人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年前半( 44 )

[江戸編] 翼の折れたエンジェル

1998-1999年度の中盤ともいえるこの時期が、私が会長だった頃の最も苦しい時期であったと思う。何しろ年度初め、本来は7人選出すべき役員を6人しか立てることができず、内1名は直ぐに連絡が途絶え、2名がほぼ休会状態になり、最終的に毎回出席していたのは私と会計のパイザーM氏ぐらいであった。とりわけ教育担当と会員担当という上位3役の内の2役が例会に来ない影響は非常に大きく、両翼を捥がれた状態でのクラブ運営は毎回綱渡りをしているようなものであった。毎回の役の割り当てなど、どうやっていたのかよく覚えていない。荷物運びは次の例会の今夜のトーストマスターに預けることにしていたので、次の司会役だけは例会当日に決めていたが、私が持ち帰ることの方が多かった。備品管理の件では以前切れたこともある私だったが、この頃はもう腹を括っていた。現在東京バイリンガルや宇都宮などで何役も掛け持ちで役員をこなしている私であるが、この頃の姿がその原点であるかも知れない。

さて、社教館まつりの前後は準備や後片付けで社教館は休館になる。というわけで3月2日の例会は東京都生涯学習センターで行われた。7月に続いて2回目であった。この頃の参加者は会社員より自営業者の方が多く、服装もカジュアルな方が多かったので、人数は少なかったが雰囲気的には柔らかなものがあった。それまで長期休会中だった会員担当の池田氏がゲスト2名を伴って久しぶりに参加していた。美術家である池田氏はこの頃動物園との、今風に言えばコラボレート企画に参画されていたのが長期欠席の理由だった。そのゲストの一人砂川氏は後に入会され、2年後の全日本論評コンテストで見事優勝されるほどの人物だった。

今夜のトーストマスターは私が務めた。テーブルトピックも欠席の野島氏に代わって私が務めたということで、この様な自作自演の例会がこの頃は何度も続いた。スピーチは2月に入会され、後に名物会員となるヨガ道場主榊原氏と、はまから移籍し次年度会長となるも半年で姿を消した田中氏、そして池田氏ということで人数が少ない分、会員の異色さが際立っていたのもこの頃の特徴として記憶しておきたい。

江戸として東京都生涯学習センターを使ったのは2回に留まったが、東京バイリンガルやさくらでもよく出入りしていたので、私にとってはすっかり馴染みのある会場になっていた。
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by inv-pyramid | 2007-09-08 22:04 | 1999年前半

[東京BL編] 激突!東京vs東京BL

3月3日のひな祭りの日、東京都生涯学習センターにて東京クラブと東京バイリンガルクラブという、当時東京都心で例会を行うTMとして覇権を争っていた(?)2大クラブによる豪華な合同例会が行われた。2強激突とも言える両クラブによる合同例会はいくつもの図式で見ることができた。曰く、親クラブ対子クラブ、古豪対新興、英語対バイリンガル、大手町対有楽町などなど。現在の東京バイリンガルクラブの状況からは想像もつかないが、当時は巨星東京クラブと少なくとも人数的には対等に合同例会ができる勢いがまだ残っていた。この頃が東京バイリンガルの絶頂期の末期であった。

当日は両クラブ合わせて40名弱が参加。東京クラブの参加者には藤山夫妻や我妻氏といった有力者、当時の外国人会員の看板だったホリデイ夫妻やキルパラニ氏、その他最近コンテストで知り合った方々などの顔が見えた。現LGETの白鳥氏(当時は植木氏)とは、年末の東京バイリンガル忘年会以来の再会で、この頃の出会いが後のやまのて設立への伏線にもなっていた。

例会は東京クラブに配慮して英語で行われた。司会はパイザー氏。テーブルトピックスは東京からP藤山氏、東京バイリンガルからターボクス氏という二人の司会による2ラウンドで行われた。スピーチは中川(東京)、福重(東京バイリンガル)、Rホリデイ(東京)の3氏。中川氏は少し前に行われた、Tall Tales Contest の入賞者で、元々は関西の方。関西人らしい愛嬌のあるスピーチが秀逸だった。東京バイリンガルの若手ホープ福重氏は#9をノストラダムスネタで料理。ホリデイ氏はボディランゲージたっぷりで、会場を広く使ったゼスチャーで聴衆を魅了した(ホリデイ氏がベストスピーカー)。

