人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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クラブの生命線

クラブの生命線とは何だろうか。人によってとらえ方が異なると思うが、私はそれは会場だと思う。我々のようなコミュニティクラブでは初めに会場ありきでなければ、たちまち運営が立ち行かなくなる。会場探しの苦労というのは、だからやったことのある人でしかわからない。備品の管理もまた然りである。

江戸クラブは今でこそ千駄ヶ谷社教館を根城としているが、それ以前は会場を転々としていた。ゲストが時々「何で千駄ヶ谷なんですか」と尋ねることもあるが、私は千駄ヶ谷でよかったと思っている。ただ会場は無料でよかったが、備品の管理は厄介だった。今でこそロッカーがあるが、この頃はそんなものはなく、毎回会場係が運んでいた。私が会場係を行う前は、鹿野氏が会場係で、社教館の登録上の代表者である中野氏の会社が千駄ヶ谷にあるため、そこに荷物を置かせて頂き、鹿野氏が毎回取りに行っていた。それは鹿野氏が中野氏の下で仕事をしていた関係もあった。それが私の代になったので、毎回私が運搬することとなった。私は自宅から運搬していた。

当時は演台(レクターン)が自作のものでかなり大きく、必然的に鞄も大きかった。私が運ぶことになってからは、私の鞄で納まるようにすべく、演台を小型の物に作り変えた。これが現在まで続いている自作演台の始まりであった。当時は段ボールではなく板で作っていた。バナー、ギャベルなどと合わせても十分通勤鞄で収まるサイズとなった。

しかし、会場近くに預けるのではなく自力運搬となったため、会場係としては例会を欠席するわけには行かなくなり、これを負担に感じることもあった。これは会場係を経験したことのある人なら、一度は実感することだろう。他クラブでも同様の問題を抱えているところはあり、会場係はクラブの生命線であると同時にアキレス腱でもあった。
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by inv-pyramid | 2006-09-24 08:30 | 1995年

女性会員の台頭

7月4日と聞くとつい「7月4日に生まれて」という映画を思い浮かべてしまうが、アメリカ合衆国独立記念日のこの日は第145回例会。新年度の始まりである。恒例の新役員就任式で幕を開けた。

新会長は大嶋氏以来の女性会長として野島氏が就任した。以下、女性4名、男性2名という布陣はこの頃の江戸クラブのメンバー構成を良く物語っていた。この日の例会ですら、男性5名、女性7名という割合だった。まさに女性会員の台頭である。ちょうど現在のやまのてクラブのような状況だった。その中で私は初入閣で会場係を拝命した。今にして思えばこの日が暗転の始まりだったのかも知れない。

私は別にフェミニストでもなければ女性差別主義者でもない。私はただ会のバランスを重視したかった。男性中心のクラブと女性中心のクラブでは雰囲気が自ずと違ってくる。男性中心のクラブでは話題も結構硬いものが好まれるが、女性中心のクラブでは生活的なものなど身の回りのネタが多い。男性ばかりの中に女性が一人入ってくるだけで雰囲気が柔らかくなる。しかしそれが半々ぐらいの割合になってくると、面と向かっての議論なども難しくなってくる。話がこじれて感情的になってくるともう収拾がつかない。トーストマスターズといえども所詮は人間の集まりなのだ。時として理性より本能の方が勝ってしまう場合もあるだろう。

とにかく私は色々な面で危惧を感じていた。しかしまだこの頃は問題が表面化するはずもなく、夏の開放感の中で忍び寄る秋の気配、そして冬の訪れを静かに感じていた。
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by inv-pyramid | 2006-09-23 00:58 | 1995年

全日本スピーチコンテストinアメリカンクラブ

1995年の全日本スピーチコンテストは、6月24日東京アメリカンクラブで行われた。JTC時代はまだ秋季大会、春季大会の様な形で年次大会は行われておらず、毎年6月にスピーチコンテストと総会を行うのみだった。また日本語と英語のコンテストは別々に行われていて、たいていは英語のコンテストの1,2ヶ月前に日本語のコンテストが行われていた。ただ、この年は珍しく日本語と英語が同じ日に同じ場所でコンテストを行った。午後がはまクラブ運営での日本語コンテスト、夜が東京クラブ運営での英語コンテストだった。

