人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1999年前半( 44 )

[さくら編] 役員になる人、ならない人

例年5月から6月という時期は次期役員選出の季節である。TM憲章では役員選挙は5月の第1例会と定められているものの、これに沿っているクラブは少なく、特に人数の少ないクラブでは6月末になっても決まっていないという事例も多々ある。

さくらクラブの場合、エリアコンテスト運営以降はまた参加者が増えだして、人選には困らないように見えたが、5月の例会でその話が出だし、候補者選びが始まると表情が曇り出す人も見受けられた。ただ参加するだけならよいが、役員になるのは話が別、と考えるのがまずは一般的な反応だろう。候補者として名前が挙がっただけで、次の例会から来なくなるという極端な方もいた。

さくらの場合、結局次期役員が決まったのは6月23日の年度末最後の例会で、会長には私と同時期に入会していた斉藤氏、教育副会長には今期会長の梶谷氏が選出された。私は会場係を受け持った。私としては江戸や武蔵でも役員をしているので本当ならこれ以上の負担は避けたかったのだが、引き受け手がいないということと、正式に千駄ヶ谷社教館を正会場にすれば、江戸と同じになってむしろやり易いと考え、引き受けることにした。ただ、社教館のロッカーの抽選には惜しくも補欠当選となり、次年度はまだ毎回荷物運びをすることになった。

斉藤氏は当時まだ20代のカナダからの帰国子女で、クラブ会員としても歴代会長としても最年少、キャラクター的にも型に嵌らないユニークな存在で、クラブの雰囲気を変える可能性を秘めていた。実際にはその型破りな所が後々の問題を起こす発端にもなってしまうのだが、この頃はマスコット的な立場に収まっていて、クラブの雰囲気作りに一役買っていた。

クラブ役員というものは短期間で決まるものではないので、円満に決めるためにはそれなりの準備期間が必要である。人数の多い少ないも実際にはあまり関係なく、人数が多くても諸般の事情で人選が難航することもある。ただトーストマスターズのような自主運営の組織では、会員一人一人の自主性が全てなので、一人一人の参加がクラブ運営を成立させているということを、もっと認識する必要があるだろう。
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by inv-pyramid | 2008-01-13 18:51 | 1999年前半

[江戸編] コンテスト運営か、クラブ運営か

1998-1999年度の総会には、江戸からは私と次期会長の田中氏、常石氏が出席していた。総会でやることといえば、年次の活動報告と次年度の役員決定、コンテストの振り分け、エリア編成の問題などが相場であるが、中でもこの頃はまだクラブ数が少ないこともあり、各コンテストの運営クラブを決めることが一つのハイライトであった。現在の様な勝ち上がりシステムは、英語のスピーチコンテストのみであったので、総クラブ数の半数が運営クラブに決まれば、残りのクラブはコンテスト運営を担当しなくてもよかった。現在の様にコンテスト運営によるクラブの疲弊はまだそれほど顕著ではなかった。むしろ、コンテストを運営することが一つのステイタスになると考えるクラブの方が多かったように思う。そのため、一つのコンテストに複数のクラブが立候補した場合は、くじ引きで決めたり、共催にしたり、協議してどちらかが降りたりといった感じで、各クラブの思惑も絡んで、時間が長引くこともしばしばであった。

日本語クラブの場合、次年度は武蔵と東海がチャーターすることを念頭に置いて、この両クラブがコンテストを運営することが前提としてあった。江戸は田中次期会長との事前の申し合わせにより、次年度はコンテストの運営は担当せず、停滞期にあるクラブの立て直しに主眼を置くことにしていた。ただコンテストを運営しないことでクラブの立て直しが図れるかどうかは不明であった。前にも述べた通り、積極策を取るか、消極策を取るかの問題である。この翌年度は一転して、コンテスト運営を取って積極策に転じるわけだから、毎年のこととは言え、コンテストを運営するかしないかの選択はクラブの運営に大きく関わる。

次年度はJTCとしての最後の年度であった。日本語クラブのイベント運営は、

 ・テーブルトピックスコンテスト:武蔵
 ・ビデオテープスピーチコンテスト:東京バイリンガル
 ・論評ワークショップ&コンテスト:愛知
 ・ディベートワークショップ&コンテスト:春日井
 ・ユーモアスピーチコンテスト:はま
 ・スピーチコンテスト:名古屋