論評はマッキンタイア(東京バイリンガル)、青山(東京)、江坂(東京バイリンガル)の3氏で、江坂氏がベスト論評。総合論評は我妻氏がお手本のような総合論評を披露した。私は聴衆として傍観していただけだったが、この時の興奮は忘れられない。いくつものシーンが脳裏に蘇るほど鮮烈なものがあった。

熱狂冷めやらず、隣接するロイヤルカフェテリアでの2次会は大いに盛り上がり、またやりましょう、という声も聞こえた。最初で最後の2強激突は東京クラブの面々に東京バイリンガルの存在を認めさせたことで成功に終わったと言えた。今の心境は兵どもも夢のあと、といった所か。
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by inv-pyramid | 2007-09-03 22:08 | 1999年前半

[さくら編] 渡りに舟

年明けてさくらクラブの例会場は有楽町に移っていた。有楽町はさくらクラブの出発点であり、当初は有楽町トーストマスターズと名乗っていたのだから、紆余曲折を経て古巣へと回帰したということだろう。ただ、ここまで短期間で場所を転々とすることはクラブにいい影響を与えるはずもなく、場所が変わったことで離れていった人もいた。場所というのはTMのような会では重要な要素である。高田馬場、表参道、有楽町という変わりようは、都内ではそれほどの距離感はないように思えるが、参加者にとっては通勤ルート上だったり、会社または自宅から近いか遠いかというのは、特に平日の夜の集まりでは大きな問題である。

場所が変わったことで1999年初頭は例会の参加者数も著しく減っていた。さくらクラブは5月にエリアコンテストを運営することになっていたので、この時期に会員が減ることで、運営を懸念する声も出始めた。元々コンテスト運営は、比較的安定していた高田馬場時代に決められたことであり、事情が変われば計画の見直しも必要である。2月10日の例会ではスピーチ枠をキャンセルし、急遽例会の半分の時間を割いてコンテスト運営についてのディスカッションを持つことになった。この時の議題として、この難局(?)の打開策として、東西クラブとの共催案が出ていた。というのは東西クラブもエリアコンテストを運営する予定だったが(さくらはエリア1、東西はエリア2)、会場が見つからないので、さくらが既に押さえていた代々木のオリンピックセンターを時間を分けることで、同じ日に運営できないかという話を持ちかけられていたのである。渡りに舟とはまさにこのことで、両クラブの利害が一致し、エリア1・エリア2合同スピーチコンテストのプランが出来上がった。

まだ役の割り当てなどの問題が残っていたが、3ヵ月後のコンテスト運営を目指して、運営の目処が立ったことがこの頃の収穫であった。
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by inv-pyramid | 2007-09-03 21:08 | 1999年前半

[江戸編] 我が心の千駄ヶ谷社教館まつり

2月28日の日曜、予てから準備されていた第10回社教館まつりが千駄ヶ谷社教館で開催された。当日は小春日和とも言える様な暖かさで、地域の文化祭に相応しい1日となった。前にも述べた通り、私は江戸クラブを千駄ヶ谷という地域へアピールすべく、このイベントに参加することを決め、地域の方々に混ざって実行委員会の委員にもなって、毎月1回程度開かれた準備会にも参加していた。その過程の中では、まつりのキャッチフレーズのアイディアを出したり、ポスターを江戸クラブで引き受けたり(池田氏デザインによる)と、気が付けば積極的にのめり込んでいた。会社の帰りに例会とは別に社教館へ寄ることで、それまで感じていた千駄ヶ谷への親しみが更に増した感があった。社教館職員の方々とも冗談を言い合うほど親しくなった。

当日は実行委員ということもあり、社教館側の人間として振舞うこととなった。社教館の半被を着て来客に対応することには少々照れもあったが、滅多に出来ることではないので、関係者の顔で来客に接していた。

