人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年前半( 44 )

[名古屋編] エリア4論評&スピーチコンテスト(後編)

昼食を挟んで午後からはスピーチコンテスト。論評コンテストと同じく各クラブから2名ずつ8名の出場者での競い合いとなった。女性陣の活躍が特に目覚しく、優勝は職場におけるセクハラなどの問題を扱った東海クラブの加藤氏。加藤氏はチャーター時の東海クラブ会長を務められ、この後翻訳委員会やディストリクトの役員などを精力的にこなされていった。その出発点がこのコンテストでの優勝であった。またTMと家庭の関係を話されていた関井氏は以前さくらクラブに所属されていたそうで、転勤で名古屋へ来られて名古屋クラブに入られたとのことで、以前のさくらクラブのことなどをお聞きすることができた。やまのてから東海に移られた鎌田氏もそうだが、東京から名古屋に転勤されて、こちらのクラブに入られる方は結構多く、江戸の孫氏や鈴木氏など、これ以降ももそのような方々とお会いすることがあった。
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このコンテストで個人的に気になったのは、舞台正面に飾られていた大会看板で、ビニール地にTMのロゴなどが印刷されていた。国際本部でカタログ販売されているのかな、と思っていたら、名古屋クラブで作ったものだそうな。名古屋地区のコンテストでは使い回されているらしく、以後のコンテストでも何度も見かけた。
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コンテスト後は懇親会まで時間があるとのことで、山中氏と浪川氏に犬山の観光名所を案内していただいた。定番は何と言っても犬山城で、城の展望台からは犬山市内が見下ろせた。懇親会は犬山駅前の魚民で行われ、普段お目にかかることのできない方々と話を咲かせた。この後1,2年間が名古屋詣の最盛期で、名古屋地区の方々とは交流を深めていくことになった。熊本、名古屋と立て続けに訪問したことで、日本語クラブは関東だけで盛り上がっているわけではないことを実感できた。
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by inv-pyramid | 2007-12-16 18:39 | 1999年前半

[名古屋編] エリア4論評&スピーチコンテスト(前編)

さて、話をエリア4コンテストに戻そう。このコンテストは大嶋ガバナーが参加するというので、私は江戸会長としてそのお供も兼ねていた。大嶋ガバナーによれば、「名古屋地区は最近元気がないのよ」ということだった。確かに以前は頻繁に名古屋地区の方々が江戸やはまに訪れていたが、1998年~1999年頃はやまのてOBで現東海クラブの鎌田氏が時折コンテストに顔を見せる程度だったので、私も気にはなっていた。そこへこの話が舞い込んで来たので、この機会に一度名古屋を訪れてみようという気になったのだ。

当日は午前が論評コンテスト、午後がスピーチコンテスト、夜が懇親会というハードスケジュールだったので、私も朝5時起きで家を出発。東京から新幹線に乗り、新横浜で大大嶋ガバナーと合流して名古屋到着。ここから名鉄に乗り換え一路犬山へ。犬山はもちろん初めてであった。犬山観光センターフロイデという国際交流施設が当日の会場で、ここは名古屋地区の方々がイベント会場に利用する場所らしく、私もこれ以後は何度も訪れることになった。会場では既に顔馴染みになっていた名古屋クラブの方々や山中エリア4ガバナー、春日井の重鎮嶋田氏、江戸OBの浪川氏らが迎えてくれた。
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名古屋クラブ犬塚氏の開会宣言後、山中ガバナー、大嶋ガバナーの挨拶が続いた後、予定にはなかったが私もゲストとして挨拶した。この後、午前はまず論評コンテストが行われ、名古屋、春日井、愛知、東海の各クラブから2名ずつの出場者を出してのコンテストが始まった。テストスピーチは愛知の松浦氏が担当。和菓子屋を営む松浦氏のスピーチは、お店の和菓子の新作をOHPを使ってPRするというもので、和菓子の写真などを見せながら、風情を感じさせてくれた。
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この後8名の出場者が論評を披露、結果は3位犬塚氏、2位伊藤氏(春日井)、1位大塚氏(春日井)という結果であった。司会は春日井クラブの伊地知氏が担当された。
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by inv-pyramid | 2007-12-16 16:20 | 1999年前半

