人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年後半( 36 )

[東京BL編] 終焉の予感?ビデオテープスピーチコンテスト

11月25日に東京バイリンガルクラブの運営により、ビデオテープスピーチコンテストが開催された。ビデオテープスピーチコンテストとは、ビデオで撮影したスピーチを審査するコンテストで、出場者は自分のスピーチをビデオで撮影し、運営クラブへ送る。運営クラブは然るべき会場と審査員の前で集められたビデオを上映し、審査員はスクリーンに映し出されたビデオ映像によるスピーチを審査するのである。スピーチが生か収録かの違いだけで、後は通常のコンテストと同様の手順で進行する。つまり、司会者がいて審査委員長がいてという具合である。ただ、インタビューは当然のことながらない。

このコンテストは前年度も行われていたが、この年度の開催、つまりJTC時代を最後に開催されていない。それは一つにはディストリクト体制になってからのコンテストスケジュールの変更から来るものもあった。スピーチは生で、という向きもあるかも知れないが、トーストマスターズには「テレビでのコミュニケーション」等のテレビに映った時のスピーチを学ぶプログラムもある。映像として映った姿を競うコンテストがあってもいいと思う。

さて、東京バイリンガルクラブは一貫して日英同時開催コンテストにこだわっていたクラブであるが、このコンテストも日英同時開催で、有楽町の東京都生涯学習センターで行われた。この会場は当時の東京バイリンガルの本拠地であるが、映像設備が整っており、それでいて格安の料金で利用できた、当時としては穴場の場所であった。審査委員長にディベートでお馴染みの井上氏をお招きし、前半英語、後半日本語で行われた。英語の記録が残っていないのだが、日本語の方は5名の出場者の中、当時東海クラブの渡辺Y氏が「老いる」なる題のスピーチで優勝した。江戸からは梶谷氏が出場し、例会の時に撮影していた「正しい株の買い方」なるスピーチで2位入賞、3位は名古屋クラブの犬塚氏「原子力発電はもういらない」という結果であった。

古きよきJTC時代の終焉を告げるかの如く、ビデオテープスピーチコンテストはここに幕を閉じた。
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by inv-pyramid | 2008-04-16 02:28 | 1999年後半

[江戸編] 会長が来なくなった日

武蔵の会長交代劇と呼応するかの如く、江戸クラブでも会長の田中氏の欠席が目立つようになった。この頃の江戸クラブは会場を社教館の学習室中から学習室小に移していた。無料なのでどの部屋でもいいのだが、少人数では中では空席が目立つので小の方がちょうど良かったのである。それでも会長の欠席は目立つ。特に田中氏の様に元気のいい人の場合、いるといないでは大違いであった。田中氏は9月21日の第236回例会から3回連続欠席し、その間連絡も取れず、久しぶりに顔を見せたのは11月に入ってからであった。

その日、11月2日の例会で田中氏は既に退会されていた大嶋R氏を伴って現れた。その理由はよくはわからなかった。例会が終わった後で何の前振りもなく「江戸会長は小原さんにお任せします」と退会を匂わせる発言をした後、続く11月16日はまたしても欠席で、代わりに(?)大嶋R氏が参加。2次会では田中氏が来なくなった理由について、仕事が忙しくなった、TM内での女性問題、さらには私との不仲説まで諸説憶測が飛んだ。大嶋R氏は真相を知っている様であった。

次の会長を誰にするかという話になり、当然の様にまずは私という話になったが、私は前年度の会長で、さらに武蔵の会長も受けているため、他の人を擁立することになり、みんなの目線は大嶋R氏に向けられた。聞けば仕事が一段落したのでしばらく復帰するとのことで、だったら退会ではなく休会で良かったのにとも思ったが、ここは一先ず大嶋R氏に会長をお願いしようという雰囲気になった。すかさず国際本部へ会員登録をしたのは言うまでもない。