江戸クラブは当日の13時から公開ミーティングとして、いつもの学習室中で例会を行うことになっていたが、いつもと違うのは部屋の扉が外されていて、オープン会場になっていることだった。デモ例会として公開するのだからこれは当然の演出だったが、ガラス張りならぬ、遮る物が何もないという状況下での例会には多少の抵抗もあった。既に低迷期の江戸クラブにとって日曜の午後に召集をかけて人を集めるのは難しい面もあったが、休会気味のメンバーや他クラブの応援も借りて何とか8名の参加を得ることができた。
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普段ともう一つ違ったことは後ろの窓から日が射していたことである。日頃夜の例会に慣れている身にとって、明るく開放感のある例会は一味違っていた。司会は野島氏にお願いした。私は半被を着ながらの会長挨拶で、ここでも若干の照れがあった。テーブルトピックははまの山下氏で、デモということもあってゲストの方には全て当ててもらい、TMの雰囲気を味わって頂いた。スピーチは本当なら異なる課題で揃えたかったが、奇しくも同じ基本#5の「声を豊かに」で、パイザーM氏と久しぶりの芦沢氏が行った。ただ同じ課題が並んだことで、擬音を駆使したパイザーM氏と、演説口調が持ち味の芦沢氏の違いが際立つことになった。総合論評は大嶋R、個人論評は小原、野島が担当した。ゲスト感想からは好意的なコメントを頂き、ぜひ連絡を下さいという方もいた。

江戸の面々は例会終了と共に解散したが、私は実行委員であるためまつりの最後まで残らなければならなかった。まつりの最後は地下体育室でのファッションショーで締められた。これは洋裁サークルの活動発表の場で、結構楽しめた。まつり閉会後は実行委員長の村上氏のマンションで打ち上げを行った。村上氏は社教館の顔役的存在で、地元民でもないのに積極的に準備活動に参加していた私に一目置いていたらしく、準備会の後はよく飲みに誘われた。

こうしておよそ半年に渡った私の千駄ヶ谷での地域活動もようやく終わったが、住民でもない私を地域の仲間として受け入れてくれた千駄ヶ谷の方々の暖かさは何時までも忘れられない。TMでの成果を発揮するのは、まさにこういう場でのコミュニケーション力、リーダーシップ力である、ということをしみじみと感じた。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 20:15 | 1999年前半

[武蔵編] 北北西の風

2月25日の第9回例会より、いよいよ私の武蔵での初スピーチが始まった。既に上級マニュアルへも取り組んでいたが、新しく参加したクラブではアイスブレーカーから始めるという考えの下、この日も4度目となるアイスブレーカーを披露した。「北北西の風」というのはその題で、東京中心部から見て武蔵浦和はちょうど北北西の方向にあり、北北西の方向から東京へと新しい風を送り込む、つまり武蔵クラブがTMの新しい風になるということを伝える内容で話した。論評は梅本氏だったが、梅本氏は私を経験のあるTMという視点で評価され、身振りが足りないなど少々厳しい論評を受けた。新しいクラブでの初スピーチということで、私にも緊張感はあった。

武蔵でのスピーチの取り組みでは少し新しい試みをしようと思い、毎回連続でスピーチをするつもりだった。チャーター前のクラブで、人がまだ集まっていないクラブだからこそできることでもあったが、自分としては連続で話せるだけのネタがあるのかどうかということと、マニュアルのそれぞれの課題に沿ったスピーチができるのかどうかということを短期間で実践したいという気持ちがあった。この試みには武蔵のメンバーにも特に異論はなかった様で、私の我がままを受け入れてくれたのがただ有難かった。

この回では、その後の私のTM活動に大きく影響を与えた方との出会いがあった。当時ウェスト東京クラブに所属されていた滑川氏で、同じクラブだった渡辺氏の紹介で武蔵へ来られていた。日本語クラブに興味があるということで、この日もゲストで日本語スピーチをされていた。滑川氏はフランス文学の大学教授で、仏文系の大学教員の方と膝を交えて話しができるなど、まさしくTMならではのことで、その教養のあるスピーチには多大な影響を受けた。滑川氏はその後もリーダーシップや響にも参加され、以後の私とはTM活動の中で交流を深めることとなった。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 19:33 | 1999年前半

[東京BL編] 横須賀×論評×緊張!の日

2月20日(土)、JTC主催による1999年の論評ワークショップとコンテストが開催された。東京バイリンガルクラブと三笠クラブの合同運営で、場所は三笠の例会場でもある横須賀の米軍基地内のキニック高等学校講堂であった。TMに参加していると普段ならまず行くことはない場所に行くことがある。その一つが米軍関係の施設である。これまでにもアメリカンクラブや根岸の米軍施設に入ったことがあったが、横須賀の基地は初めてだった。米軍基地となると警戒も厳重で、コンテストの事前には各クラブに「顔写真付きの身分証明書のご持参を必ずお願いします」というファックスが送られるほどであった。

