人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1998年( 46 )

[東京BL編] 黄金の日々(承前)

東京バイリンガルクラブの創立は以前も書いたが1993年である。したがって私が参加した時点で既に創立5年が経過していた。創立時のことはよく知らないが、東京クラブの有志が立ち上げたということは聞いている。江戸や関東と同じいきさつである。東京クラブは日本で2番目に古い由緒あるクラブで、1998年時点でもまだ関東におけるTMの中心クラブとしてその名を轟かせていた。その東京クラブとは後に合同例会を行うことになったが、親クラブと並んでもまったく遜色のない雰囲気が当時の東京バイリンガルにはあった。

私が参加した時点の東京バイリンガルには大きくわけて3つのグループがあった。まず外国人及び帰国子女を中心とした英語ネイティヴの面々。彼らこそは当時の東京バイリンガルの顔ともいえる集団で、やはり英語を扱うクラブとしては英語を普通にやり取りできる方々がいた方がゲストには受けがよかった。2つ目は若いビジネスウーマンのグループ。英語の勉強というのは働く若い女性たちにとっては必須のスキルなのだろうか、ネイティブグループとは負けず劣らずの勢力があった。そしてもう一つが純粋に英語を勉強したいという年配者のグループ。その熱意は前2者にひけをとらないものがあった。そのような個性派集団をまとめるのは至難の業にも思えたが、会長のパイザー氏は米国人らしい合理性で割り切ってやっているように私からは見えた。

時間に囚われないというアバウトさを除けば、会員のモチベーションも高く、スピーチのレベルも高い東京バイリンガルクラブに私はただ魅了されるだけであった。
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by inv-pyramid | 2007-02-09 00:40 | 1998年

[東京BL編] 黄金の日々

東京バイリンガルクラブほど浮き沈みの激しいクラブも珍しい。私が参加した頃が恐らく最高潮だったと思う。在籍期間は1年半ほどであったが、多くの素晴らしいメンバー、ユニークな人々との出会いがここでもあった。

1998年1月21日、水曜日。この日が東京バイリンガルに初めて参加した日であった。ちょうど前日に江戸例会があり、そこで東京バイリンガルのパイザー会長がスピーチをしに来ていたので、私も東京バイリンガルの例会に参加したい旨申し入れした。私は江戸に入会してここまでの間、他のクラブを訪問したことはない。であるからして英語もやっているクラブに参加することは意義のあることだった。大嶋夫妻が既に入会されていたこともあって、幾分緊張感も薄まった。

その頃、東京バイリンガルは日比谷のNTTの社屋を拠点としていた。これは会員の中にNTTの方がいたからである。毎回例会日に通用口の守衛室にクラブの名簿がおいてあり、この名簿で自分の名前をチェックして入館するのがこの頃の一つのルールであった。まだセキュリティ対策にも緩い時代ならではという気がする。

開始時刻は19時からで、2時間の内1時間が英語、もう1時間が日本語というやり方だった。ユニークなのは、ある日が英語が先の時は次の会は日本語が先といった具合に言語の順番が交互に入れ替わることである。司会者は英語、日本語それぞれの部で立てられ、例会の準備もそれぞれで行っていたので、2時間の中で2回の例会を行っている感があった。そのため最初の1時間の開始時刻が遅れたり、終了時刻が延びたりすると次の部に影響が出て、最終的な閉会はいつも21時30分頃になるのはざらであった。またプログラムには例会の通し番号や、プログラム進行上の各役割の時間などは明記されず、いい意味でも悪い意味でもアバウトさがあった。外国人の多いクラブというのはこんなものかな、というのが正直な実感であった。

それでも会が始まるとそれなりの緊張感に包まれたのは、やはり外国人や帰国子女のメンバーが多かったからだろう。言語のレベルは非常に高かった。英語単独のクラブと比べてもまったく遜色のないほど、当時はクラブに勢いがあった。まさに黄金の日々であった。
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by inv-pyramid | 2007-02-08 02:56 | 1998年

[江戸編] 200回の峠を越えて

先ごろ武蔵クラブが200回記念の例会を行ったばかりであるが、江戸クラブは1998年初頭に200回例会を迎えた。記録の上では2月3日の節分の時が200回になっているが、後日改めて確認し直した所では、1月20日の199回が200回であった。しかしここでは、200回記念として行われた節分例会を第200回としておきたい。なお現在までカウントされている回数はこの時修正されたものをベースとしているはずであるが、例会回数というものはどこかでずれが生じるものなので、必ずしも今の回数が正確とは限らない。

江戸クラブにおける200回は一つの節目で、正に峠であった。この頃の入会者は口コミ系が多く、そのほとんどは大嶋R氏が連れて来られた方々だった。例えば開発技術者の佐藤氏やコンサルタントの大川氏は企業家セミナーでの知り合い、武田氏は東京バイリンガルのパイザー会長の婚約者、など。ネクタイ姿の会社員の姿は減りつつあった。アットホームといえば聞こえはいいが、どこかこじんまりとした雰囲気があった。そして200回の前後にはいくつかポイントとなる出来事があった。