と振り分けられた。JTCから準ディストリクトへと昇格する年度ということで、この他にもイベントが目白押しとなった。とりわけ年末に台湾訪問ツアーが組まれたことは、その後の日台交流を加速させるものとして特筆すべきもので、両国のメンバーの往来が活発になる年度ともなった。

JTC時代には年間の特別功労者に送られる奥野記念賞(現在の Outstanding Toastmaster of the Year=最も活躍したトーストマスター賞)というものがあり、この年度は稲継氏が受賞された。稲継氏はTMの広報活動としてのホームページの整備、運用に尽力されていて、各クラブのホームページ作成のサポートもされていた。新クラブの立ち上げにも積極的で、次年度にはイースト神戸クラブをチャーターさせている。私にとっては複数クラブ立ち上げの先生とも言える方であった。

次年度のJTCガバナーには東京クラブのキルパラニ氏、教育訓練担当副ガバナーには関東クラブのストロガノフ氏と東海クラブの浪川氏が就任された。日本語のできる方がガバナーに就任されたことが日本語クラブにとっては明るい材料となった。
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by inv-pyramid | 2008-01-13 12:52 | 1999年前半

[江戸編] やさしい議事運営手順入門

藤沢でのAJSCの翌日、6月20日の日曜日に、この頃の定番会場だった横浜ランドマークタワーのフォーラムよこはまで、JTC主催の役員研修と年次総会が行われた。この頃はまだ役員研修も総会も年1回で、しかも必ずしもコンテストと同じ会場で行われるとは限らなかった。コンテストはあくまでも運営クラブが主体、総会はJTCが主体という感じで、現在のような春季大会としての統一感はなかった。そしてこれが私の江戸会長としての公式行事参加の最後のお勤めとなった。

前半が役員研修、後半が総会で、この年度は日本語クラブからガバナーが出ていることもあり、研修は日本語と英語に別れて、また総会は一部バイリンガルで行われた。前年度の役員研修と総会がほぼ全て英語で行われていたのに比べれば、ある意味画期的なことだったと思う。ただ、これに関しては年度で温度差があり、日本語クラブからの役員が少ない年度の時はまた英語中心の進行に戻ってしまったりでがっかりすることもあった。

役員研修では、田園都市クラブの斉藤氏による議事運営手順のワークショップが行われた。資料は英語、進行は日本語というバラつきもあったが、議事運営手順のワークショップが日本語で行われたこと自体がまず画期的であったと思う。斉藤氏による解説はわかり易く、また資料は英語ではあるものの議事進行の流れが斎藤氏独自のチャートによって手順が追い易く整理されていた。解説の後で3ラウンド程度、模擬的な議事進行を行った。日本語の方が分かり易いということで日本語のワークショップに参加された英語クラブの方もいた。この時のワークショップで学んだ内容が、私にとっては議事運営手順の原点であり、以降私も同様の手法でワークショップをさせて頂いている。

TMの議事運営手順ついては、クラブ創設の際にその手順に乗っ取ることを批准しなければならないことになっている。つまりクラブの会員になるということは、議事運営手順を理解しているということでもある。このワークショップを受けるまで私はクラブの例会で議事運営手順に乗っ取った議事を見たことはなかった。最近、日本語クラブでも割と行われるようになってきたが、本来はやって当たり前のことであり、また特に難しいことをやっているわけでもない。今はクラブ作りが盛んに行われているので、この様なことをもっと設立初期から極普通に行ってもよいと思う。否、行われるべきものなのだ。
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by inv-pyramid | 2008-01-09 20:46 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その4)

