人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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社教館まつり

江戸クラブは1994年当時は既に千駄ヶ谷社会教育館(以下、社教館)で月2回の例会をしていた。社教館というのは、都内の各区に存在する、公民館とはまた違った性格の施設で、区民が自主的に社会教育活動を行うことを支援する施設という位置づけを持っている。貸し会議室が無料というところがポイントだが、これには条件があり、団体登録をし、なおかつ構成員の半数以上がその社教館が存在する区の在住、在勤、在学者でなければならない。ちなみに千駄ヶ谷社教館は渋谷区の施設である。それまで会場を転々としていた江戸クラブがなぜ千駄ヶ谷に拠点を移したのかといえば、それは当時の会員だった中野氏という方が千駄ヶ谷在住だったからだ。

登録団体となったからには、ただ会議室を借りるのではなく、地域活動にも参加して社教館への印象をよくしておく必要がある、という意図があったかどうか定かではないが、当時の江戸クラブは社教館が毎年3月に行っている、「社教館まつり」という登録団体の活動発表の場、つまり文化祭のようなものにも参加していた。

スピーチコンテスト、ディベートと続いてさらに社教館まつりでのデモ例会と、1ヶ月の間に3度も特別な例会を行うことのできるエネルギッシュなものが当時の江戸クラブにはあった。クラブを支える中心メンバーの志の高さ、とでも言うのだろうか。それが私が入会を決める一つの要因になったことは間違いない。後に私が会長になった時、私もまた社教館まつりに参加し、デモ例会を行ったのは、この頃の江戸クラブに対するリスペクトがあったからかも知れない。
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by inv-pyramid | 2006-06-20 01:12 | 1994年

ディベートの洗礼

さて、初見学に続けて3月の第3火曜日の例会も見学した。手元の控えでは119回例会とある。今回はディベート勉強会。前回のスピーチコンテストに続いて2回連続での特別プログラムである。最近の例会の風潮として、スピーチマラソンなど個人の課題スピーチばかりを進める傾向が目に付くが、当時は何回かに1回は特別なプログラムがあった。それはまだ、日本のトーストマスターズが国際本部から正式な地区として認められていなかったという時代背景もあるだろう。正式な地区、日本支部として認定された現在では、それに伴い上級トーストマスターを年間数百人も認定せよ、というノルマが課せられるため、勢い個人のスピーチプロジェクトの消化が例会の活動の中心になる。それを否定はしないが、トーストマスターズのプログラムはもっと幅広い。昔の方が柔軟に活動できていたように思うのは私だけだろうか。

話が横道にそれたが、この日私はディベートというものを目の当たりにした。2組のチームがある論題に対して肯定側と否定側に分かれ、立論、尋問、最終弁論という流れで論陣を張る論戦の場。いかにも訴訟社会のアメリカで発達したような議論の手法は、私の目には新鮮に映った。この日の論題は「日本政府は1994年に関税を撤廃し、食用米の輸入を自由化すべきである」。当時の時代背景が偲ばれる。大嶋夫妻に野島、鹿野といった当時の江戸の論客たちによる舌戦は熱がこもり、これがディベートか、と見る者を納得させる迫力があった。と同時に最後に審査で肯定側、否定側どちらかが勝利を収めるという終わり方には釈然としないものも感じた。しかしこれは法廷などで最後に判決が下されることを考えればしごく当然なことなのだろう。2つのチームがそれぞれの意見を戦わせ、最後は第3者が判定を下す。この日以後、私はトーストマスターズにおいて何度かディベートに関わることになる。その記念すべき初日がこの日となった。
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by inv-pyramid | 2006-06-08 00:30 | 1994年

なぜ、江戸なのか

私と江戸クラブとの出会いは1994年であるが、江戸クラブ自体は1988年から活動を始めていた。江戸クラブは関東の日本語クラブとしては歴史が古いが、江戸クラブが活動を始めた時には、既に愛知県に名古屋、春日井、愛知の3クラブが、また熊本県に熊本クラブが存在していた。ここでは江戸クラブ誕生のいきさつについて少し触れておきたい。