こうして12月の例会から大嶋R氏が3度目の江戸会長登板となった。江戸クラブの看板女優(?)はかくも健在なり、というところであった。
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by inv-pyramid | 2008-04-15 12:55 | 1999年後半

[武蔵編] 継ぐのは誰か

チャーターセレモニーの前から会長のパイザー氏は例会に来なくなっていた。元々東京バイリンガルを辞めて背水の陣で目黒から武蔵浦和に通っていたという事情に加えて、自分のデザイン事務所を構えて独立したところでもあった。人も雇い入れたので、今後は自分のビジネスに邁進したいとのことであった。パイザー氏の武蔵に対する貢献度は高く、他の誰もが退会を惜んだ。

そのような事情で、しばらくは私が会長代行を務めていた。それまでの私の役割は会員担当副会長であったが、教育担当副会長のスギモト氏も同じような理由でクラブには来なくなっていたので、3番手の私にお鉢が回ってきたのだ。パイザー氏はチャーターセレモニーの際に「次の会長は小原さんしかいないよ」と私に言った。その言葉を受けて私も会長職を受けることにした。ただ、時期が11月だったので、年内は代行とし、新年1月から正式に会長になることにした。この時期は他に会計の陳氏も仕事の関係で例会に参加できなくなっていたので、会計も代行していた。新しい会員の方も増えてきたので、役員全て1月から刷新することにした。年内はとりあえずチャーターの余韻に浸るのみであった。
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by inv-pyramid | 2008-04-14 12:55 | 1999年後半

[武蔵編] 秋風に誘われて・BBQ再び

11月14日(日)に秋が瀬公園でこの年2度目のバーベキュー会が行われた。前回が7月なので、間隔としては短い気もするが、テーブルトピックスコンテストが終わった後で、誰彼となく「バーベキューまたやりましょう」という流れになった。

今回は2度目なので、準備、集合、と手際よく進んだ。11月という少し肌寒いものの安定した季節だったので、汗だくになることもなかった。ただ、最初の火起こしの時のみ、焚き付け用の紙類がなかったので、今井氏が来るときに買ってこられた週刊誌を、本人の了解を得て焚き付け用に使わせて頂いたのが、唯一のハプニングであった。
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7月の時よりも若干参加者が少なかったので、みんなでバーベキュー台を囲むようにして、飲食していた。それはバーベキューというより、さながら焼肉屋で焼肉をつついているようなものであった。ただ、この和気藹々としたムードは以降の武蔵クラブの特徴になっていく。梅本家や近藤家など、家族を伴っての行事参加でクラブの雰囲気が形作られていった。秋が瀬でのバーベキューはこの日が最後となったが、バーベキュー自体はしばらくの間恒例行事と化していた。
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by inv-pyramid | 2008-04-14 01:20 | 1999年後半

[さくら編] 風に舞うかの如く

TMの年度末ぎりぎりまで次期役員の決まらなかったさくらクラブだったが、マスコットガールである斉藤氏が新会長に収まってからは、何事もなかったかのようにクラブ運営が進行した。ただそのクラブ運営はマイペースそのもので、当時私が所属していた3クラブの中で、上昇気流に乗っている武蔵クラブ、下降線を辿っている江戸クラブと比較しても、こんなやり方でみんな満足しているのか、と感じるほど危機感がなかった。

1999年後半、TM年度としては前期にあたる7-12月期は特に問題もなく、否問題意識もないまま例会が行われていた。例えばさくらクラブの例会プログラムでは、タイマーや集計などに事前に名前が書いてあることは稀で、当日決めることがざらだった。プログラム的にも人数が揃わなければテーブルトピック大会になったり、またプログラムそのものが配布されないこともしばしばであった。