当日は品川から京浜急行に乗り換えて横須賀へと赴いた。横須賀中央駅へ降り立った時から既に普段とは違った空気が感じられた。基地のゲートに辿り着き、米兵の前で身分証明を見せた時にはすっかり緊張していた。一歩足を踏み入れればそこはもう日本ではなくアメリカなのだ。会場の講堂へはゲートからシャトルバスに乗っていく手筈で、集合時間も決められており、ゲートにはTMの関係者が勢揃いしていた。講堂の周辺は文教区域でもあるのだろう。それほど米軍基地ということは意識しなくてもよかった。ただ昼食は近くのカフェテリアで取ることになっていて、ここでまたアメリカ文化を感じることになった(因みに昼食はマック)。

コンテストは13時からで、司会進行は三笠の萩原氏が務めていた。三笠の会長はドレッドヘアが良く似合う黒人のビュシー氏で、このキニック高校の先生ということだった。力強く、それでいてしなやかなスピーチからは我々にはないものを感じた。ゲストとして基地の指揮官であるアームストロング氏が歓迎スピーチをされていたのが、いかにも米軍基地でのコンテストという雰囲気を醸し出していた。コンテストはまず日本語から始まり、モデルスピーチは東京バイリンガルの福重氏が「ほめ不足問題を考える」という題で行った。米不足に「ほめ」を掛け、日本人のほめ言葉の少なさを指摘し、まず自分自身をほめることから始めよう、というメッセージで締められたスピーチだった。

論評の準備時間を取った後、いよいよ前にも述べた手順で各出場者がビデオカメラのセットされた別室へと分散した。私の撮影担当は東京バイリンガルの西出氏で、個室で二人だけ、それもカメラを前に論評するというのは実際にやってみるとかなり違和感があり、人前でスピーチをするのとは別の緊張感が体の中を走った。撮影が終わると再び講堂へと戻り、聴衆の前でビデオを再生。出場者は5人だったが、ここでまた自分のスピーチを聴衆と共に観る(聴く)という行為に、話す時とは別の緊張感を強いられた。

表彰は英語部門が終わってから最後にまとめてするというこで、カフェテリアでお茶を飲んで休憩後、英語のビデオ論評の模様を拝聴し、結果を待った。英語のモデルスピーカーは三笠のオルソン氏で、出場者は8名だった。日本語部門の結果は1位:マッキンタイア(東京バイリンガル)、2位:川上(武蔵)、3位:小原(江戸)という順で、川上氏はまだチャーターしていない武蔵からの出場だったが、JTC時代はチャーター前クラブにも出場は認めていたので、このような結果になった。ちなみにこの時は武蔵と同じようにチャーターを目指していた東海クラブの鎌田会長が出場されていた。鎌田氏は旧やまのてクラブの解散時のメンバーで、名古屋方面へ転勤されて東海クラブの設立に参加されていた。英語部門の優勝者は東西の市橋氏だった。
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閉会後は東京バイリンガルの面々は三笠と打ち上げに流れ、日本語クラブの関係者は横浜へと移動し、駅ビルの崎陽軒で2次会を行った。最初で最後のビデオによる論評コンテストは緊張の連続とともに幕を閉じた。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 18:39 | 1999年前半

[武蔵編] 世界の中心で"I"を叫ぶ

1999年初頭から武蔵会長のヴォート氏の苗字はご結婚によりスギモト氏に変わっていた。苗字がカタカナなのはご主人が日系2世だったからである。ご主人のスギモト氏は武蔵の第1回例会にも参加されていたが、その時はまだ結婚相手ということは知らなかった。

この頃の例会では毎回のように会員募集、広報活動についての話し合いが持たれていた。設立中のクラブでは広報活動が非常に重要なことは言うまでもないが、この事に特に熱心だったのが梅本氏と渡辺氏で、その方法論の提示と実践については、クラブ内で一番の経験者ということもあったが、情熱の注ぎ方が他のメンバーとは一味も二味も違っていた。例えば、2月18日の例会で梅本氏はディスカッションリーダーのテーマとして、「仲間を増やそう-会員募集について」という題でグループディスカッションをされたが、その資料として、「武蔵トーストマスターズクラブ知名度調査」として実際に武蔵浦和の駅前で、街頭アンケートを行って、その結果を分析した報告書を作っていた。結果は回答者全てが「トーストマスターズを知らない」ということだったが、このような行動を取ることで広報活動の重要性、トーストマスターズの知名度アップを説いているのだから、我々としても積極的に取り組まざるを得なかった。

