人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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[東京BL編] 宴の後、或いは前夜祭

雨にたたられた全日本スピーチコンテストの翌日、同じオリセンにてJTCの総会が行われた。この日も朝から雨が降っていた。総会の前に議事運営手順のワークショップが行われていたが、英語で行われており、あまりにも白熱した議論だったので私はてっきり総会が行われていたのだと勘違いしていた。これがいわゆるTMの議事運営手順を生で見た初めての機会であった。曰く、"motion","second"といったかけ声、書記による定足数の確認など、通常のクラブ例会では滅多に見ることのないやりとりが普通に行われていたのを見て、私は少し感銘を覚えた。

続く総会では各報告の後、役員選挙に入ったが、次年度のJTCガバナーには指名委員会候補者の大嶋R氏に対して、対立候補に大町氏が擁立されていた。通常は何事もなければ指名委員会選定の候補者がそのまま信任されるはずで、対立候補が擁立される時というのは、何処かに不協和音があるということだろう。今までに総会レベルで対立候補が出た例としては、2000-2001年度の稲垣氏、2003-2004年度のギボンズ氏が選出された時のケースがある。

この年の総会でなぜ大町氏が対立候補者となったのかとえば、それは一言で言えば日本語クラブからガバナーを輩出するのを阻止せんがためである。日本語クラブが増えた現在でもまだまだ日本語クラブを一段低く見る傾向は根強いが、この頃はそれがもっと顕著であった。総会に出席している日本語クラブの人間などほんの僅かで、我々は後ろの方でただじっと動向を見守るだけであった。東京バイリンガルによる日英同日開催コンテストが成功したその日にでさえ、「我々は(日本語コンテストが終わるまで)耐えてたんだ」というコメントを残す英語クラブの方もいたほどだ。二人の候補者による演説が終わった後投票が行われ、過半数以上の票を集めた大嶋R氏が結局次期ガバナーに選ばれた。大町氏もこの後2度に渡ってガバナーを務められたのだから、この結果は結果的には良かったと今でも思う。

こうして初の日本語クラブからの、しかも女性のガバナーが誕生した。それは同時に江戸クラブにとっても20世紀最後の輝きを放つ前触れとも言えた。
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by inv-pyramid | 2007-05-30 12:56 | 1998年

[東京BL編] 晴舞台は雨音を聞きながら

6月13日(土)、お馴染みの国立オリンピック記念青少年総合センター、通称オリセンで1998年の全日本スピーチコンテストが開催された。前述の通り、今回は東京バイリンガルクラブの単独運営による日英同日開催で、日本語部門にもゲストスピーカーを呼ぶなどの趣向も凝らされていた。当日は東京バイリンガルのメンバーが総出で運営に当たっており、その意気込みが感じられた。

進行の順序は受付が14時からで、開会が14時30分、以降英語コンテスト、パーティー、日本語コンテスト、表彰という順で行われた。英語と日本語の間にパーティーを挟む、表彰は日英合同で最後に行うなどの工夫がなされ、特に日本語コンテストに配慮された時間配分は、集客の点で生かされた。日本語だけのコンテストであれば50人も集まればよいところを、英語と一緒に行うことで集客効果が上げられ、盛り上がったコンテストになった。また英語を先に行うことで、英語コンテストで集まった人々を逃さずに日本語コンテストへも残って頂くなどの工夫で日本語クラブの関係者は大いに溜飲が下がったと思う。

ゲストスピーカーは英語の部がイーウーマン代表の佐々木かをり氏、日本語部門がタレントのピーター・バラカン氏という豪華な顔ぶれで、英語が日本人、日本語が外国人という趣向もバイリンガルクラブらしいものであった。肝心のコンテストは英語10人、日本語6人で、大嶋T氏が両方に出場、大嶋R氏が日本語への出場を果たした。英語コンテストの出場者では他にソーリー氏や吉川氏といった顔ぶれもあり、優勝は東京クラブのシャーリー寺本氏、日本語コンテストは優勝がコール氏、第2位大嶋R氏、第3位大嶋T氏という結果で、夫婦揃っての入賞という実績は流石であった。

JTC時代の英語コンテストでは、パーティーの席で色々なスポンサーから集められた景品をくじで当たった人に配るというのが慣例として行われており、今回も多数のスポンサーからの協力を得ていた。
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by inv-pyramid | 2007-05-29 23:24 | 1998年

[江戸編] 殺し文句

東京バイリンガルのクラブ予選に前後して、江戸クラブでもスピーチコンテストのクラブ予選が行われた。時に6月2日のことである。この頃はまだ全日本スピーチコンテストも6月に開催されていたので、梅雨といえば全日本コンテストのイメージが強い。実際この年も翌年もコンテスト当日は雨模様であった。