日本で一番古いトーストマスターズといえば、東京クラブと福岡クラブの2つの英語クラブで、ほぼ同時期に設立され50年以上の歴史を持っている。江戸クラブはその東京クラブから枝分かれしたクラブである。当時東京クラブに在籍していた外国人が日本語の勉強のために外国人のための日本語のクラブを作りたい、というのが話の始まりで、それに賛同した日本人の協力を得て、活動が始まったとのこと。ちなみに私は現在宇都宮で新クラブの立ち上げに奔走しているが、この江戸クラブの発起人とも言えるアメリカ人が宇都宮近辺で英語を教えているという事実を最近知った。

というわけで設立当初は外国人会員の方が多かったそうで、今の江戸クラブの状況からすれば信じられないだろう。後に私が設立に関わった武蔵クラブも同じような経緯を持っている。「江戸」という名前の由来は母体となった東京クラブに対するもので、外国人の日本文化への想いも反映されているのだろう。例会も東京クラブが大手町の三井物産ビルで行われていたのに対して、江戸クラブは博報堂の会議室で行われていた。千駄ヶ谷に移ったのはずっと後の話で、その間は場所を転々としていた。その間のいきさつは、私が編集した江戸トーストマスターズクラブ15周年記念誌にまとめてあるので、ここでは省略するが、活動を開始して正式なトーストマスターズクラブとして、アメリカの国際本部の認証(チャーター)を受けたのは、1年後の1989年のことである。であるから私が始めて見学に訪れた時は、認証後5年目のことになる。その時点での外国人会員はアジア人も含めて3名だった。

クラブも5年を経過すると顔ぶれも変わるもので、創立時のメンバーはほとんど残っていなかった。しかし、私も知らない創立時のメンバーとは以後時折顔を合わせる機会が何度かあった。私も江戸クラブ創立時の資料、とりわけクラブ認定証については折に触れ探しているが、未だに見つからない。それだけ、このようなクラブを長年に渡り維持するということは大変なことなのだと思う。
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by inv-pyramid | 2006-06-04 02:16 | 1994年以前

1994年、江戸・東京。

手元の記録では1994年3月1日とある。恐らくまだ寒い夕刻、私は千駄ヶ谷駅の改札を出たはずである。左手に東京体育館を見ながら、江戸クラブの例会会場である千駄ヶ谷社教館を目指した。まさかこの日から数年間、ここに通うなどとはまだ思っていなかった。もちろん逆ピラミッドの理念などは、この時点ではこれっぽちも頭の中にはない。鳩の森神社、もみじ茶屋のある5差路の風景は、現在とほぼ同じだった。

初めて訪れた江戸クラブでは、スピーチコンテストのクラブ内予選を行っていた。トーストマスターズでは毎年5月に全国のクラブが集まり、全日本スピーチコンテスト(現在は国際スピーチコンテスト)を開催している。その第1関門がクラブでのコンテストだった。審査員には、今をときめく井上氏が名を連ねていた。この頃はまだ日本語クラブにもよく顔を出されていた。

例会は千駄ヶ谷社教館の2階中会議室だった。現在もここで同じように例会が行われていることを考えると、感慨深いものがある。私は窓側の席に座った。クラブコンテストでは7、8人のメンバーが次々にスピーチを披露していた。大嶋、朴、間中、鹿野の各氏など当時の江戸クラブを支えていた方々は一人一人が個性的で、私はただ圧倒された。カルチャーショックと場違いな所へ来たという思い、そして興味深さとがない交ぜになった気持ちでトーストマスターズとの邂逅は終わった。

この時はまだ、江戸クラブ以外に他のトーストマスターズがあること、英語のクラブがあることなどは知らなかった。初めて参加したクラブが日本語クラブだったということは、その後の私の歩みを考えると、幸せなことだったのかも知れない。今も昔も私にとっては、トーストマスターズ=日本語クラブ、否、母国語クラブなのだから。
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by inv-pyramid | 2006-06-01 01:09 | 1994年