この時期は外国人会員の加入が多かった頃で、ご主人が日本人のC山田氏、日本国籍を持つ謎の東南アジア人K阿部氏、さらに中国系アメリカ人のリー氏などバラエティに富んでいた。日本人も帰国子女の斉藤氏、海外勤務の経験もある児玉氏、英国大使館員の青木氏など、英語クラブとしての水準は高かったと思う。だから不意に2時間全てがディスカッションという例会になっても私を除いては十分対応できていたと思う。このノリの中ではTMとしてきっちりと例会を行うことなどは2の次であった。
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by inv-pyramid | 2008-04-12 02:53 | 1999年後半

[武蔵編] チャーターセレモニーはコンテストとともに

10月31日(日)の午後、浦和の埼玉会館で武蔵クラブのチャーターセレモニーが、全日本テーブルトピックスコンテストと合わせて行われた。この件についは前にも述べた通り、武蔵がテーブルトピックスコンテストを開催するということが規定路線としてまず決まっていて、それまでにクラブがチャーターされていればチャーターセレモニーも一緒に行うという話になっていた。結果的にコンテストに間に合ったので、晴れて参加者の多いイベントに合わせて行うことができた。
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ちなみにチャーターセレモニーをコンテストと合わせて開催した例としては、武蔵の他、東海と響の例がある。セレモニーを単独で行うかコンテストなどのイベントと合わせて行った方がいいのかは意見の分かれるところだが、私としてはやはりより多くの方に見届けて貰った方がいいと思うので、後者を推奨したい。もちろんそれには機会をうまく捉えることも必要だが。

さて、武蔵の場合は、テーブルトピックスコンテストの前にセレモニーが行われた。現会長のパイザー氏や発起人の1人で初代会長のスギモト氏などは既にクラブの活動からは遠ざかっていたが、この日久しぶりにみんなの前に顔を見せた。発起人である梅本氏の司会進行の下、JTCガバナーのキルパラニ氏によるクラブ認定証の贈呈、スポンサーの大嶋R氏や渡辺N氏の表彰、祝電披露、花束贈呈等を交えながら進行した。それは江戸、はまに次いで関東地区に新しい日本語クラブが誕生した瞬間でもあった。
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チャーターセレモニーに続いては全日本テーブルトピックスコンテスト。私は開催回数などは全く知らなかったが、梅本氏によれば第7回ということであった。参加クラブは英語クラブを交えて8クラブで、熊本からの参加はなく、関東と中部のクラブで行われた。司会進行は私とスギモト氏。スギモト氏が当初実行委員長だったが、既にクラブを離れていたので、実質的に幹事役の私がこのイベントをまとめていた。当時はまだスピーチコンテスト以外のコンテスト資料は日本語のものがなく、スピーチコンテストの審査用紙を配布したら、一部審査員の方からお叱りを受けたりもした。
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出題は私が考えたが、3つ考えて絞りきれなかったので、3つの出題を封筒に入れて審査委員長に1つを選んで頂くという手法にした。審査委員長は東海クラブの浪川氏で、選ばれた出題は「西暦2000年、朝目覚めると電気その他が一切止まっていました。さてあなたはどうしますか」という、当時の2000年問題を踏まえてのものであった。いかにも1999年という時代ならではの出題である。出場者一人一人に対してスギモト氏がこの出題を読み上げた。しかしここでまた問題があり、最初の2人までに対する出題の読み上げで漢字の読み間違いがあったということだった。私もそれには気付いていたが既にコンテストが始まってしまったので、後でスギモト氏に読み間違えの部分を伝えた。幸い出場者の答えに読み間違えによる表現の差異が見受けられなかったので、特にやり直しということにはならなかった。この辺はやはりコンテスト開催経験のないクラブ故のものであった。

審査の結果、優勝:三村氏(江戸)、第2位:山下氏(はま)、第3位:森氏(東京バイリンガル)が入賞された。優勝した三村氏の受け答えは風に揺れる柳のように出題を軽く受け流したという印象で、その自然体の答え方がよかった。