[名古屋編] 日本語クラブ発祥の地

エリア2とエリア1の合同スピーチコンテストが行われた日の翌日5月16日に、今度は中部関西地区となるエリア4で、日本語の論評とスピーチのコンテストが愛知県犬山市で開催された。これは以前熊本での全日本スピーチコンテストの際に、名古屋クラブの山中氏からお聞きしていたもので、エリア4の各クラブの親睦を深めるために行われたローカルイベントであった。全日本コンテストが普段遠隔地で行われていて、なかなかコンテストに参加できない会員のための動機付けの意味合いも含まれて企画されたものでもあった。

この頃のエリア4は中部が日本語とバイリンガルクラブのみ、関西が英語クラブのみと棲み分けされていて少々異色のエリアであった。特に中部は愛知県に4クラブがあるのみで、その両隣は東京と大阪まで飛んでいた。愛知県は日本語クラブ発祥の地であり、日本語クラブの歴史を語る上で忘れてはならない地域である。ここで少々日本語クラブの歴史を振り返ってみたい。

江戸OBで現東海クラブの浪川氏が以前まとめられた資料によれば、1982年に名古屋クラブがまず産声を上げた。現在は犬山に近い扶桑町で例会を行っている名古屋クラブだが、設立当時は名古屋市に所在していた。このためよく言われるのが、名古屋で例会を行っていないのに何故クラブ名が「名古屋」なんですか、という質問である。これはこのような事情による。日英のバイリンガルになったのは後年のことで、バイリンガルクラブとしても最初のクラブである。続いて1983年に春日井クラブ、1985年に愛知クラブが誕生した。この2つは同じ会場で同じ日に午前と午後に分かれて例会を行っており、「トーストマスターズ」という同じ名称では団体登録ができないので、愛知の方は「愛知スピーカーズクラブ」という名称にしていた。TM登録上はもちろんトーストマスターズクラブである。この2つに続いて出来たのが熊本クラブで1987年の創立である。そして1988年の江戸クラブ創立へと続く。同じ年に中部クラブが活動を始めたがチャーターには至らなかった。

翌年の1989年には、はまクラブ、東海クラブがスタート。東海クラブは中断時期を経て1996年に活動を再開、1999年に武蔵クラブと仲良く念願のチャーターを果たした。この間、1992年に西宮クラブ、1993年に東京バイリンガルクラブ、旧やまのてクラブ、1995年に肥後クラブ、1996年に高松クラブがそれぞれ活動を始めたが、チャーターに至ったのは東京バイリンガルとやまのて、肥後のみである。20世紀に誕生したクラブは以上で、21世紀以降についてはまた後述したい。ここでは日本語クラブ発祥の地は名古屋であるということ、日本語クラブは誕生から既に26年が経過しているということを胸に留めておきたい。
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by inv-pyramid | 2007-12-15 20:31 | 1999年前半

[武蔵編] キーパーソン登場

5月27日第15回例会は、武蔵クラブがチャーターする上でのターニングポイントとも言える回となった。それは武蔵チャーターの功労者とも言える近藤氏の加入があったからだ。近藤氏は豊富な人脈を生かしてさまざまな人を例会に連れてこられ入会させた。その内訳は今記憶にあるだけでも、家族2、同僚5、後輩1、教え子2、隣人1といった具合で、口コミで連れて来られた方ばかりであった。適当な言葉が見つからないが、それはまさしく「キーパーソン」という形容が相応しいものであった。

とりわけこの例会では早くもご子息を伴って現れ、親子共々すかさず入会されていった。その行動力にも目を見張るものがあり、生かせるものはなんでも生かすといった気構えが素晴らしかった。これはまた後述するが、勤務先の大宮西高校での社会人講師の募集をTMに持ち掛けたりと、そのクラブのみに留まらない活動にはただ敬服するばかりであった。

そして、TMの会員募集の方法としては、やはり口コミが最も有効であることを思い知らされた。TMのマニュアルでも、人が人を連れてくることを盛んに推奨しているが、いつの時代でも口コミは最も有効な手段である。手間もかかるが、やる気のある方を見つけて、或いは興味がありそうな方をその気にさせて例会に連れて来ることが最も確実である、ということを近藤氏は証明した。

この後約4ヶ月で武蔵はチャーターを果たす。TMにとって、人はまさに宝である。
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by inv-pyramid | 2007-11-17 08:59 | 1999年前半