休憩終了後、インタビューの部に入る。インタビュアは湘南の福島氏と田園都市のフィッシャー氏。全員を舞台に上げて一人ずつ話を聞くスタイルで行われた。両端に福島氏とフィッシャー氏がついて、交互にインタビューしていく方式が取られた。インタビューの共通の質問事項は「お気に入りの言葉」。答えられた中で最も耳に残ったのは東西クラブから出場したラリー氏の「パス」。単純ながらTM的には意味深長な言葉であった。
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審査委員長の斎藤氏の講評に続いていよいよ受賞者発表。結果は3位:白石、2位:バーネット、1位:杉田の各氏となった。JTCガバナーの大嶋R氏より各受賞者にトロフィーが授与された。関西クラブから出場された杉田氏は前年代々木で行われたコンテストにも出場されていたが、この時は小道具を駆使されたにも関わらず入賞ならずで、今回はその反省からか過剰な演出を控えてスピーチされたのが印象に残っている。満を持しての優勝であった。その後のコンテストでは見かけなくなったが、先日関西クラブの方から伺った話では、高齢のためTMは既に引退されたそうである。
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受賞者発表の後、大嶋ガバナーの挨拶に続いて、湘南会長の岡本氏、田園都市会長の岡崎氏の挨拶で閉会となった。その後は会場を移してのパーティーが立食形式で行われた。

総じて何故このコンテストについてここまで鮮明に覚えているのかといえば、まず運営の準備、手際の良さが光っていたこと。そして全体の進行に破綻がなかったことが挙げられる。ゲストを迎え入れる姿勢、対応の良さにもきめ細かな所があった様に思う。ディストリクト体制となって、スピーチコンテストも世界大会への道が開かれた現在では、AJSCも一つの通過点となってしまったきらいがある。また開催に関しても予算面その他の部分でTMの制約に縛られ、あれこれ注文が付けられる面もあり、自由度が少なくなった。その点からみてJTC時代のコンテストには、まだ運営クラブの独自性を反映させる余地があったと思う。それでいて当時のTMのやり方に沿って行われたこの藤沢でのAJSCは、私にとってコンテスト運営の原点となった。
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by inv-pyramid | 2008-01-03 19:16 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その3)

さて、6月19日当日である。この日は生憎の小雨模様であった。会場が藤沢ということで、埼玉在住の私は新宿からロマンスカーに乗って藤沢に赴いた。藤沢市民会館は藤沢駅の南側、東急ハンズ(当時)方面にあり、少し歩くと途中から田園都市の方が道案内に出ていた。なぜ、東急ハンズが出てくるかというと、以前アルバイトでこの辺まで来たことがあったからである。そのため少々懐かしさがあった。
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開場は13:40から。小ホールには既に多くの人が入っていて、総入場者数は400人になったという噂を後で聞いた。所謂典型的な地方の市民会館の小ホールなので、階段式の座席で照明はやや暗め、座席はシアター形式なので、それほど広さは感じない分、人がある程度入るとそれなりに入場者があるように感じた。座席後方にはテレビカメラと思しき大型のカメラが設置されていた。私は写真撮影のため最後尾に陣取っていた。

コンテストの進行は、総合司会とコンテスト委員長を分けるやり方で、コンテストパートのみをコンテスト委員長が仕切り、その他を総合司会者がコントロールしていた。総合司会者は田園都市の望月氏。会場の左端の司会者用演台で開会宣言の後、まずハリスの"Opportunities"と題された基調講演が始まった。前述の著作をベースとした15分程度の短いスピーチであった。続いてコンテスト委員長である湘南の五十嵐氏が紹介され、ここから司会者が交代。張りのある声で会場の雰囲気が微妙に変化した。審査委員長は田園都市の斎藤氏で、ルール説明の後コンテストがスタート。出場者は各エリアから2名ずつのはずだったが、エリア5(西日本地区)が1名のみとなったため、9名で競われた。横浜クラブのバーネット氏を皮切りに、エリアコンテストで関わりのあった福井、ラリー、白石各氏のスピーチが続き、9人目梅本氏のスピーチで締めくくられた。

ここで一つのアクシデントが発生した。エリア4代表として出場したギボンズ氏がスピーチの途中でスピーチ内容を忘れてしまい、自ら棄権を宣言して退場してしまったのだ。ストップモーションが長く続いたので、最初は演技かと思い、聴衆も固唾を飲んで見守っていたが、最悪の結果になってしまった。しかし全員のスピーチ終了後、関係者の協議によりギボンズ氏に再演のチャンスが与えられ、今度は最後までスピーチを終えることができた。現行ルールではこのような温情は与えられないと思うが、この時ばかりは関係者判断に喝采を送りたかった。ちなみにこの時が私がギボンズ氏の姿を拝見した最初の機会であった。
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コンテストスピーチ終了後に休憩となり、ロビーにて運営クラブからの飲み物の提供となったが、この時の配給の仕方がとても細やかで、小瓶のジュース類を並べたテーブルで、ゲストの要望に従って一人一人栓を抜いて渡すというものである。小瓶であるから量的にはかなりの量が用意されたはずだが、湘南、田園都市とも人数の多いクラブのためか、それに見合った人員を投入しての対応が見事であった。
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by inv-pyramid | 2008-01-03 12:00 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その2)

