人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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1998年、創立10年目のターニングポイント

1998年は江戸クラブが創立10周年を迎えた年である。この年、日本では長野オリンピック、フランスではサッカーワールドカップが行われている。オリンピックでの日本勢の活躍、ワールドカップでの日本代表の惨敗に国内が沸いていた。一方ではウインドウズ98やiMACの発売などがあり、インターネット普及が加速された。TMの連絡手段も電話からネットへの切り替えが進んでいた。

創立10周年といえば、一つの節目である。江戸クラブからは何人かのベテラン会員が抜け、それまで連綿と続いていたクラブ運営の自然な継続が薄れようとしていた。盛者必衰というわけではないが、低迷期に入る予兆は既にあった。一方、江戸クラブの外では東京バイリンガルクラブによる画期的なイベントが開催され、また武蔵クラブや東海クラブという新たな日本語クラブが活動を開始したりと、今日の日本語クラブを取り巻く環境が形成され始めた年でもあり、日本語クラブ発展史における一つのターニングポイントとも言えるだろう。

個人的にはいよいよ会長職を拝命することになり、ミレニアムをピークに走り始めた年でもあった。
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by inv-pyramid | 2007-01-31 01:00 | 1998年

時には大久保界隈で

この年の年末最終例会は、「望年会」と称して大久保界隈の小料理屋「銚子や」で行われた。12月16日のことである。「銚子や」は実は私が見合いをした場所で、その見合いの世話人である私の恩人・I氏の行きつけの店だった。I氏は某大手家電メーカーの営業マンの傍ら趣味で独身男女の集い、早い話がお見合いパーティーを定期的に主催していた人で、私の友人の知り合いであった。私がまだ20代で独身だった頃にこの友人に誘われてこの集いに参加したことがきっかけで私とも交流ができ、何度かこの集まりに参加した。この時の見合い相手もその集まりで知り合った女性だったが、つき合いはこの場限りで終わった。ただ、この「銚子や」の佇まいと店の雰囲気、そして気さくな女将さんが気に入って、私も以後時々訪れるようになっていて、この年の場所探しを任された時に、迷わずここを選んだのである。

ちなみに「望年会」と名づけたのは、この回の今夜のトーストマスターを務めた常石氏で、クリスマスミーティングの呼称が使われなくなったのはこの年からだった。ただプレゼント交換はまだあった。日頃からスピーチにギャグと駄洒落を欠かさなかった常石氏だけあって、例会企画もお座敷トピックと称して、2人1組で片方がスピーチし、もう片方がそれに会わせたゼスチャーをしたり、歌に乗せてのスピーチなど盛りだくさんの内容になった。

この回は翌年3月で大学院を卒業される谷岡氏の送別会も兼ねており、この時期の会場係としてクラブを陰で支えてくれた谷岡氏の労を皆でねぎらった。ゲストでは東京バイリンガルのパイザー会長や翌年から入会することになる佐藤I氏、江戸OBの黄氏なども参加され、狭い座敷が鍋の湯気と共に賑わっていた。年明けに大事件が待ち構えているとも知らずに。
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by inv-pyramid | 2007-01-22 00:17 | 1997年

端境期その2

江戸クラブにおける1997年は端境期のような年であったと以前書いたが、個人的にもこの年は色々な意味で端境期であった。

12月2日の第197回で私は実に1年ぶりにマニュアルの課題スピーチをした。基本マニュアルの10の課題は終えていたがまだCTMの申請はしていなかった。そうこうしている内に新しいメンバーが次々に入会して、次第にスピーチの機会が失われてしまった。一方で10の課題を終えて、上級プログラムに取り組むかどうかにはまだ逡巡があった。一つには上級マニュアルがまだ翻訳されておらず英語版しかなかったこともある。これが日本語クラブのメンバーにとって一つの壁となる所で、当時は基本マニュアルを終えてもCTMを申請する者はほとんどいなかった。10本のスピーチを終えるとまた最初から行うか、同じプロジェクトを繰り返すかのケースになることがほとんどだった。私はそのどちらにも興味を覚えなかったが、1年振りにスピーチをすることになって、とりあえずマニュアルの最後に上級へのステップとして付いている、上級スピーチ・楽しませる話し手で行うことにした。