[武蔵編] 掟破りのスピーチ3本立て

5月13日の第14回例会ではいつもと趣向を変えて、1回の例会でスピーチを3本連続でしてみることにした。プロジェクトは基本の#4から#6で、これらは身振り、声、言葉というスピーチの技術的な面を学ぶことを目標にしているのは周知の通りである。個人的な目標としては、1回の例会で3本のスピーチができるかということと、3つの異なる目標のスピーチの違いを出せるか、実演してみることであった。実際は3本のスピーチの間に他の人のスピーチを挟んで行ったので、さながらスピーチマラソンのようであった。もちろんクラブの人には事前にこういうことを行う旨は伝えておいた。まだスピーチマラソンという言葉は定着していなかった。

実はTMのプログラムでは、CC等取得の対象となるスピーチは1回の例会で1本までに制限している(教育担当副会長マニュアル11ページ参照)。それはスピーチの品質を保つためであり、準備不足等による貧弱なスピーチは話し手のためにならない、と釘を刺している(同11ページ)。それはもちろんその通りであり、もう1度手直して披露した方がよさそうな準備不足のスピーチは時折見かける。それを話し手にうまく気付かせるのが論評者の腕の見せ所でもある。私はマニュアルにこのような記載があることは、後年やまのてクラブで活動を共にした浅井氏より指摘を受けた。それは後年この時の私と同じような試みをされた方が出てきたからであった。この頃の私は英語の役員マニュアルはまだ熟読していなかったので、この記述についても知らなかった。元より既に江戸でCTMを取得していたので、武蔵でのスピーチで新たにCTMを申請するつもりはなく、この時のスピーチはコミュニケーショントラック消化の対象にはしていない。

肝心のスピーチだが、#4「身振りで示せ」では日本人と外国人の肉体的な差を登山を例に実演、#5「声を豊かに」では自分の名前の読まれ方からくるコミュニケーションギャップの問題を延べ、#6「言葉を生かせ」では日本人特有の1人称代名詞の使い分けについて述べた。既に1度披露した内容の再構成であったり、以前から暖めていたアイディアをまとめての発表であったりしたので、意外と3つの違いを出しながら内容的にもそれほど貧弱にはならなかったと思った。

この試みは後にも先にもこの1回限りで、以降現在に至るまで1回の例会で1つのスピーチの原則は守っている。スピーチ課題消化が目的ではなく、あくまでも1回で3本ができるかどうかを試したかっただけなのだから。
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by inv-pyramid | 2007-11-13 22:25 | 1999年前半

[さくら編] エリア2&1スピーチコンテスト-葉桜の章-

エリア2スピーチコンテスト終了後は、国際交流棟のレセプションホールに移動して昼食会が行われた。昼食会のことは事前に聞いてなかったので、3000円の会費でパーティーまで付けているのには少々驚いた。ただ昼食会のためノンアルコールではあったが。
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司会役は東京クラブのキルパラニ氏。次年度のJTCガバナー候補者でこの時は教育訓練担当副ガバナーをされていた。このパーティーでは後々交流を深めることになる英語クラブの色々な方とお話をする機会があったが、その中で当時関東に在籍されていたネパール人の小俣氏より、日本語クラブに参加したいということを伺ったので、江戸クラブを紹介しておいた。小俣氏は後に江戸へ入会、その後さらに東京バイリンガルにも入会された。

さて、午後からはいよいよエリア1コンテストである。午後からは若干参加者が減ったような印象を受けた。合同コンテストとは言っても基本的にはそれぞれのエリアの所属クラブが対象なので、両方通して参加していたのは東西とさくらの面々が主であった。特にエリア1は遠方のクラブも含まれているので、参加者が少ないのはむしろ当然とも言えた。
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来賓挨拶は当時エリア1ガバナーの前田氏、コンテスト委員長は児玉氏。出場者は、阿部(さくら)、福井(東京)、林(筑波)、森(仙台)、鯖島(ACCJ)、梅本(埼玉)の6名。我らが阿部氏(写真)は6番目の出場で、クラブでのリハーサル時より数段出来が良かった。惜しくも入賞は逃したが。優勝は梅本氏、2位が福井氏、3位鯖島氏という結果で、上位2名が決勝進出。この両名はどちらも自分を見舞った災害あるいは悲報を題材としたスピーチだったのがいかにも日本人的で印象に残った。仙台の森氏には後に宇都宮でお世話になることになるが、この時はまだ名前を知るのみであった。

かくして、ぶっつけ本番という感じだったエリアコンテストであったが、東西との共催で何とか形にすることができて良かった。エリア1、エリア2という区分けは今はもうないが、向日葵の鮮明さが今でもはっきりと思い出されるコンテストである。
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by inv-pyramid | 2007-11-11 19:21 | 1999年前半