湘南クラブと田園都市クラブの合同例会は11月14日に、田園都市クラブの例会場である青葉国際交流ラウンジで行われた。私は完全な部外者だったが、田園都市クラブとしては2度目の訪問ということもあり、私の事を覚えていてくれた方もいらしたので安堵した。両クラブは雰囲気的に似た所があり、合同例会に参加しただけではクラブの差異は掴めなかった。この合同例会に参加されていた方々とは因縁浅からず、後に色々な所で協力して頂いたり、活動を共にした。湘南では、岡本、五十嵐、大町、諏訪、田辺、矢野、谷岡らの各氏であり、田園都市ではフィッシャー、斎藤氏らである。湘南の方が多いというのも何かの縁だろう。個人的にはかつて茅ヶ崎に住んでいたこともあるので、藤沢辺りは馴染みがあった。2次会も参加したが、この時点では一人一人とはそれほど話す機会はなかった。やはり顔だけでも出しておくということが重要なのだ。

正式なAJSCの案内は、翌年の2月に各クラブに送られた。岡本氏と岡崎氏の直筆による連署で送られた案内状は、私にとってはコンテスト案内状の見本とも言うべきもので、私が運営主体になった時のコンテスト案内状は、この案内状の書式をそのまま流用させて頂いている。国際本部発行のコンテスト運営ガイドはあるが、運営サイドが本当に知りたい細かい部分はやはり過去の例を参考にする他はない。学ぶべき所が多かったのが私にとってはこのAJSCであった。

4月になって案内の第二報が同様の書式で届いた。第二報では参加申し込み書や会場案内図などが同封されており、また基調講演として、この直近に「欧米流スピーチのすすめ」と題された本(日本語)を執筆された、TMメンバーでもあるGハリス氏を招待することが紹介されていた。
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実はこの案内と前後するかのように、3月にハリス氏から直接私の所へこの著作が届けられた。AJSCとの関連、各クラブ会長宛てに送られたのかなどは一切不明で、送付状には私の名前がタイピングしてあった。恐らくは各クラブへ一冊ずつ贈呈されたものだと思う。送付状によれば、ハリス氏はブレックファストクラブの創立メンバーで当時はATM。この著作はタレントの生島ヒロシ氏との共著で、「日本人がスピーチべたなのは特別な練習をしたことがないから」という前提の下で、欧米流スピーチ術、つまりTMでやっているようなことを手ほどきした内容だった。生島氏は実際にTM例会を訪問されていて、その時の体験も反映されている。本著のある章でも、「トーストマスターズ エキスパートへの道」と題されて、TMのプログラムの紹介がされている。

これは余談だが、本著のある章で「触れてはいけないタブー」ということで、ハリス氏が「国際社会では特に政治、宗教、民族、人種、セックスに関する話題は避けるべきでしょう。(中略)私が全日本ユーモアスピーチコンテストの主任ジャッジを頼まれたときの経験ですが、日本人スピーカーの半数以上がトイレ及び下半身に関してのスピーチでした。外国人聴衆はみなびっくりしていました」という下りがあった。スピーチに関するタブーについてTMのマニュアルのどこかに書いてなかったかとつい最近まで調べていたのだが、この本に書かれていたのか、と今改めて思った次第である。

本著は各クラブ例会でも盛んに取り上げられていて、この本を読んで見学に来た、というゲストの方もこの頃は結構いた。本の影響力というのは流石である。ハリス氏に実際にお目にかかるのは2ヵ月後のことであった。
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by inv-pyramid | 2007-12-30 17:20 | 1999年前半

[湘南&田園都市編] 成功例としてのAJSC(その1)