「ネットの外の人たち」というのがその題で、90年代になって加速し始めた通信ネットで築かれる人間関係よりも、その外側、つまり実社会でのお互いに顔を見せ合ったネットワーキングの方がどんなに素晴らしいか、ということを訴えたスピーチであった。何故こんな話題を取り上げたかというと、当時はパソコン通信からインターネットへと移行するまさに端境期で、私はTM以前はパソコン通信での付き合いにのめり込んでいたが、TM入会後はスピーチを通して出会う人々とのつき合いに魅力を感じ、次第にパソコン通信から遠のいていた。その間に主流になりつつあったインターネットには少し乗り遅れていて、本格的なインターネット環境を整えるためにはパソコン等のハードを一新する必要があったが、面倒に感じていた。そのような個人的な背景から前述のようなスピーチが生まれたのである。

西暦2007年の現在では当たり前の様に行っていることも、1997年当時ではまだ手探りの状態にあった。TMのゴールであるDTMの一歩手前まで行くことになるとは努々思ってもいない。この壁を越えるのは翌年の1998年からであった。
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by inv-pyramid | 2007-01-20 02:56 | 1997年

火の国を目指して

熊本でコンテストが開催されなくなって久しいが、1990年代のJTC時代にはまだ1,2年に一度の割合で熊本でもコンテストが開催されていた。この年の11月1日には熊本でテーブルトピックコンテストと論評コンテストが開催される予定になっており、10月の2回の例会ではそれぞれの出場者選抜のためのクラブ内コンテストが行われた。

まずはテーブルトピックコンテストである。10月6日の第194回例会で行われた。出場者は8名で、出題は「あなたは中学校の校長です。最近の青少年犯罪を無くすためにどの様な教育をしたら良いと思いますか」。この年、酒鬼薔薇事件に端を発した類似事件の頻発という世相を反映した出題であった。審査員には東京バイリンガルの町田氏やはまの山下氏らを迎えた。結果は1位大嶋T氏、2位谷沢氏、3位羹氏で、熊本へは羹氏が行くことになった。

続く10月21日が論評コンテストで、出場者は8名。モデルスピーチははまの山下氏が「ある日神様に出会った」という題で行った。結果は1位梶谷氏、2位庄司氏、3位孫氏という順位であったが、熊本に行ける人が誰もいなかったので、全日本論評コンテストへ江戸から出場者を送ることは見送られた。ちなみに転勤のため江戸を退会することになった孫氏のため、この日は前半がコンテスト、後半が孫氏の送別テーブルトピックとなった。総勢13名の会員から送別の言葉を送られた孫氏には万感の思いがあったことと思う。孫氏はこの後日本を離れ、数年後に再び名古屋で日本駐在となり、名古屋クラブに入会されている。

熊本へは結局羹氏と審査員として大嶋R氏が行くことになった。熊本へ行くということは関東のメンバーからすれば一大事で、熊本でコンテストを開催した場合は、クラブ内コンテストでの優勝者がそのまま熊本へ行くというケースは稀であった。
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by inv-pyramid | 2007-01-15 18:56 | 1997年

伏線

1997年は今にして思えば翌年以降の活動への伏線が色々とあったと思う。例えば私は96年11月から97年12月までマニュアルの課題スピーチはしていない。その1年間にしたスピーチといえば、2回のクラブ内コンテストでのスピーチのみである。例会には毎回出席していたが、新人の台頭と教育担当による役の割り当ての重複などにより、たまたま私にスピーチのお鉢が回ってこなかった、としか思えない状況であった。ちなみにこの年の9月の半期更新時の実績は、会員数23、男性15、女性8で、内休会は6、新人12である。実に半数がこの年の新入会員で、毎回のスピーチの課題も#1~3あたりになることが多かった。私は翌年東京バイリンガルクラブへ入会することになるが、それはスピーチをする機会を求めてという部分もあった。会員数が多くなるということは、クラブとしては活性化にもつながるが、同時に役の割り当て、とりわけスピーチの機会が減ることをも意味する。近年クラブ数の増加と共に、2つ以上のクラブへ所属する人が増えている傾向はまさにそれが理由である。