[さくら編] エリア2&1スピーチコンテスト-向日葵の章-

5月15日土曜日、ついにエリア2及び1の合同スピーチコンテストが開催された。エリア2が東西、エリア1がさくらクラブの運営である。何故、開催順がエリア1、2と若い番号順でないのかというと、それはエリア1が遠方のクラブを含んでいたからに他ならない。JTC時代はまだディビジョンという中区分がなく、全国を5つのエリアに分けていた。エリア1には札幌や仙台などの北海道、東北地区のクラブが含まれていた。よって参加の便を図るため、エリア1コンテストが午後の部になったのである。

会場は代々木のオリンピックセンターのセンター棟セミナー室だったが、元々ここはさくらクラブが押さえていた関係で、会場関係がさくら、プログラム等のソフト面が東西という役割分担であった。とりわけ東西の方が参加者が多かったので、受付などは東西にお任せであった。ただ、このコンテストで一つだけ印象に残ったのは、飾花の豪華さである。これはフラワーアレンジメント講師であるさくら竹谷氏の力作で、梶谷会長のTMらしさを印象付けて欲しいというリクエストに答えてのもので、ひまわりをふんだんにあしらった大きなアレンジは、正直なところ出場者よりも目立っていた。
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さて、午前の部は東西運営によるエリア2コンテストである。来賓挨拶は大嶋ガバナーと当時エリア2ガバナーだった滝本氏で、特に滝本氏は私が会場に着いた時、階段の踊り場で一人挨拶のリハーサルをされていたのが印象に残っている。今では響でご一緒に活動させて頂き、私がTMの母とも仰ぐほどお世話になっている滝本氏と初めて言葉を交わしたのがこの時であった。

コンテスト委員長は東西のピンドリア氏、審査委員長は当時日本唯一のDTMだった森氏で、森氏はエリア2、1両コンテストを通して審査委員長をされていた。出場者は福重(東京バイリンガル)、桑原(ICF千葉)、ラリー(東西)、中村(ウェスト東京)、白石(関東)、武田(ブレックファスト)の6名で、優勝はラリー氏、2位が白石氏であった。当時は上位2名が決勝進出というルールで、この両氏がそのまま全日本コンテストへ駒を進めた。私が特に印象に残ったのは3位の武田氏(写真)で、ゼスチャー、声の抑制が良く効いていた一人芝居的なスピーチは、他のクラブにはこんな凄い人もいるんだな、と思わせるものがあった。個人的には1位かなと思ったが、その一人芝居的な手法が敬遠されたのかも知れなかった。
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by inv-pyramid | 2007-11-11 18:40 | 1999年前半

[東京BL編] たった一つの冴えたやり方

熊本でのコンテストが行われる直前の4月21日例会には少々思い出がある。この日私は日本語の部でスピーチをした。もう一人のスピーカーが何とあのコール氏であった。東京バイリンガルでは、毎回日本語と英語それぞれの部で二人ずつスピーカーを立てるのが原則だった。人数も多いのでスピーチの順番が回ってくる回数は少ない。私は東京バイリンガルに入って日本語のスピーチをするのは、コンテストを除けば実にこれが初めてで、それまでに行ったのは英語スピーチが2本。東京バイリンガルでは例会に参加しても役割のないことも多かった。

そんな中での初日本語スピーチだったので、少々気合を入れて珍しく念入りに準備をしていた。別にコール氏を意識していたわけではない。コール氏といえばコンテストの常連で、その閃きというか癖のある独特のスタイルが強く印象に残る方である。一緒にスピーチをする機会を頂けただけで十分だった。私のスピーチの課題は「スピーチを組み立てよ」で、この項の表題がそのスピーチ題名であった。雪山での遭難経験を元に、何が冴えたやり方なのかを伝えることを目的としたスピーチとした。入念に準備したのは話の構成ではなく小道具で、紙吹雪を飛ばすことで雪嵐の状況を再現しようと思い、紙吹雪をたくさん作ってポケットに忍ばせ、それをスピーチの最中に撒いた。これが功を奏したのか、ベストスピーカー賞を頂いてしまった。

