と雑談をして、私が今度埼玉クラブを見学してみたい旨伝えたら、それより今度武蔵浦和で新しい日本語クラブを作るので来てくれないか、と誘われた。これが私が武蔵クラブの創設に関わるきっかけであった。
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by inv-pyramid | 2007-06-15 04:07 | 1998年

[東京BL編] 論評の悪夢

8月5日の例会は日本語が先で英語が後だった。8月という月はたいていの英語クラブは夏休みで例会を行わない。それは外国人会員が長期間の休みを取って旅行や一時帰国をするからで、逆に日本人ばかりのクラブなら通常通り例会を行うこともある。東京バイリンガルの場合は、8月の最初の例会のみ開催としていた。奇しくもこの回は日本人ばかりとなり、私が2回目の英語スピーチに当たっていたのだが、もう一人のスピーカーが欠席となり、穴埋めとして私に対する論評が3人立つことになった。これが悪夢の始まりであった。

大嶋R氏の司会の下、"7 years in T..." という題で行った私のスピーチの目的は#2の "Be in earnest"(熱意を示せ:旧マニュアル)で、私の働き中毒状態から燃え尽き症候群となって転職に至るまでの過程を時系列で話したもので、今までに日本語でも何度か形を変えて話した内容だった。英語力のない私は、経過を示すためのカレンダーを作成し、それをフリップチャートの形で聴衆に見せ、その裏に英語原稿を貼るという形でスピーチを行った。自分でも散々な出来であることはわかっているのに、それをさらに3人の論評者が論評するという、まさに悪夢の体験となった。3人の論評者は翻訳業のK氏、日系人のE氏、そしてクラブのご意見番のA氏で、3人3様の論評はしかし物の見方は人によって変われば変わる物だということをまた思い知らされた。K氏はマニュアルに忠実な指摘、E氏は日系人らしく前向きなコメント、A氏は私の英語力へ言及され、もっと英語力を上げて出直して来い、というようなニュアンスの発言をされていた。

トーストマスターズは言語の勉強会ではないので、少なくともクラブで扱っている言語でスピーチするための言語力は当然必要となる。しかし実際は日本人にとっては英語、外国人にとっては日本語の勉強の場になっていることは否めない。その辺は母国語でない人に対しては多少許容する必要もあると思う。だからという訳ではないないが、私の英語力に対しての言及は少し辛らつな気がした。と同時にこの日を境に私も論評についてより深く考えるようになった。

論評については前にも書いたが、その根底にあるものは励ましである。論じて評することから、我々はつい批評的観点から得々と改善点などを述べる場合もあるが、何の言葉が相手を傷つけるのかはわからない。言葉選びには慎重さが伴う。私も時々、辛口な指摘をすることはある。そんな時はこの日の悪夢の出来事を思い出す。そしてまた相手のやる気を引き出すような論評が出来たら、と思い描くのである。そういう意味ではこの日の出来事は貴重な体験だったと思う。
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by inv-pyramid | 2007-06-14 23:53 | 1998年

[東京BL編] TM足らしめるもの

東京バイリンガルクラブの新年度初例会は7月1日に行われた。全日本スピーチコンテストの余韻を引きずる中、会長はパイザー氏から久利氏へと引き継がれた。この時、引継ぎの証として、チャータークラブの証として本部から授与されるクラブ認定証がパイザー氏から久利氏へ渡された。江戸クラブでは終ぞ見たことのなかった認定証を間近に見て、私は少なからず感銘を覚えたが、同時にこの時が東京バイリンガルの認定証を見た最後の瞬間であった。

入会して早や3ヶ月が経過していたが、まだまだ毎回初顔合わせの会員がいたのが驚きであった。見学時から数えれば半年が経過していたが、その間1,2回しか会ったことのない方もいた。外国人会員にその傾向が強く、毎回出席ということには拘泥しないドライさを感じた。TMは多彩な顔ぶれが集まる会だと思うが、東京バイリンガルはそれが顕著であった。それは今夜のトーストマスターの時に特によく感じた。毎回のプログラムには各人の個性の発露があった。東京バイリンガルの例会プログラムには例会回数や時間の掲載がないことは前にも述べたが、役名なども個人の好み或いは解釈で適当に付けられたりしていた。例えば「えーとカウンター」が「耳障り音キャッチャー」になったり、「役割紹介」が「今日の黒子」になったり。外国人が作る日本語プログラムにその傾向が強かった。

共通した傾向としてはその「素っ気無さ」。プログラムは毎回英語と日本語の順番が入れ替わるため、「開会」、「閉会」などが明記されず、いきなり「今夜のトーストマスター」または「司会者」から始まっていた。スピーチの目的などが書いてあるのは稀であった。
ちなみに江戸クラブでの文法チェッカーに当たる役割が「日本語の生かし方」であったが、これも役割に対する認識がない方が多かったのか、役割から落とされるケースが多かった。

それでもトーストマスターズ足りえていたのは、まだ人数も多くて役員がしっかりしていたからだろう。TT、スピーチ、論評という3本柱を外さなければとりあえず例会は成立する。ただこのアバウトさがいずれ命取りになるだろう、という予感はあった。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 20:57 | 1998年

[さくら編] 愉しきかな、英語クラブ

江戸で新役員就任式が行われた日の翌日の7月8日、私はさくらクラブを見学した。英語のみのクラブを見学するのは初めてのことで、見学初日は期待と緊張がない交ぜになっていた。とはいえ見学することにしたのは極めて軽い気持ちからであった。

