人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年後半( 36 )

[江戸編] されど受難の日々

7月27日の第232回例会以降、年末に至るまでは出席者が会員、ゲスト含めて1桁台の例会が続いた。江戸クラブ受難の年となったこの年度を最も的確に示す状況であった。会に勢いがないときはこんなものなのだろう。人数が揃わないので定刻には始まらず、毎回のスピーチも1,2本という有様では、会長の意気込みも空回りするだけであった。

例えば7月27日の例会では、スピーチ2本の予定が1名欠席で1本となり、例会が何と20時15分で終わった。2時間の例会で45分も余るという状況では、いくら場をつなぐにしても長すぎる。皮肉にも今夜の言葉は「繁栄」。2次会が反省会となったのは言うまでもない。

続く8月3日の例会は会員4名、ゲスト2名という体たらくで、私が江戸に入会した以降での最低記録となった。もっとも旧やまのてクラブでの会員2名、ゲスト4名という記録もある。この日は事前より欠席者多数になることはわかっていたが、夏休みとはいえお寒い状況であった。こんな日に限って女性ゲストが2名も来たりするのだが、このような有様では勧誘するのも虚しかった。ただ、この日来た女性ゲスト2名、川浪氏と赤根氏は後にキーフォースクラブへ入会することになる。特に赤根氏とはこの後リーダーシップクラブで再会し、さらに響クラブ設立にも協力して頂くことになるのだから、そういう点ではこの日の例会は記念すべき日になった。

その後、9月、10月頃までは、開始時刻が19時15分前後、参加者6~8名、ゲストなしという日々が続いた。参加者が6名ちょっとということは、つまりほとんどが役員というわけで、当時の江戸クラブの最も濃いメンバーだけで例会をこなしていたことになる。だから例会が退屈になることはなかったが、例会の予定表はあくまでも全員参加を想定して役の割り当てをしているので、毎回予定通りに行かないのは教育担当としては忸怩たるものがあった。9月の半期報告では、17名更新ということで本部には報告したが、半分は幽霊会員で音沙汰のない方ばかりであった。大嶋R氏の登録もこの時点で抹消した。
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by inv-pyramid | 2008-03-18 04:48 | 1999年後半

[江戸編] 涙のロッカー抽選会

7月6日は江戸クラブ例会と並行して千駄ヶ谷社教館の利用者懇談会が行われていた。役所の年度代わりに合わせて、この頃は例年7月の第1火曜日に懇談会があった。この前年までは、登録代表の中野氏に出席をお任せしていたのだが、この年は私が江戸例会を途中抜け出して出席した。社教館祭りで職員の方々と懇意にしていたこともあり、また中野氏の関与が以前と比べて難しくなっていたこともあったが、ロッカーの抽選という一大事を他人任せにしておくことに抵抗があったことが一つの理由でもあった。自分が出ればロッカーの抽選に当選するという強い確信はなかったが、自分の目で抽選会を見ておきたいという欲求もあった。

利用者懇談会は、社教館の利用団体が年度初めに集まって、各団体の紹介や館長の挨拶、社教館祭りの相談、意見交換などを行う場だったが、各団体の関心事はロッカーの抽選会にあることはありありで、抽選会の時間になると参加者間に緊張が走った。私は江戸とさくら両クラブを代表していた。この年度は館長の交代があり、新館長がくじを引いていた。新館長は利用者に気さくに対応されていた前館長と比べると堅い感じの方で、前年度の様には行かないだろうな、という予感があった。これが後々の江戸クラブ最大の危機の伏線ともなった。

抽選の結果、涙を呑んで江戸は外れとなり、さくらは補欠当選となった。補欠当選とは、ロッカーに空きが出来たら繰上げで利用することができるというもので、事実上は外れと変わりなかった。こうしてこの年度も荷物の持ち運びが確定した。ロッカーは後に増設され、翌年度からは江戸クラブにもロッカーが割り当てられることになったが、この時は軽い失望感を味わって、私は懇談会場を後にした。
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by inv-pyramid | 2008-03-16 01:41 | 1999年後半

[武蔵編] 秋ヶ瀬公園で真夏のBBQ

武蔵クラブの持ち味としては、やはり家族的な雰囲気でのクラブ運営というのが欠かせない。実際例会には親子や夫婦で参加される方がいたり、野外でのイベントとなると発起人の梅本氏を筆頭として家族での参加というのが目立った。

夏休みに入った7月25日の日曜に行われたバーベキュー大会もその一つで、荒川の河川敷にある秋ヶ瀬公園で楽しい一時を過ごすことになった。当日は朝から天気もよく、武蔵浦和の駅に集合後、車で移動した。秋ヶ瀬公園には野外のバーベキュー場があり、川上氏が事前に調べて予約していた。一同車から道具や食材を運び込んで、暑い日差しの中、慣れぬ手つきで火を起こすところからバーベキューが始まった。
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レンガの炉に薪をくべてのバーベキューは一同初めて、もしくは久しぶりという方が多く、火を起こすまでに時間がかかったが、無事火が入ってからはそれぞれが持ち寄った食材を投入して、野外料理の雰囲気が出来上がった。特にパイザー氏のアメリカ流のハンバーグをつなぎ無しでひき肉だけを丸めて焼くいうスタイルが興味を引いた。
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炎天下、木陰で涼みながら延々と15時過ぎ頃までこの宴は続き、帰る頃にはすっかり日が落ち始めていた。秋ヶ瀬でのバーベキューはこの後もう1度行われ、以降は場所を移して毎年行われた。都内のクラブとは違う郊外のクラブの良さがそこにはあった。
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by inv-pyramid | 2008-02-17 16:45 | 1999年後半

[武蔵編] CへGO!