コンテスト後は浦和駅近くの台湾料理店に場所を移して懇親会を行った。この時に東海クラブの加藤氏や渡辺Y氏らと昵懇になり、年末の台湾ツアーへと話がつながるのであった。
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by inv-pyramid | 2008-04-10 00:54 | 1999年後半

[武蔵編] 何でもやってみよう精神

10月23日,24日の土日の2日間、彩の国さいたま国際フェア'99が大宮ソニックシティで開催された。前年度はもぐりでの参加だったが、今年度は正式なトーストマスターズとして、また正式な非営利登録団体として、自分たちのブースを割り当てられての参加であった。

そして展示ブースでの宣伝活動だけでは飽き足らなかったのか、梅本氏は特設ステージでのモデル例会の実演をも企画していた。とにかく怖いもの知らずというか、梅本氏の何でもやってみよう精神にはいつも驚かされるばかりだったが、そのお陰で武蔵クラブでは広報活動のほぼ全てを経験することもできた。引っ込み思案の私としては、この経験から得たものは大きく、後の活動にも生かすことができた。

ステージで武蔵に割り当てられた公演時間は1時間で、内容は前半がトーストマスターズのビデオ上映、後半がモデル例会という構成で行われた。トーストマスターズのビデオはチャーターキットに入っているモデル例会の実演ビデオで当然英語である。したがってビデオ上映中は梅本氏が同時通訳していた。続いて行われたモデル例会は、武蔵の第1回デモ例会で行われたのと同じ手法で、実際に登場する会員以外の役は全てプログラム上にのみ存在するという形。今日のトーストマスターは佐藤氏が務め、ヴォート氏と大嶋T氏がスピーチ、パイザー氏と私が論評を行った。

通常の例会と違ってステージの前には一般の観客がいるわけだが、舞台度胸があるのか、みんな落ち着いていた。私の場合、論評だったので出番は一番最後。そのためか比較的落ち着いて話すことができた。
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モデル例会後に、JTCガバナーのキルパラニ氏が壇上に立ってスピーチ。非常に分かり易い英語で梅本氏が同時通訳していたが、後に日本語が話せることが判明。キルパラに氏とはこの後頻繁に顔を合わせるようになった。氏の自宅と私の会社が近所なので、道を歩いている時に遭遇することもしばしばあった。
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by inv-pyramid | 2008-04-07 01:10 | 1999年後半

[武蔵編] 念願の日を迎えて

武蔵クラブが正式なトーストマスターズクラブとして認定、つまりチャーターされたのは1999年10月13日である。第1回の準備会が行われたのが1998年8月、第1回の例会が行われたのが同年10月であるから、チャーターまで丸1年かかった。最初の半年間は泣かず飛ばずで、その後徐々に風向きが変わり始めて入会者が増えだし、チャーターに至った経緯を振り返ると、最初から関わった者としては感慨深いものがあった。

特に発起人である梅本氏の情熱とTMのクラブ設立マニュアルに忠実なクラブ作りには学ぶ所が多かった。それでも当時は現在と比べて英語力にも乏しく、マニュアル類も正直な所読みきれていない部分も多かった。「学ぶ所が多かった」、とは今だからこそ言えることである。武蔵がチャーターした頃は、まだ自分がクラブ作りをすることになるとは夢にも思っていない。ただ、触発されたことだけは確かである。

既に武蔵はこの年の日本語のテーブルトピックスコンテストを開催することになっており、チャーターしたことでコンテストの日に認証式であるチャーターセレモニーを行うことも正式に決定した。チャーターした日の翌日が第24回例会で、早速クラブの予選会が行われた。優勝は9月に入会されたばかりの田口氏であったが、当日は参加できないとのことで、3位の佐藤氏が出場者に選ばれた。

翌週にはさいたま国際フェアへの参加が控えており、チャーターした喜びに浸るのも束の間であった。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 19:52 | 1999年後半