199回例会では、ゲストのパイザー会長が「ありがとう!おばあちゃん」という題で基本#10のスピーチをしている。これは婚約者である武田氏の実家を訪れた際のエピソードを披露したもので、スキンヘッドのパイザー氏が武田氏との婚姻の了承を得るまでを語ったのが微笑ましかった。続く200回例会では、同じく東京バイリンガルのマッキンタイア氏がJTC日本語担当教育副会長として挨拶に訪れた。この回では大嶋R氏も江戸クラブの歴史を披露された。15周年記念誌で私が作成した年表はこの時配布されたものをベースとしている。この回唯一のスピーチだった新会員大川氏のアイスブレーカーは「自立型企業とは何か」というプレゼンのようなスピーチで、およそ本来の基本#1の趣旨からはほど遠いものであった。

私が東京バイリンガルを初めて訪問したのは199回の後である。そして200回の後に一つの事件が起こった。
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by inv-pyramid | 2007-02-06 02:08 | 1998年

[江戸編] 遠き落日

さて、この年からは複数のクラブに参加することになるので、このブログも参加クラブごとに出来事を回想していくことを予めお断りしておきたい。

江戸クラブが低迷期に入る予兆は年末頃から既に感じていたが、1998年の年始からその思いはさらに強くなった。私が複数のクラブに参加してくことになるのもそれとは決して無関係ではない。といっても本当の落日を迎えることになるのはまだ先の話で、緩やかに下降線を辿っていく、というのが現状であった。

どういう部分にそのような予兆を感じたかといえば、たとえば会員の参加意識である。TMの理念を肌で感じるようになるには正直なところ時間がかかる。TMに先生はいないので、それを新入会員に感じて貰うには経験のある会員が態度でそれを示す必要がある。全員がそれをほぼ同じ様に感じている時はあまり問題はないが、バランスというのは崩れるものである。カリスマ的なベテラン会員が次々に退会の意向を示し始めたこの時期、そのバランスが崩れ始めた。新入会員にクラブに入って何をしたいか、プログラムをどの様に進めたいかを指導するのも重要なことであるが、TMを単なるスピーチクラブとしか思っていなかったり、生半可な理解で入会を決められた方が頓珍漢なアイスブレーカーをしたりするのを見た時は、不安を感じることもあった。私も既に経験豊かな会員の部類に入る方だったので、自分が不安を感じてしまうような雰囲気をクラブが醸し出し始めたのだとすれば、その責任の一端は私にもあると思う。ただ私も前述の通りスピーチを1年間もせず、自分の向かう方向を定めようとしていた時期だったので、自分自身が不安の虫を抱えていた。

この時期のカリスマ会員といえば大嶋R氏であるが、彼女も自分の新ビジネスを始めようとしていた時期で、江戸とのバランスの取り方が微妙になっていた。後にJTC初の日本語クラブ出身のガバナーとなる大嶋R氏だったが、その半年後にはついに退会することになる。一部会員の個人的な活躍は目立ったものの、それはクラブの隆盛とは無関係であった。
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by inv-pyramid | 2007-02-03 21:21 | 1998年

パラレルワールドとしてのトーストマスターズ

1998年は個人的にもターニングポイントとなる年であった。なぜならこの年は複数のクラブ、それも1つではなく3つのクラブに参加し始めたからである。4月に東京バイリンガル、8月に武蔵、そして10月にはさくらクラブに入会した。バイリンガル、日本語、英語とそれぞれ形態も参加層も異なるクラブに入会したことで、大いに刺激を受けた。入会の動機はそれぞれ異なったが、7月からは江戸の会長も引き受けるというのに、我ながら4つのクラブでの活動をよく始める気になったものだと思う。

ちなみに私がこれまでに参加したクラブを順に追っていくと、江戸(日本語)、東京バイリンガル(バイリンガル)、武蔵(日本語)、さくら(英語)、リーダーシップ(英語)、やまのて(バイリンガル)、響(日本語)、宇都宮(バイリンガル)、輝(日本語)という順になる。リーダーシップ以降はクラブ作りから関わっているクラブである。これらのクラブで平行して活動を行うということは、正直なところ容易な道のりではなかった。時間的にも、金銭的にも、精神的にも、肉体的にも、である。しかしそれらを差し置いてもTMに参加することで得た利益は何物にも代え難い。

この年は私にとって始めてのクラブ作りを武蔵で始めた年でもあるが、自分の世界を自分の手で広げていくという魅力というか魔力に憑りつかれた人間の物語はここから始まったといっても過言ではない。
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by inv-pyramid | 2007-02-03 20:29 | 1998年

1998年、創立10年目のターニングポイント

1998年は江戸クラブが創立10周年を迎えた年である。この年、日本では長野オリンピック、フランスではサッカーワールドカップが行われている。オリンピックでの日本勢の活躍、ワールドカップでの日本代表の惨敗に国内が沸いていた。一方ではウインドウズ98やiMACの発売などがあり、インターネット普及が加速された。TMの連絡手段も電話からネットへの切り替えが進んでいた。

創立10周年といえば、一つの節目である。江戸クラブからは何人かのベテラン会員が抜け、それまで連綿と続いていたクラブ運営の自然な継続が薄れようとしていた。盛者必衰というわけではないが、低迷期に入る予兆は既にあった。一方、江戸クラブの外では東京バイリンガルクラブによる画期的なイベントが開催され、また武蔵クラブや東海クラブという新たな日本語クラブが活動を開始したりと、今日の日本語クラブを取り巻く環境が形成され始めた年でもあり、日本語クラブ発展史における一つのターニングポイントとも言えるだろう。

個人的にはいよいよ会長職を拝命することになり、ミレニアムをピークに走り始めた年でもあった。
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by inv-pyramid | 2007-01-31 01:00 | 1998年