1999年7月の時点で、武蔵の会員数は16名となった。チャーターまで後4人ということで、俄然クラブの雰囲気にも勢いが出てきた。つい半年前までは一桁台の出席数で例会をこなしていたことを考えると、人数増加に比例した例会の雰囲気の明るさはやはり何物にも変えがたかった。

ただ、入会者の傾向は依然として市外からの方が多く、上尾や所沢、小平といった所から電車や車で来られていた。地域へのアピールはまだまだ弱いということを実感した。チラシ配りや街頭でのアピール等を地元でやってはいても、効果のほどは今一つという所であった。

そのような状況下で2回目の役員会が再び池袋で行われた。先のJTC総会で武蔵がテーブルトピックコンテストを運営することになったので、その打ち合わせが主な議題であった。この時点ではまだチャーターセレモニーとコンテストを同日に行うという考えはなく、コンテストのみについて打ち合わせていた。後4名でチャーターという状況ではあったが、コンテスト運営を前提とすることなく、チャーターはチャーターとして地道に行うというのが役員の共通認識だった。現ディストリクトの体制下では考えにくいことで、旧JTC時代ならではの発想と言えなくもなかった。つまり正規にチャーターしていないクラブが、チャーターを前提とせずにコンテストの運営を議論しているという点がである。

しかしこれは後で考えれば全くの杞憂で、翌月に再び新聞にクラブの紹介記事が掲載されたことで、武蔵への入会者がさらに増え20名を達成、結果コンテストとチャーターセレモニーを同日に行うことになり、万事目出度しという筋書きになろうとは、この時点ではまだ誰も思っていなかった。
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by inv-pyramid | 2008-02-15 06:45 | 1999年後半

[武蔵編] 武蔵倶楽部創刊

1999年の年度変わりになって武蔵初のクラブ会報が発行された。名前については色々と意見が出たが、最終的には「武蔵倶楽部」という無難な線に落ち着いた。
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創刊号には大嶋ガバナー、渡辺Nマーケティング副ガバナーの両スポンサーが記事を寄せられた。記事の中では、とりわけ発起人の梅本氏が筑波クラブ時代のエピソードを披露されているのが興味深い。入会された頃はまだ学生で、クラブの接遇委員会のメンバーとなり、会場の設営やゲストの接遇をしたことがコミュニケーションとリーダーシップの実践につながった、という梅本氏ならではの優しい語り口でTMでの学びを説かれている。

そんな武蔵倶楽部も時代の流れとともにホームページ、ブログでの例会報告に取って代わり、いつの間にか発行されなくなった。ディストリクトのニューズレターも印刷物からメール配信に取って代わって久しいが、紙メディアには紙メディアの良さがある。たとえば例会で配布されることにより、その場で話題が共有できるし、少なくとも配布された時はざっと目を通すことも可能だ。メール配信では会員が読んでいるかどうかはわからず、ホームページなどではいつ記事が配信されたかも知らないというケースもあるだろう。

インターネット全盛の時代であるからこそ、紙メディアの良さを再認識し、広報活動にもっと活用されることを願ってやまない。
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by inv-pyramid | 2008-02-15 06:00 | 1999年後半

[江戸編] 転回、そして転落へ

7月6日の第231回例会で新年度が幕を上げた。新役員就任式を経て、会長は私から田中氏へとバトンタッチした。はまクラブや横浜クラブでの活躍を経て江戸へ移籍した田中氏なので、江戸の会長としても申し分ないと思われたが、今思えばそれが落とし穴でもあった。この回は私がプログラムの準備をし、田中氏が今夜のトーストマスターを務め、例会テーマを「江戸クラブ転回!」としていたのだが、後々の経緯を考えると転落への序章、と言えなくもなかった。今までに何度も述べたが、この年度は会長が2回交代した波乱の年度なのだ。日本がJTCからディストリクト76Pへと昇格する記念すべき年度の陰で、江戸クラブは2度に渡る会長交代劇を迎えるというのも皮肉なものであった。まさに盛者必衰であった。

長らく古参会員として江戸の入会順名簿のトップを飾っていた大嶋R氏は既に退会を表明し(但し会員権は残したままだったので実は休会)、事実上私が最古参となっていた。江戸の会員がほとんど全て入れ替わったわけである。江戸クラブは今年で創立20周年を迎えるが、10年以上会員権を保持している会員は一人もいない。江戸クラブという器は20年に渡って存在するものの、中身はすっかり別物ということ。ただそこにトーストマスターズの理念が連綿と受け継がれているからこそ、長きに渡り続いているのだろう。ちなみに第231回例会プログラムのメモの中に、小俣Y氏の名前があった。ちょうどこの回が初ゲスト参加で、以降断続的に参加され、一時途切れたものの最近また復帰されている。この様な方もいるという所に、20年の継続の重みを感じることもできる。

その長い歴史の中での、最初のどん底がこの年度に来たのは、何かの因縁だろうか。時に西暦1999年7月、江戸クラブの転落への緩やかな第一歩が始まろうとしていた。
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by inv-pyramid | 2008-01-28 19:07 | 1999年後半