江戸クラブの予選への出場者は7名。結果は1位大嶋R氏、2位池田氏、3位梶谷氏と私。この頃のクラブ予選では、大嶋夫妻が出場した場合は、必ずどちらかが優勝という有様で、他の会員に出場の目はなかった。この頃は大嶋T氏は既に江戸を退会されていて、この日は審査委員長としての参加であった。既にはまクラブから全日本コンテストへ出場することが決まっていた。

6月といえば次期役員を決める季節でもあった。今はTMのルールに従って5月に役員選挙を行っているが、この頃はコンテストと同じく1ヶ月ずれで役員改選を行っていた。この日の例会の少し前の2次会で、私は大嶋R氏と現会長の庄司氏より次の会長就任を要請されていた。私はその器ではないから、と丁重にお断りしたが、「小原さんしかいない」と執拗に迫られて、断りきれない状況に追い込まれた。確かに順番的には私の番かな、という空気はあった。私はどちらかといえば縁の下の力持ち的立場の方が合っていて、トップを張る人間ではない。ただこの頃のクラブの陣容を考えれば私が就任するのが妥当な選択肢であったとも思う。入会順では上から4番目で古株の部類であった。「小原さんしかいない」と言われれば、そうかも知れないと思わざるを得なかった。
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by inv-pyramid | 2007-05-27 19:39 | 1998年

[東京BL編] 駆け抜けた季節

東京バイリンガルはこの年、全日本スピーチコンテストを運営することが決まっていた。単独のクラブが日本語と英語両方のコンテストを運営するのは恐らく史上初の試みで、バイリンガルクラブという特殊性もあってか、この頃の東京バイリンガルには常に時代を一歩リードするような気風が感じられた。

そのようなクラブ事情の中で入会した私もまた、自分にとっての初の試みを次々とこなすことになり、コンテストまでの期間を一気に駆け抜けた。何しろ入会宣言したばかりの人間をいきなり次の司会者に指名するような人使いの荒いクラブである。いきなり最初のスピーチを振ることだけでも荒い(粗い?)と思っている私としては、相当な緊張感を強いられた。英語の司会ということは元より、クラブメンバーの連絡先すら知らないのである。教育担当のアーバクル氏からは後で、役の割り当て表が送られてきた。外国人会員というのは連絡が取りにくい人も多く、当時筑波から通われていたコール氏などは、何度電話しても通じなかった。最終的に予め割り当てられていた役割の半数近くが当日欠席するという有様で、このアバウトさもまたバイリンガルクラブならではのものであった。

続く5月20日の例会では、コンテストのクラブ内予選が行われたが、人数の多いクラブでありながら、出場希望者は日本語3名、英語4名ということで、運営クラブの割には盛り上がっているのは一部の会員のみで、他は無関心というお寒いクラブ事情も垣間見えた。他に希望者がいないので、入会したばかりの私は日本語コンテストへの出場に手を上げた。これでどうにかコンテストの体裁を保つことができた。結果は1位安達氏、2位コール氏、3位私ということで、安達氏は関東から出場することを表明し、東京バイリンガル代表はコール氏に譲ることになった。英語はタムラ氏が1位でサッカーのフランスW杯ネタのスピーチをされていた。

そして6月3日例会にて、ついに英語での初スピーチを披露することになった。普段英語を使うことのない人間による英語スピーチなので、メモの使用はもちろんのことであったが、使い方に少々工夫を加えた。結局はそれが裏目となって散々な出来であったが、主に外国人会員の方々からは前向きなアドバイスを頂き、バイリンガルクラブの良さを感じていた。

5月、6月というのは例年クラブの中では慌しい季節である。全日本スピーチコンテスト運営というゴールへと向かうクラブ事情の中で入会した私もまた、その慌しい雰囲気に合わせるかのごとく、あれよあれよと役割をこなすばかりであった。
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by inv-pyramid | 2007-05-27 09:05 | 1998年

[江戸編] 放たれた矢

この年の5月、かねてから喧伝されていた大嶋R氏のスピーキングエッセイの活動がついに始動した。江戸例会でも度々チラシが配られ、5月17日の日曜午後に第1回の公開発表会が行われた。公開発表会、といってもこの日がお披露目の会であり、当然のことながらその発表会は江戸を主体としたTMの有志参加により成立したスピーチ発表会、というのが正直な所であった。

スピーキングエッセイとはそもそもどんな活動なのか。恐らくこの活動のために配られたであろう最初のチラシにはこう書いてある。曰く、「自分自身の経験、意見、感想などを一つの話にまとめ発表すること、そして発表された作品(お話)がスピーキングエッセイです。(中略)原稿を書き、推敲し、作品にまとめるだけでなく、さらに自分の声、表情、身振りを使ってより効果的に表現します。スピーキングエッセイは書き言葉での「エッセイ」に話し言葉の魅力も加えた、総合的な表現活動です」。TMの立場からすれば、TMでやっていることをヒントにしていることは明らかで、TMの一つの発展形態、または一部を流用したものと言えなくもない。