"AJSC"=All Japan Speech Contest。日本語では全日本スピーチコンテスト。現在は、International Speech Contest(国際スピーチコンテスト)の District Revel として行われている年に一度の全国大会は、JTC時代はこう呼ばれていた。これは既に何度も述べた通りである。言うなれば日本選手権となるこの大会こそが、当時の日本国内でTMとしてのナンバーワンスピーカーを決めるイベントであった。当時はまだ日本語と英語のコンテストは別々に開催されるのが常であり、英語コンテストは6月に行われていた。そして1999年のAJSCは湘南クラブと田園都市クラブの共催で行われることになっていた。

私は1994年以降の事情しか知らないので、私が参加したコンテストで判断するしかないが、今までに参加したコンテストの中で最も成功した例がこのコンテストだったと信じて疑わない。それだけ鮮烈なものを感じた。これ以降主として私が運営したコンテストは全てこのコンテストをお手本としている。ここでは、その運営に敬意を表して「湘南&田園都市編」として、AJSC1999 の顛末を簡単に振り返ってみたい。

この年度、1998-1999年度の湘南クラブ会長は岡本氏、田園都市クラブ会長は岡崎氏。岡本氏についてはまた後で詳しく触れたいと思うが、新クラブ設立やエリアガバナーとしての精力的な活動は言うに及ばず、現在も日本語委員会の中心メンバーとして、日本語マニュアルの整備に尽力されているのは周知の通りである。岡崎氏は会長職に就く前に江戸クラブを何度か訪問していた。この辺の経緯は「触発」の項で述べたが、その時に田園都市クラブについての情報を色々伺っていたので、私もクラブ訪問に出向いてみようという気になった。

AJSCの準備は既に年度初頭から始まっていたようで、1999年6月19日に藤沢市民会館で行うことが決まっていた。私は7月に1度田園都市クラブを訪問したが、湘南クラブと合同例会を行うという情報を岡崎氏から得ていたので、興味を覚えて11月の合同例会にも参加した。AJSC共催の前に両クラブの交流を深めておこうというわけである。その前に岡本氏からは8月の時点で各クラブ会長宛で、コンテストのお知らせを兼ねた湘南クラブ会報が届けられており、これがAJSCの開催を告げる第一報となった。
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by inv-pyramid | 2007-12-30 16:33 | 1999年前半

[武蔵編] 学生でTMになるということ

武蔵クラブの特徴として、学生会員が多かったことが上げられる。5月に入会した近藤A氏が武蔵としては初の学生会員(留学生は除く)だったが、6月になってまた一人学生の入会者が現れた。高木S氏である。入会のきっかけはインターネットで調べてとのことで、6月10日の第16回例会が初見学であった。奇しくもこの前の例会で入会された近藤K氏と同じT塾大生ということで、通学とは無縁な武蔵野線で見学に来たという熱心さだった。

初見学の日のことはよく覚えている。会議室の後ろの方で、人数が少ないにも関わらず、机から椅子を少し離して控えめに座っていた。例会後にコメントを促しても緊張しているのかおどおどした感じで、第1印象としては入会は難しいかなと思ったものだ。しかし次の例会にも参加して結局入会することになった。私のスピーチに対してコメント用紙に細かい字で丁寧に感想を綴ってあるのが今見ると懐かしい。高木S氏はその後就職して都内に引っ越すことになり、武蔵は退会することになったが、やまのてクラブ設立の際に、現住所が近所ということでやまのてに誘い、以降やまのて会員として現在まで活動を続けている。

学生でTMを知り、入会するということはとても有意義なことであり、社会人に混ざってスピーチや論評をこなしていくのは、コミュニケーションのみならず良い勉強になると思う。我々もまた学生会員と活動を共にすることで、物事の考え方が一面的にならず、年齢、世代を超えた付き合いを通して学ぶことがある。何より長い付き合いを通して、学生から社会人へと続く彼らの成長の過程を見守り、見届けることができるということは我々にとっては貴重な体験である。

自分の成長のみならず、他人の成長を見守るということ、トーストマスターズに参加することで得られるものは計り知れない。
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by inv-pyramid | 2007-12-24 19:48 | 1999年前半