さくらクラブはかつては有楽町トーストマスターズクラブという名称で例会も有楽町で行っていた。それなりに名を馳せたクラブであり、江戸例会にも男性および女性の児玉氏や青木氏、その他の会員がゲストで参加されたこともあって比較的馴染みがあった。名前が変わったのは無論、例会が有楽町で行われなくなったからである。初期の頃はJPモルガン社の会議室で例会が行われていたのが、場所の提供者が退会することで他の場所へ移ることを余儀なくされ、クラブ名も変えたとのことであった。クラブ名は外国人が考えたものらしく、地名にするのはまた場所が変わったときに困るので、日本を代表する花の名前がいい、という理由で今の名称になったそうである。「ジプシークラブ」の異名も持ち、私が見学した時は高田馬場で例会が行われていた。場所はどこかの予備校の教室を借りて行われていたが、この教室の使用料が1回1万2千円とまた高く、そのため会費も月2000円を3ヶ月ごとに徴収していた。まさに所変われば品変わるといった所で、私も話を聞いて驚きを隠せなかった。

さくらクラブもこの日が新年度の初日であったはずだが、新役員就任式は行われていなかった。会長は江戸にも参加している梶谷氏で、顔馴染みがいるということも見学を決めた理由の一つだった。例会は19時からで会員に外国人はいなく、日本人のみ10名前後が集まっていた。会場が教室ということもあってか、さながら英会話教室の様であった。人数が少なかったので、私にもすぐ Um-ah counter の役が振られた。私はとりあえずテーブルトピックが当たらなければ何とかなるだろうくらいにしか考えが及ばなかった。テーブルトピックはスピーチを挟んで2ラウンド設定されていたが、さすがにゲストということで指名されることはなかった。会員は総じて私と同年代が多く、あまり年配の方はいなかった。その辺が親しみ易さを感じた理由でもあった。

ちなみに私の心の中では、"Sakura" は「桜」ではなく「さくら」で、それはやはりクラブの雰囲気が柔らかく親しみ易かったからだと思う。3回の見学を経て入会を決めたのは単にその敷居の低さからであった。ゲストを繋ぎとめるにはやはり雰囲気が重要である。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 01:16 | 1998年

[江戸編] 夏への扉

7月7日の七夕に行われた第211回例会、この日が私の江戸会長としてのデビューの日であった。7月初回といえば、この頃はまだ新役員就任式が行われていた季節である。私の時は現在サンライズクラブの会員でもあるエリアガバナーの前田氏を迎えて、新役員就任式が行われた。就任演説で何を話したのかはもう覚えていない。恐らくこの前の項に述べたこととほぼ同じことを話したと思う。他のゲストとしては、はまクラブより大嶋T氏、山下氏が来られていた。また一般ゲストとして見学2回目の平川氏という女性の参加もあった。この平川氏との出会いが後に私がさくらクラブへ入会するきっかけともなった。

続く第212回例会は、会場を東京都生涯学習センターに移しての開催となった。私が入会して以来、例会を千駄ヶ谷社教館以外で行った例としては、社教館が借りられなかった時の保険として、社教館登録代表の中野氏の会社事務所で行ったことがあるが、それとて千駄ヶ谷である。千駄ヶ谷の外で例会を行ったのは実に数年ぶりのことであった。この頃は第1、第3火曜が休日であったり、社教館が休館日であったりした時は例会は休みとしていた。TM憲章においても会則で定めた例会日、場所はむやみに変えてはならない旨が定めてある。それはその時間場所で行うことを広報しているのだから、そのつもりで来たゲストに対して失礼だから、というのが理由の一つとしてはあると思う。最近は割りと気軽に第1第3がだめなら第2第4に変更したりということが行われているが、実際そういう時に第1第3のつもりで来たら例会がなかった、という例もある。見学者のことを考えるなら、やはりむやみに変えるのは慎んだ方がいいだろう。

とはいえ、この頃の私は社教館が休館日なら他の会場を探せばよいのではないか、と思っていたので、代替会場探しにも余念がなかった。代替会場としては東京ウィメンズプラザや東京ボランティアセンターなど、現在も他のクラブが会場として使っている場所も候補としていたが、当時有楽町の東京国際フォーラムの地下にあった東京都生涯学習センターという施設が比較的新しく、場所も駅直結でよかったので、ここを第2会場にすることに決め、団体登録をした。国際フォーラムの中では地味な施設でまだ意外と利用者が少なく、後には東京バイリンガルやさくら、リーダーシップの各クラブ例会、ディストリクトの役員会も行われたほどだったが、当時はTMでの利用は皆無であった。

例会当日はパイザー氏やさくらクラブの児玉、青木氏らのゲスト参加もあり、特に大手町や日本橋近辺が勤務地であった江戸会員にとっては好評であった。もう少し条件がよかったり、有料会場でなかったらこちらに会場を移していたかも知れなかったが、数年後には都の事情により廃館となってしまった。2次会にはカフェテリアが使えたりと立地条件は本当に申し分なかっただけに残念であった。江戸での使用は結局2回に留まったが、他クラブの定例会場としては頻繁に出入りしていたので、それなりに思い出深い場所である。

会長としてのこの年の夏は、同時多発的に色々なイベントが発生して個人的には忙しい季節となった。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 00:17 | 1998年