東京バイリンガルクラブへは既に大嶋夫妻が入会していた。東京バイリンガルの面々が度々江戸クラブを訪れ、活動の情報が入る機会が多くなったことで、私も興味を持ち始めていた。9月にははまクラブとの合同例会の機会があったが、ここでも東京バイリンガルのパイザー会長(後の武蔵クラブ会長)がスピーチをしたりと、東京バイリンガルのメンバーとの交流が俄かに加速し始めていた。ちなみに大嶋T氏はこの年のはまクラブ会長もされていた。江戸への出席率が落ちたことから、土曜開催のはまクラブへ入会したとのことで、後に完全移籍することになる。大嶋T氏は横浜クラブや東西クラブにも参加されていた。野島氏も大嶋T氏の後を追うようにはまクラブへ入会した。

この様に古参会員は新たなる活動の場を他クラブへ求めるようになった。TMの逆ピラミッドの理念からすれば、古参会員は新会員を守り立てるべく下からサポートする立場に回るのが本来あるべき姿であるが、その境地に達するには今しばらくの猶予が必要であった。まだマニュアルへの取り組みも日本語マニュアルの範囲に留まっていた時代である。TMの理念を理解するには、更なるTMマニュアルへの取り組みとそのための情報の入手が不可欠だった。
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by inv-pyramid | 2007-01-07 23:49 | 1997年

流れる水は腐らず

7月1日はトーストマスターズの年度始めである。この年は1日がちょうど第1火曜日で、年度始めの日がクラブの年度初回例会となった。第190回である。奇しくもこの日は香港が英国から返還された日でもあった。

年度初めの恒例行事は新役員就任式である。この日はJTC日本語教育担当副会長として、東京バイリンガルクラブのマッキンタイア氏が同クラブの町田氏を伴ってゲスト参加され、就任式の進行を務めた。他のゲストとしては有楽町クラブから名を改めたさくらクラブより梶谷氏(後に入会)、韓国人2名、日本人3名の参加があり、新旧役員も揃っていたので、大人数での例会となった。

新会長は私より半年遅れで入会された庄司氏で、営業部長という要職にあり、またお住まいが湘南方面で遠方だったにも関わらず、熱心に参加されていた。会長職を務められてからは、仕事が現場関係になられたとの事で、例会に顔を見せることも少なくなったが、2000年の全日本スピーチコンテストでは見事優勝を飾っている。庄司氏のスピーチは声の抑揚のつけ方が独特で、年長者らしく聞かせる内容が多く、それでいてあまり説教臭さがない所が持ち味で、私の目指すスタイルの一つだった。10代目の会長であった。

この翌年度に私が会長になるわけだが、この日のテーブルトピックで私に対して「もし新会長に指名されたら」という出題が出されている。これも何かの因縁だろうか。もちろんこの時は自分が会長になるなどとは思っていない。ただ前にも書いた通り、この頃は会員の入れ替えが激しく、江戸クラブ黎明期のメンバーは大嶋R氏のみで、私が入会した頃のメンバーも数名しか残っておらず、初期の江戸クラブの残り香を漂わせながら、会の中心が次の世代へ移行しつつある時期であり、このまま残っていればいずれは私にもお鉢が回ってくることは必然とも言えた。

「流れる水は腐らず」という形容がこの時期には相応しい。翌年度以降はさらなる激変が待ち受けていたのだから。
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by inv-pyramid | 2007-01-07 22:11 | 1997年

変革の芽

1997年は消費税が5%になった年である。便乗値上げも相次いだ。個々人の懐具合もお寒くなる中、江戸クラブの会費は6000円で据え置きのままだった。一方で為替レートは今よりも円安で、この当時クラブ会費の残高は20万円ほどあったが、微妙に目減りしていた。会計になった私がまず最初に提案したことは、当然のごとく会費の値下げであった。月900円と800円の2案を提示し、結局月800円案が採択された。時代が時代だったからか、他のメンバーから異論は出なかった。月800円では、年間の収入としては目減りすることになるが、千駄ヶ谷社教館が無料なこともあり、まだ十分やっていけるという判断がそこにはあった。

この時期、もう一つ従来と変わったことがあった。社教館にロッカーが設置されたことである。これで荷物を社教館に置くことができ、長年クラブを煩わせ、時に人間関係にも影響を与えた荷物運びから開放されたことは、クラブに取って大きなアドバンテージとなった。早速会場係の谷岡氏が会場準備についてのルール作りに着手し、先着者がロッカーを開けて利用承認書を取り出し、部屋を準備するという現行の手順が確立された。
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by inv-pyramid | 2007-01-04 12:51 | 1997年