人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年前半( 44 )

[東京BL編] 仕掛けられた論評コンテスト

大成功に終わった1998年の全日本スピーチコンテストに続いて、東京バイリンガルクラブは再び全国レベルのコンテスト開催に名乗りを上げていた。それは三笠クラブとの合同による論評コンテストだった。1999年2月、横須賀の米軍基地内での開催に照準を合わせ、年明けから慌ただしく準備が始まった。

開催に当たっては三笠と東京バイリンガル間で何度か綿密な打ち合わせが行われた。残念ながら私はクラブ役員ではなかったので、詳細は知る由もなかったが、例会で報告された内容はトリッキーというか何というか、今までのものとは違ったもの、それでいて論評の公平さが保てるようなコンテストにしようという意気込みが伝わってくるものだった。

それはまず出場者がテストスピーチを聴いた後、一人一人別々の部屋へ移動し、そこで各出場者が同時に論評のスピーチを披露、それをビデオに撮り、撮り終えたビデオを再びコンテスト会場に持ち込んで上映、その上映されたビデオの論評を審査するというものである。言わば論評版ビデオテープスピーチコンテストである。この方法だと、論評者一人一人が順番に発表する際の時差が生じず公平さが保てる。非常に画期的な仕掛けのある方法だった。役員の方々がいかに公平さを保つか、ということをポイントに練り上げられた企画だった。もちろん難点もあり、ビデオカメラを複数台準備しなければならない。仕掛けは独創的だったが、どちらかといえばそちらの方に腐心した部分もあった。

ちなみに本来のコンテストルールではこんなやり方は認められていない。まだディストリクトに属せず、国際本部からの制約をあまり受けないJTCの時代だったからこそ可能なことだった。それ故、この方式はたった一度切りしか行われなかった。旧き良き時代ならではの産物であった。
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by inv-pyramid | 2007-08-09 12:55 | 1999年前半

[武蔵編] 所変われば品変わる!?

年明けて最初の例会の翌週、1月21日に初めての役員会が開催された。場所は事前の申し合わせで池袋で行われることになった。武蔵浦和で例会を行っているクラブが何故池袋で役員会を、と思われる向きもあると思うが、この頃の武蔵はまだ地元メンバーは少なく、東京やその他地域からの参加者の方が多かったので、埼玉と東京の中間点ということで、池袋が選ばれたのだった。当時私やパイザー氏は目黒から、JTC広報担当で武蔵にも加入していた渡辺N氏は都内、スポンサーの大嶋R氏は神田からそれぞれ武蔵浦和へ通っていた。

待ち合わせはメトロポリタンプラザの噴水の後ろにあるカフェで、ということになり、人数が集まった段階で西口の大きな喫茶店に移動して役員会を行った。議題は多岐に渡り、特に梅本氏や渡辺N氏はTMのプログラムに精通されていたので、色々なマニュアル類のコピーをたくさん準備され、我々はただ圧倒された。特に梅本氏が第1回の役員会という早い段階で議事運営手順による進行を心がけていたのはよく印象に残っている。

例会の運営の仕方については、梅本、パイザー、私の間で色々と駆け引きがあった。皆それぞれのクラブでのやり方が染み付いているので、武蔵クラブにもそれを持ち込もうというわけである。例えば江戸では「文法チェッカー」としている役割を、パイザー氏は東京バイリンガルと同じく「日本語の生かし方」にしようといい、また梅本氏は今夜の言葉は埼玉は文法係が設定している、といった具合である。まさに所変われば品変わるで、最終的には折衷案を取ることになった。以後2007年現在に至るまでこの役割構成は崩れていない。スピーチの制限時間についても微妙なずれがあったが、とりあえずはマニュアル通りで進めることになった。

広報関連ではクラブ会報を作ることが決定され、「武蔵」という案が出ていたが、発行時には「武蔵倶楽部」と修正された。ホームページについては検討課題ということになったが、初代広報担当の川上氏の行動は早く、比較的初期の段階でホームページも出来上がった。クラブ作りの黎明期の第1回役員会は、個性のぶつかり合いもあったが、みんなが同じ方向を向いて心を一つにしていく場でもあった。
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by inv-pyramid | 2007-08-06 00:06 | 1999年前半