[東京BL編] 不滅のトーストマスターズ

6月15日の例会で東京バイリンガルクラブを去ることにした。理由としてはやはり4つのクラブに参加して、月8回の例会に出席することの心理的負担が大きくなったからである。じゃあ今はどうなの、という気もするが、当時はまだTM以外の活動も平行して行っていたので、首が回らなくなったというのが本音だ。8年前のこの頃はまだ習い事や他のネットのオフ会、趣味である山やスキーなども盛んに行っていた。幸いにして東京バイリンガルでは役員をしていなかったので、他の3クラブに比べて退会し易い環境にもあった。

クラブの質の変化というのもある。私が入会した頃に比べるとメンバーも半数近くが入れ替わり、特に外国人と女性会員の激減が目立った。日本に定住していない外国人ビジネスマンの場合、やはり任期を終えると帰国されてしまうので、たまたま私が在籍していた時期が、その手の外国人会員が多かった頃なのだろう。外国人がいなくなると潮が引いたようにクラブの雰囲気も地味な感じに変質した。

というわけで、多少の思い入れを残しながら、最後の例会では日本語の部の今夜のトーストマスターを自ら買って出た。私の性分として、幽霊会員になって自然退会ということは考えにくく、それなりの筋を通して辞めたかった。この日の例会はちょうど英語、日本語という順であり、例会の最後に退会の挨拶をして締めるという流れで行くことにした。従ってプログラムにも「今宵限りのトーストマスター」と入れていた。最後の挨拶は巨人の長嶋元監督の「巨人軍は永久に不滅です」のフレーズを引用し、「トーストマスターズは永久に不滅です!」と叫んで結んだ。

退会宣言はしたものの、東京バイリンガルクラブとはこの後も合同例会やエリアガバナーのクラブ訪問などを通してしばらくの間は関わっていた。次年度の会長は石津氏に決定したが、クラブが下降線を辿り始めたのは残念なことであった。しかし低迷しながらも生き残って8年後のまさかの私の復帰に繋がるのだから、やはりトーストマスターズは不滅です、と言うほかはない。
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by inv-pyramid | 2007-12-20 12:54 | 1999年前半

[江戸編] 料理室で納会

6月に入り、私の江戸会長の任期も残りわずかとなった。4月以降新たな会員を迎えて一時的に盛り返したかに見えたが、同時に退会者も多数出ることになり、差し引きゼロという感じだった。この時期は英語クラブからの入会者が多く、東京から榊原、川崎氏、関東から小俣氏、それに八王子で武蔵の滑川氏と英語の会で一緒に活動しているという近松氏の入会などがあった。コンテストなどを通じて交流の機会が増えたことによる効果であった。

1日の第229回例会では次期役員の発表があり、次期会長には田中氏が選出されることになった。私は教育担当で役員会に残留、榊原氏が会員担当、池田氏が広報担当で、書記:常石、会計:蓑田、会場:砂川という布陣になった。但し、この陣容は長くは続かず、江戸クラブ存亡の最大の危機を迎えることになる。これについてはまた後述したい。

続く15日の第230回は年度末最後の例会ということで、初の試みとして料理室で実際に料理を作り、納会を行うことになった。納会といえば普通は年末に行うものだが、TMの年末は6月ということで、少し意図的かつ実験的な要素も含めて納会をやってみたいと思っていた。また個人的には上級マニュアルの食後のスピーチを行う目的もあった。スピーチクラブが料理室を使うことに関しては、会場予約の際に「食事をしながらのスピーチの練習のため」という口実を設けていた。それは別に偽りではないので、気にすることはなかったが、料理室で本当に料理をするのは初めてだったので、器具の使い方やゴミなどの後始末などには気を遣った。

料理については私が3品を作った他、池田氏や川崎氏などの料理自慢の会員が自作を披露した。肝心のスピーチは「恩人」という題で、私がこれまでにお世話になった方々に謝辞を述べるという内容で行った。料理を作りながら、そして食べながらの例会ということで多少まごつきながらの進行だったが、余興もあり楽しんで行えたのが良かった。これ以後数年間、6月の納会はこのスタイルが維持された。

また前回とこの回を持って、大嶋R、野島、パイザーM、川崎の各氏が退会されることになり、一つの終止符が打たれようとしていた。
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by inv-pyramid | 2007-12-16 23:01 | 1999年前半