アメリカンクラブでのコンテストは、丸テーブルを6個ほど並べての会食スタイルだったが、日本語コンテストはお茶とお菓子のみだった。私は全国レベルのコンテストには参加したことがなく、カジュアルな格好で遅れて参加したが、中に入ったら格式の高そうな会場の中でみな正装で着席していたので、場違いな所へ来てしまった、というのが正直な気持ちだった。出場者は全部で6名で、関東地区の他、名古屋、熊本からの参加もあった。硬派なスピーチもあればユーモアのあるスピーチもありで、コンテスト独特の緊張感をたっぷりと味わった。もちろん会場が治外法権下にあるアメリカンクラブということも手伝っていた。

優勝は横浜クラブから出場した梅原氏「自由って何?」。時折見せる神がかったような表情が印象的な方で、信ずるものは救われる、というようなことを訴えられていた。スピーチに引き込まれる、という感覚を初めて味わった。私にとって決して忘れることのできない話し手である。江戸から出場した田辺氏はここでも唯一の女性出場者で、見事3位入賞を果たした。

一部のはまのメンバーはそのまま夜の英語コンテストに参加し、その他のメンバーはコンテスト終了後はアメリカンクラブを後にし、当時まだできて間もない恵比寿ガーデンプレイスに繰り出した。その後のことは知らない。
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by inv-pyramid | 2006-09-20 00:36 | 1995年

スピーチコンテスト初挑戦

1995年6月6日の第143回例会では、全日本スピーチコンテストのクラブ内予選が行われた。最近はインハウスコンテストなどと呼ばれることが多くなってきたが、この頃はクラブ内予選という呼び方が一般的だった。インハウスコンテストという呼び方は英語クラブからの影響だろうが、TMのマニュアルにはインハウスコンテストという呼称は実はどこにもない。正しくはスピーチコンテストのクラブレベル、もしくはクラブスピーチコンテストである。日本語クラブなのだから、せめて日本語らしく呼び習わしたいものである。

それはさておき、私はこのクラブ内予選に初出場した。私はこの時点までにでちょうど6回のスピーチを終えていた。ただこの頃は日本がまだ正式なTMの一地区ではなかったこともあり、日本語クラブでは基本マニュアルを4まで終えていればよかった。予選への出場者は4名で、私のスピーチは「雪山の掟」なる題の山ネタ。ピッケルなどの小道具を使って、山での遭難体験を話した。優勝は唯一の女性出場者の田辺氏で題が「戦争と平和」。一部の審査委員の話では私のスピーチが1位という声もあったようではあるが、まだまだ上手な方が多く、毎年の様に全国大会へ出場するようになるのはまだ先の話だった。
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by inv-pyramid | 2006-09-17 00:26 | 1995年

新たなる潮流

1995年といえば、ウインドウズ95が発売された年である。それまでパソコンといえばPC98が圧倒的多数で、しかしそれでもパソコンユーザーはまだまだ少なかった。江戸クラブでも例会プログラムは手書きとワープロでの作成が半々ぐらいで、またワープロも現在の用に多数の書体を使えるものではなかったので、画一的で平板な文字によるものが多かった。本格的なインターネットの活用は次のウインドウズ98の到来まで待つ必要があった。今日のようなメールでのやりとりなどまだまだ考えられない時代だった。

江戸クラブのメンバー構成も微妙に変わりつつあった。創立初期は外国人会員が多かったわけだが、外国人は徐々に減り始め日本人主体のクラブになりつつあった。私の入会時で外国人は3人、この時点では会長の朴氏一人になっていた。代わって台頭してきたのが女性会員である。これはやはり前年の日経ウーマン誌への広報効果が大きく、95年に入ってからは例会の男女比の割合が、4:6、5:5、6:4など、女性が占める割合が増えてきた。女性の社会進出がクローズアップされていた当時の社会情勢をよく反映しているとも言える。

女性が増えると会の雰囲気も変わるもので、特にスピーチなどは女性好みのネタが多かった。比較的多い話題が結婚ネタで、自分の見合い話経験や結婚します、しました宣言をスピーチの中でする方もいた。私はこの状況に少なからず危機感を覚えていた。次年度の役員構成が女性5、男性2となったことでその思いはさらに強くなった。このまま女性主体のクラブになるのではないかと思えたほどである。新たなる潮流の訪れを予感した。
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by inv-pyramid | 2006-09-16 23:59 | 1995年