[番外編] 年越しは中国式餃子作りで

話が少し遡るが、江戸忘年会の折りに武蔵会員で江戸にも入会された陳氏に年越しはどうするのか尋ねてみたところ、特に予定はないとのことだったので、我が家にお招きして中国風に餃子を作って年越しをすることになった。陳氏は日本企業に研修に来ている建築技術者で、寮が新座、会社が新宿ということで武蔵と江戸に参加されていた。江戸の例会にはよく自転車で来ていた。

大晦日の夜、陳氏は友人の王氏を伴って我が家にやってきた。中国では祝いの席では必ず餃子を作るのことで、特に皮作りが重要なのだという。したがって皮作りは小麦粉を練るところから始まった。具は豚の挽肉の他は、ホタテ貝とセロリ(!)だそうで、陳氏の故郷ではこれが一般的なのだそうだ。セロリは香り付けに使うとのことで、ニラを入れるのは日本人だけとのことだった。これらの具は熱したフライパンの上で油を使ってつなぎ、手でこねた小麦粉を小さく丸めて皮を一枚ずつ作って餃子の形にする。出来上がった餃子は水餃子にするのが、中国式とのことであった。餃子の形は通常の波型の他、数が多い時の簡単な整え方も教えて貰った。こうしてできた餃子はふっくらと丸みがあり、ことの他美味しかった。この時の陳氏直伝の餃子の作り方が、以後のホームパーティーで私が作る餃子の基本となった。

大晦日なので我が家の方では年越しそばを準備し、紅白を見ながらみんなで餃子とそばを食べながら除夜の鐘の鳴るのを待った。そして1999年の幕開けとともに、近くの神社へみんなで初詣に出かけた。日本の初詣は初めてらしく、夜中の行列に並んで新年の祈願をした。

年越しをトーストマスターズの仲間とともに過ごしたのは、今のところこの時だけである。家族で過ごすのとは一味違った年越しは、餃子作りの体験共々良き思い出となった。
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by inv-pyramid | 2007-08-02 12:53 | 1999年前半

1999年、7の月・凋落と飛躍の年を迎えて

1999年と来れば、まずはやはりノストラダムスだろう。1999年7の月、空から恐怖の大王がやってくる、という例の大予言である。折からの世紀末ムードに煽られて何かと話題になったものだが、実際には何も起こらなかった。否、何も起こらなかったというのは語弊がある。この年はゼロ金利政策が発動された年で、後の格差社会を生み出す要因の一つともなった。世相的にも暗い事件が相次ぎ、光市母子殺害事件、池袋通り魔事件、京都小学校児童殺傷事件、そして桶川ストーカー殺人事件などの事件が連鎖的に発生した。年末ともなればこれまた世間を騒がせた2000年問題が起きている。明るい兆しなどは見えなかった。

トーストマスターズとて例外ではなく、前々からも述べている通り、7月の年度代わりからの1年の間に江戸クラブでは2回の会長交代劇があった。つまり3人の会長が立ったということだが、前2人の会長降板は極めて私的な理由によるもので、クラブに深い影を落とすことになった。この凋落化傾向は2001年頃にまで及び、クラブの再建計画なども例会の場で話し合われることになる。やがてこの凋落化は東京バイリンガルクラブにも伝染した。

代わって台頭し始めたのが武蔵クラブで、この年の10月に1年掛かりでチャーターを果たし、首都圏の日本語クラブの主役が交代する兆しを見せた年でもあった。また3月には台湾の日本語クラブが初めて日本に訪れ、以後の日台交流の礎を築いた。

JTCもいよいよその役割を終え、準ではあるがディストリクト76へと衣替えする年度となった。
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by inv-pyramid | 2007-07-25 00:51 | 1999年前半