とにかくその広報への取り組みは後発の新クラブとは一線を画していた。最近の様にまず他のクラブへ訪問してチラシを配ったりするという内向きの広報ではなく、最初から地域団体や地域メディア、駅頭でのチラシ配りなどの外向きの広報に重きを置いていた点がである。これだけやっても結果がついて来なかったのは、TMに関心のある人の所まで我々の声が届かなかったということだろう。最終的には口コミで集まった人が最も多かったのだから。しかし2月の時点ではまだ8回目の例会ということもあり、新しいクラブをみんなで作っていくという情熱が先走っていて、悲壮感はなかった。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 17:35 | 1999年前半

[江戸編] 大海(会)へと漕ぎ出した日

1月30日、私は江戸会長として千葉県の葛飾公民館で行われた英語の Tall Tales Contest 1999 に参加した。日本語では、ほら吹きコンテストとして開催されるもので、最近では2005年の秋季コンテストでの開催実績がある。運営クラブはICF千葉クラブと埼玉クラブであった。

私はそれまで英語のみのコンテストには参加したことがなかった。日本語クラブだけの会員としてはそれはほとんど当然のことで、大抵の日本語クラブの会員は英語のみのイベントには興味を持たない。最近ではそれにも幾分変化が見られるものの、大勢としてはあまり変わっていないと思う。私自身はこの頃は英語クラブにも参加していたので、少しは英語イベントに対する抵抗感は減っていたが、この時 Tall Tales Contest に参加したのは、会長の名の下に寄せられる数多の英語イベントのお知らせに対して何らかの形で応えたいと思ったからだ。その中でこのコンテストは自宅から近場だったので、ちょっと覗いてみよう程度の考えで参加した。またこの頃はまだ日本語によるほら吹きコンテストは行われていなかったので、Tall Tales というものがどういうものなのかという興味もあった。

JTC時代のコンテストは、英語に関してはルールブックに記載されているコンテストは1年度の間に全て行われていたが、スピーチコンテスト以外はエリア予選はなく、全日本の名を冠していても実際に集まるのは開催クラブの周辺クラブのみになることが常であった。現在の様な秋と春の2季に色分けされた、クラブからの勝ち上がりシステムではなかった分、まだ大らかさがあったと思う。

この時の Tall Tales Contest への出場者は全10名だったが、いずれも首都圏のクラブからの出場だった。私の知っている方では大嶋T氏やコール氏、さくらの斎藤氏、つくばの根木氏らが出場されていた。圧倒的な鬼気迫る演技でコール氏が優勝された。英語によるほら吹きなので、私などはどの辺が架空の話なのかわからない所もあったが、入賞された方はどの方も視覚的に分かり易いスピーチだったのが印象に残った。
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この年度はこの後にさくらクラブ運営のエリアスピーチコンテストが控えており、また藤沢で行われた英語の全日本スピーチコンテストにも参加するなど、英語イベントへの参加が増えた年である。ただ、会長になっていなければ参加しなかったかも知れない。前にも述べた通り、TMの連絡は全て会長宛に届く。それを生かすも殺すも全ては会長次第なのである。
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by inv-pyramid | 2007-08-27 01:09 | 1999年前半

[番外編] まぼろしの和光クラブ

今でこそ数々の新クラブを設立し、あちこちの新クラブ設立の立ち上げにもお呼びが掛かる私であるが、その全てがうまく行った訳ではなく、苦い思い出もある。

1998年12月から1999年3月頃までの間、私は地元の和光市にクラブを設立すべく一人で活動していた。まだ武蔵の設立に関わり始めたばかりで、クラブの作り方もよくわかっていなかった頃だが、最近のどなたかと同じように気持ちだけが先行していた。きっかけは12月の埼玉国際フェアで、そこで和光国際交流会なる団体がブースを出していたので、武蔵の宣伝がてらチラシを配りに行ったことに始まる。私も地元が和光市なので、どんな活動をしている団体なのか話を聞いたりして、こちらのチラシを束ねて渡したところ、交流会の中で配っていただけることになった。また年内に忘年会を行うのでよろしかったらどうぞと誘われたので、その集まりに参加したりもした。忘年会の席で交流会の代表の方と話をする機会があり、TMのことを色々と話している内に、では交流会の活動にTMのやり方を使ってみてはどうか、と話してみた。最初はこんなやりとりをしていただけで、必ずしもクラブ立ち上げが念頭にあるわけではなかった。