ディベートワークショップ、その日

かくして1995年4月16日の日曜日、紆余曲折を経てJTCイベントとしてのディベートワークショップが千駄ヶ谷社教館で開催された。江戸、はまのメンバーを中心に名古屋や熊本からも有志が参加した。JTC役員としては当時のガバナー斎藤氏(現田園都市クラブ)、井上氏(現青山ランチクラブ)らが参加された。

ワークショップは3本立ての構成で行われた。まず最初は井上氏による講演。よく行われる二人一組になってのペアディベートを全員で行った。続いてはモデルディベート「熊本市を日本の首都にすべきである」。江戸メンバーの大嶋氏と間中氏の1対1による掛け合い的なディベートは、ユーモアを交えながらディベートの流れを分かりやすくする意図があった。

そして最後にこの日のハイライト「日本政府は安楽死を立法化すべきである」。この論題は元々はディベートコンテスト用に設定されたもので、出場予定クラブは既に色々な情報を集めたりの準備をしていたので、それを生かす形となった。江戸クラブ田辺、豊田組対はまクラブ飯牟礼、太田組の論戦は流石に準備万端で見事なものだった。奇しくも女性組対男性組となったので女性、男性双方の考え方の違いも反映された。

都合3時間強のワークショップとなったが、ディベートへの理解を深めるには十分過ぎるほど濃厚なイベントとなった。日曜は休みというらむろを特別に開けてもらってのもつ鍋パーティーで2次会が行われた。
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by inv-pyramid | 2006-09-11 22:01 | 1995年

トーストマスターズとディベートその2

ディベートコンテストの論題にはどのようなものが選ばれていたのだろうか。以下は当時の資料からの抜粋である。

1991年 「日本政府はPKO(国連平和維持活動)に自衛隊を参加させるべきである」
1992年 「医師は患者にガンを告知するべき」
1993年 「日本政府は1994年中に関税を撤廃し食用米の輸入を自由化すべきである」

いかにも当時の時代背景が偲ばれる論題ばかりである。テーマとしては少々硬い気もするが、コンテストの論題としては誰もが理解している内容で、かつその時代の話題であり、資料収集が容易なものが厳選された。結果として、時事問題ばかりになってくるわけである。論題選びには「日本の論点」などの出版物がよく利用された。私も1995年のコンテスト実行委員になった時、この論題選びにまず時間を費やした記憶がある。ディベートコンテストでは、定義が明確にできるものでなければならないという前提があり、曖昧な論題では論点が明確にならず、審査も難しいというわけである。「日本政府が」などの主語が入っているのはそのためだ。

ディベートコンテストにはそれ用の審査用紙が用意されており、肯定側、否定側の論点を分析評価できるようになっている。このコンテストの難しいところはその進め方である。出場チーム全てが同じ論題でのディベートを競うため、トーナメント方式が採用される。A、Bチームの勝者とC、Dチームの勝者が決勝に進めば、また同じ論題でのディベートを行う。1回の論戦で40分程度の時間がかかりるので、4チームのコンテストであれば都合3回のディベートが行われる。この状況を楽しめるか、苦痛と感じるかである。

2000年3月に名古屋で行われたコンテストを最後に、以降行われていないのは(英語は除く)、ディストリクト体制になって年2回のコンテスト制となり、クラブ、エリアと勝ち上がりで行われる現在のシステムにそぐわないからだと思うが、折をみてまたやってみるのもいいかも知れない。トーストマスターズが決して個人スピーチ研鑽のためだけの場ではない、ということを実感するためにも。
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by inv-pyramid | 2006-09-10 00:18 | 1995年

トーストマスターズとディベート

1990年代、ディストリクト76つまり日本地区がまだ日本トーストマスターズ評議会、略してJTCと呼ばれていた時代はディベートに関するイベントが盛んに行われていた。それは一つにはディベート研究所を主宰されていた井上氏の存在もあるだろうし、ディベート好きな会員が多かった、否その様な活動をすることが目的でトーストマスターズに入ってきた人が多かった、ということもあるだろう。江戸クラブにもその様な論客が結構いた。手元の資料には「クラブの会員数が増えてくると討論会が重要になってきます。クラブ内での意見交換ばかりでなく、討論の題目として現代に関わる重要な問題などを選ぶことによって、他のクラブの人々と共に問題点に対する知的な意見を作り出し、自分のものとしていくことができます」とある。つまり討論のトレーニングの一環としてディベートが位置づけられていたわけである。