ちなみに、今夜のトーストマスターは日系アメリカ人の江坂氏で、例会テーマが「ライバル」。私はコール氏をライバル視したことなどは一度もないが、結果としてコール氏を差し置いてベストスピーカーに選ばれたのは今宵限りとなった。スピーチの演出については常日頃考えることだが、結局この日は紙吹雪を撒くことが「たった一つの冴えたやり方」になってしまった。自分としては割と上出来の部類に思えたこのスピーチは、後に2000年ユーモアスピーチコンテストで改稿して発表することになる。そしてこのスピーチが東京バイリンガルにおける最後のスピーチとなった。

もっともそれはこの時点での話で、数年後に復帰することになるとは努々思ってもみなかった。
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by inv-pyramid | 2007-11-07 01:24 | 1999年前半

[さくら編] クラブ自分流、そこにあるもの...

熊本でのコンテストの余韻に浸る間もなく、さくらクラブにも属する私には次なるコンテストが迫っていた。英語のエリアコンテストである。これは前にも述べた通り、最終的に東西との合同で代々木のオリンピックセンターで行うことになっていた。私は1会員でしかなかったので、事前の準備にどれくらい時間が割かれていたのかはよくわからなかった。しかし、例会上でその経過報告が特にされることもなく、5月の連休前を迎えていた。

4月28日の例会では、コンテスト出場予定の阿部M氏のリハーサルスピーチが行われた。自然保護団体職員である阿部M氏のスピーチは、鮫をテーマとしたものだった。クラブコンテストは行われず、出場希望者を募ったところ阿部M氏のみが手を上げたという状況で、運営クラブであるにも関わらずこれからコンテストを行う、という盛り上がりには正直いって欠けていた。ちなみにこの回には、スペシャルゲストとして東京バイリンガルのコール氏が呼ばれていて、課題なしのスピーチをされていた。コール氏はこの年のコンテストには出場されずにいたので、この時期に何故ゲストスピーカーとして呼ばれたのかはよくわからなかった。

そして連休明けの5月12日の例会。コンテスト3日前である。この回でようやく当日の役割が発表された。そしてコンテストのリハーサルが行われた。このリハーサルの中で阿部M氏のコンテストスピーチが再度テストされた。私には事前に役が与えられなかったので、自分から撮影係を申し出た。カメラとビデオの係りが空欄になっていたからである。3日前にしてようやくエンジンが掛かったという所か。

それにしても会場は1年前に押さえられていたにも関わらず、直前までほとんど会員に何も知らされなかったという状況からは、むしろさくらクラブらしさを感じ、またこれが英語クラブのアバウトなところなのかも、という思いが巡っていた。もちろん何も準備しないでコンテストが行われるわけもなく、役員の方々は恐らくそれなりの準備をされていたとは思う。要はクラブとしてどうなのか、ということである。
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by inv-pyramid | 2007-11-06 02:17 | 1999年前半

[熊本編] 温泉×阿蘇山×宮本武蔵

熊本編も私の思い入れとともに5回連続で綴っているが、この項で最後にしたい。コンテスト翌日は朝から嶋村氏の案内で熊本城見学となった。泊まったホテルが熊本城の目の前にあり、徒歩数分で城に辿り着いた。
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城の中は博物館になっており、熊本縁の歴史の遺物を色々と見学、最上階の展望台に上がって景色を楽しんだ。前日とは打って変わっての晴天で汗ばむ陽気となった。

熊本城から帰った後は、チェックアウトして、帰りの飛行機の便までいくつかのグループに分かれて観光に出かけることになった。だいたい前日の内にグループが出来ていた様で、パイザー夫妻、本郷氏は熊本クラブ宮本氏の車で温泉へ、渡辺、松崎、東、矢浪氏らは嶋村氏の車で阿蘇山方面へ、そして私は連れと共に午前中は市内観光、午後は粟田氏の案内で宮本武蔵が座禅を組んだという大きな石や五百羅漢像を観て回った。
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そうこうしながら途中の出店で遅い昼食を取ったりして、熊本空港に集合、帰りの便の時間までその日の報告をしたりしながら別れを惜しんでいた。阿蘇山組は阿蘇まで行こうとしたが、時間切れで草千里までで断念して引き返したとのことだった。温泉組は観光には目もくれず、ひたすら湯に浸かっていたらしい。
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かくして熊本ツアーは終わった。この熊本行は私のTMへのモチベーションを一気に全国、そして海外へと向ける良い機会となった。色々な意味で思い出深きイベントであった。
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by inv-pyramid | 2007-10-26 00:42 | 1999年前半