[武蔵編] 恒例・横浜での合同例会

9月4日土曜日、毎年恒例となった首都圏日本語クラブの合同例会が、横浜の国際交流ラウンジで行われた。前年は千駄ヶ谷での開催だったが、今年はまたはまクラブの本拠地ヨークでの開催となった。普段は内陸の場所での例会ばかりなので、たまに土曜の昼下がり、港町ヨコハマでの例会に参加するのは気分転換にもなってよかった。

参加クラブは江戸、はま、東京バイリンガル、武蔵の4クラブで、私は武蔵として参加した。この合同例会には、江戸クラブ3代目大統領のルーマン氏や、湘南クラブ創設者でこの頃はまクラブにも入会されていた小林H氏の姿もあった。小林H氏とは後にリーダーシップクラブで活動を共にすることになるのだが、この頃はまだ藤沢のコンテストでお目にかかった程度の関係だった。

司会進行ははまの本郷氏、テーブルトピックはミスリンスキー氏が行った。ミスリンスキー氏は厚木座間クラブのメンバーで、はまには数年前より参加されていた。以前はまに訪問にした際に私のスピーチへの論評をして頂いたこともあった。スピーチは各クラブ1名ということだったが、武蔵は予定していた川上氏が欠席されたので、急遽私がすることになった。即興スピーチということで、「帰りたい」という題で、自分のこれまでを年代別に振り返るという、どちらかといえば普段あまりやらない内容で話した。論評ははまの太田氏にして頂いた。

総勢16名という、例年に比べて参加者数の少ない合同例会となったが、各クラブの状況を考えれば、妥当な人数とも言えた。合同例会自体は、翌年ディストリクト体制になってからはエリア合同例会というスタイルに形を変えて実施されることになる。したがって旧体制での合同例会としてはこれが最後となった。今は無きヨークと、その会場設備の関係から来る形式で行われたアメリカンなスタイルの例会が懐かしい。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 18:52 | 1999年後半

[武蔵編] 埼玉新聞の取材を受ける

8月の例会はお盆休みを避けて5日の第1木曜に開催された。第20回となるこの回には、埼玉新聞の記者が取材に来るということが知らされていた。武蔵としては立ち上げ時に次いで2度目の新聞社の取材である。今回の取材は、埼玉新聞の長年の読者であった近藤氏の働きかけにより実現に漕ぎ着けたものであった。

唯一の懸念は、8月ということで参加者が少ないことが予想されたことである。案の定当日は記者の方を含めて9名という状況だったが、パイザー会長を始めとして、スギモト、梅本、川上、近藤、佐藤などの主要メンバーが揃っていたので、例会自体はいつも通りに進めることができた。今夜のトーストマスターは佐藤氏が努め、テーブルトピックが私、スピーチは入会したばかりの今井氏、川上氏、近藤氏の3名が行った。アイスブレーカーを含めて3つの異なるスピーチを披露することができたのが、トーストマスターをアピールするという点ではよかった。

例会後、記者の方は主に女性、外国人を中心にインタビューを行っていた。新聞記事とした場合はその方がやはり受けるのだろう。淡々と取材されていたので、少し寂しい印象を持たれたかな、と思っていたのだが、後日掲載された記事を読んでその思いは払拭された。例会内容、トーストマスターズのことが的確に紹介されていたからだ。
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地方紙のためか扱いは大きめで、発起人である梅本氏の想いやテーブルトピック、スピーチ、論評のシステム、さらには当日のスピーチの内容にまで触れていて、申し分のない出来であった。

地方紙なので、どれ位の人にアピールできたのかは不明だったが、反響は少なからずあった。新聞記事掲載以降の例会では、埼玉新聞を見てきたという見学者の方が複数名あり、9月には5名の入会者を迎え、ついに念願のチャーターを果たすことになった。
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by inv-pyramid | 2008-03-20 17:42 | 1999年後半