代表の方は私がマニュアルを見せながら説明しているのをみて、宗教か何かの類の勧誘のような印象を持った感じで、それほど関心を示されていなかったが、当時交流会の日本語教室で講師を務められていた方が興味を示され、交流会の活動の中で、「Hiroba」という外国人と日本人がざっくばらんに歓談する集まりを持っているが、いつも雑談で終わってしまうので、特に外国人の方にとってもう少し有意義な時間にしたい、ということで、それにTMを取り入れてみたらどうか、とのことだった。それで私も段々とその気になり、「いつでもデモ例会は行えます」、などと口走ったりもした。

年明けて2月の第2水曜日、「Hiroba」に参加した。毎月第2水曜日夜に和光の公民館で開催とのことで、私にとってはちょうど東京バイリンガル例会と週がずれていたので都合がよかった。その日は外国人参加者は少なめだったが、TMの話題は外国人の方が受け入れ易く、その時話した外国人の方が興味を示され、武蔵野線沿線住まいとのことで、武蔵の例会に誘った。交流会のメンバーも3月の武蔵例会を一度見学するとのことだった。

3月下旬の武蔵例会には4名ほどが参加されたが、その日はちょうどクラブスピーチコンテストの日で、初見学としては具合が悪かったかも知れない。1時間ほどで帰られてしまった。後日感想を伺ったところでは、我々の活動には合わないような気がする、とのことだった。私も地元でのクラブ立ち上げに期待を寄せていたので、これを聞いた時は大いに落胆した。交流会の方々とはその後も国際フェアなどで顔を合わせる機会があり、近況などを伺ったりした。

かくして、和光TMCの設立は陽の目を見ることなく終わったが、この時の経験はその後の宇都宮クラブの立ち上げなどに生かしている。それはつまり地域クラブを作る時の地元との付き合い方である。今は地元でのクラブ立ち上げは最後のお楽しみにしている。
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by inv-pyramid | 2007-08-14 17:40 | 1999年前半

[江戸編] 井の中の蛙、大海を知らず

1998-1999年度クラブ会長を拝命して、それまでと最も変わった事と言えば、それはクラブ外との接点が増えたということだろう。国際本部やJTC、他クラブからの行事の案内などはすべて会長の所へ届く。会長はそれらの情報を捌き、必要な情報は漏れなく会員に伝えなければならない。それまでの自分がいかにクラブ内のことに留まっていたのかを知ると同時に、今までの会長があまり多くのこと、特に国際本部やJTCからの情報を伝えずにいたかを思い知ることになった。まさに井の中の蛙の心境だった。

何故国際本部等からの情報があまり伝わらずにいたかと言えば、それは連絡文書が英語だったから、ということに尽きる。日本語クラブの面々、それも普段英語に接する機会の乏しい人々にとっては、英文というだけで取捨選択の「捨」の方へ気持ちが行ってしまうものだ。私もどちらかといえばその部類であり、私の所へ届いた情報を全てクラブへ伝えていたかどうかは疑問である。

1999年初頭から、私の所へいくつかの英文の手紙が届いた。JTCやクラブからの行事の案内である。JTCからは「スピーカーズ・ビューロー」、「2010/2020ビジョン・コミッティ」等のお知らせ、他クラブからは前述の「全日本論評コンテスト」や「全日本テーブルトピックコンテスト」、「ホームページワークショップ」等の案内が来た。この年度は翌年度にディストリクトへの昇格を控えていたからか、色々と動きが活発にも見えた。JTCのマーケティング担当副ガバナーを務めていた渡辺N氏(前述の広報担当は誤り)という熱心な人の存在も大きかった。

これらの文書の中には、後に歴代のディストリクトガバナーに就任されるソーリー氏、ギボンズ氏、稲継氏らの名前も見受けられる。私がこれらの人々との邂逅を果たすのもこの年度からで、それも単に会長職に就いていたからこそ、そのような機会を持つことができたのだと言える。大海への船出の年の始まりであった。
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by inv-pyramid | 2007-08-11 12:26 | 1999年前半