ちなみにトーストマスターズのマニュアルにもディベートハンドブックなるものが用意されているが、トーストマスターズ全体の中での位置づけはそれほど大きくはない。それはアメリカでは学校教育の中でディベート教育も行われ、日常的に行われているからだろうか。日本でも主として教育団体を中心としたディベート協議会などがあり、普及活動が行われている。トーストマスターズのメンバーには教員の方も多いので、その様なメンバーが中心となって、ディベートコンテストやワークショップが毎年行われてきたという側面もあると思う。

この頃はまだ日本語クラブも数が少なかった(関東2、中部3、九州1※正クラブのみ)ので、どのクラブも毎年必ず何かのコンテストを運営していた。その中で江戸クラブは実に3回もディベートコンテスト、ワークショップを運営していた。ディベートコンテストは事前に論題を決め、それに関する定義付けや資料の収集など準備が大変であり、なおかつメンバーのディベートに関する認識を高めるため、ディベートのやり方の勉強などもしていたので手間がかかった。一部のディベート好き会員に引っ張られていた面もある。しかしそれでも何度もこのイベントを運営したということは、クラブにとっては貴重な財産になっていたのかも知れない。コンテスト運営もディベートも初心者の私としては、ただ半信半疑でついていくだけだった。
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by inv-pyramid | 2006-09-07 23:50 | 1995年

1995年、阪神淡路大震災、そして...

1995年といえばまず想起されるのが阪神淡路大震災である。トーストマスターズもこの震災とは無関係ではなかった。当時関西にはチャーターを目指していた日本語クラブが一つあった。西宮クラブである。元ディストリクトガバナーの稲継氏も所属していたこのクラブと江戸クラブは、この年の3月に西宮でのディベートコンテストの開催を予定していた。私は大嶋氏や佐藤氏と共にこのイベントの実行委員として、昨年から色々と準備を始めていた。その矢先の事件というか災害がこの阪神淡路大震災だった。この震災の影響で、西宮クラブが押さえていた会場が被災し、西宮クラブ事態も活動を休止する事態に追い込まれた。天変地異を前にしては誰もトーストマスターズどころではない。

協議の結果、ディベートコンテストはディベートワークショップと形を変え、江戸クラブ主体でこの年の4月に千駄ヶ谷社教館で開催されることになった。この件を始まりとして、江戸クラブの流れが少しずつ変わり始めたのがこの1995年という年だった。創立から7年が経とうとしていた。
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by inv-pyramid | 2006-09-07 23:10 | 1995年

自分らしさ

「個性が良く出ていました。らしいスピーチで聞いていて楽しかったです」「やっぱり男は夢を追い求める事が大切ですよね」「いつも誰もが思っていたりすることで共感できました」...これらは私が基本#3「スピーチを組み立てよ」の課題で披露したスピーチに対するコメントである。小椋桂の歌に乗せて自分と友人の生き方を比較しながら、夢を追うということをテーマとした内容だった。私のスピーチはこの手の内容が多いので、長年この活動をしていると、いただくコメントも似た内容のものが多い。つまり「その人らしい」スピーチということである。

入会してまだ3回目のスピーチであるのに、「らしいスピーチ」と言われるのも変な気もするが、トーストマスターズというのはある部分自分をさらけ出す場でもあるので、つき合いが短くとも「その人らしさ」を感じさせる空気があるのは確かである。これがもう少しつき合いが進むと、その人のスピーチの傾向というものがよくわかってくる。この頃のメンバーでも結婚ネタの多いT氏や会社員生活の悲哀話の好きなK氏、社会的な事象についての独特の突っ込みが持ち味のM氏など、その人が話せばああ成程と思わせたものだ。

スピーチには人生観や価値観、己の哲学、美学といったものが著しく反映される。それらが凝縮された5分から7分の時間は、まさに自分らしさが表現される舞台である。同時に自分らしさを取り戻す場でもある、とも言える。今日までこの活動を続けているのは、そんな自分らしさを追求しているからかも知れない。
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by inv-pyramid | 2006-09-05 23:19 | 1994年