ある日の江戸クラブ2次会で、大嶋R氏がスピーキングエッセイのアイディアを語ったことがある。その時、この活動の名称として「スピーキングエッセイ」というのはどうか、と我々に意見を求めた。私は名前が長いのではないか、と答えたが、元々本人の中ではこの名前で行くことを決めていたのだから、答えるまでもなかった。文筆によるエッセイとは違った口述によるエッセイというアイディアはよいものの、それを現役のTMがTMの延長上で行うということはどういうことなのか。何かにヒントを得てそれを別のビジネスにつなげる、ということはよくあることだが、身近な人がそれを行うことには複雑なものが付きまとう。

90年代江戸クラブの看板会員であった大嶋R氏は、この後自分のビジネスに邁進し、江戸クラブからは徐々にフェイドアウトされていった。それは一つの時代の終焉でもあった。
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by inv-pyramid | 2007-05-27 08:06 | 1998年

[江戸編] 初開催!?ユーモアスピーチコンテスト

4月25日(土)、横浜のランドマークタワー内にあるフォーラムよこはまにて、日本語の全日本ディベートワークショップ及びユーモアスピーチコンテストが開催された。ディベートワークショップははまクラブ、ユーモアスピーチコンテストは江戸クラブが運営を務めた。この頃は日本はまだJTC(日本トーストマスターズ評議会)の時代であるから、全日本を謳っていても、実質的には関東地域のイベントの様を呈していた。ディベート関連イベントはこの頃はほぼ毎年開催されていたが、日本語のユーモアスピーチコンテストは少なくとも私がTMに参加してからは初開催であった。

この頃は関東開催のイベントは、ほとんどが横浜で行われていた。フォーラムよこはまもよく使われた会場で、ランドマークタワーの13階という眺めのよい場所でのイベントは、スピーチよりも外の景色についつい目を奪われてしまうほどであった。

ユーモアスピーチコンテストに先立って行われたディベートワークショップは講師にお馴染みの井上氏を招いて、アメリカ式、イギリス式のディベートの違いの説明や二人一組になってのペアディベートを行ったりして、和やかに行われた。ちなみにこの時私とペアを組んだのがP藤山氏で、ちょうどこの年JTCのガバナーを務められていた。奇しき縁での初顔合わせとなった。

続くユーモアスピーチコンテストは6名の出場者で行われた。全日本という触れ込みではあったが、事前の根回しが足りなかったのか、関東地区の日本語及び英語クラブから出場者を募ってのコンテストとなった。江戸からの出場者は池田氏で「もてなかった私」という題で、ご主人と出会うまでのエピソードを面白く演出して見事2位入賞を果たした。1位は関東クラブからの出場となった東京バイリンガル会員でもある安達氏「オペラ座の怪人」、3位は東京バイリンガルから出場したパイザー氏「二都物語」という結果。東京バイリンガル勢の躍進が目についた中で、入会1、2年のメンバー主体でコンテストを開催した江戸クラブは一時的な結束力を見せたと思う。
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by inv-pyramid | 2007-05-26 02:55 | 1998年

[東京BL編] 4度目の誘惑

東京バイリンガルクラブに入会したのは、1998年4月15日のことである。最初の見学から3回連続で例会に参加した後、3回ほどパスして4度目の見学に臨んだ。ゲスト見学は3回までというルールについてはこのクラブでは特に言及されていなかったように思うが、例会の最後で4回目の訪問であることを告げると、当時の会長だったパイザー氏はすかさず4度目の見学なら会費を払え、と英語で言い放った(英語パートでの発言だったので)。もちろん私は入会の意志を持っていたのでこれに応じたが、流石に会員の3分の1を外国人が占めるバイリンガルクラブであるが故か、江戸クラブにはない厳しさをも感じた。

さらに驚いたのが、その場でいきなり次の会の英語パートの今夜のトーストマスターに指名されたことである。当時の東京バイリンガルでは入会式は行っていなかった。江戸クラブも同様である。だから入会式が行われないことに関しては特に疑問はなかったが、会費を払ってもいないのに、すかさず司会役に指名するあたりは少々乱暴な気もした。当時の東京バイリンガルの役割の決め方は、教育担当が役の割り当て表を回覧して希望を募るというのが基本だったが、今夜のトーストマスターについては毎回例会の最後に、パイザー会長がコの字型に配された座席を内側から回って、ハンカチ落としの要領で次回の今夜のトーストマスターを指名するという、非常に緊張感の高まる儀式で決めていた。外国人主導のクラブとはこんなものか、というのが当時の私の偽らざる感想だった。

とはいえそんな所に江戸クラブにはない魅力を感じて、2つ目のクラブへの入会が決まった。この日は私が重籍会員=Dual Member としての一歩を踏み出した記念すべき日なのである。
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by inv-pyramid | 2007-05-26 02:06 | 1998年