人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1998年( 46 )

[東京BL編] メンターは何処に

8月5日の例会ではもう一つ特筆すべきことがあった。埼玉クラブの梅本氏がゲスト参加されていたことである。ちょうど所用で東京に来た帰りとのことであった。私と梅本氏との出会いは以前書いた通り聴能言語士ワークショップの時で、再会はそれ以来だったので実に4年ぶりの邂逅となった。

この例会で梅本氏は欠席者の穴埋めとして総合論評を担当されていた。その総合論評で私のスピーチとその論評に触れ、「このクラブにはメンターはいないのか」、というようなことを述べていた。つまり、メンターがついて事前に何らかの打ち合わせをしていれば、スピーチも論評ももっとよくなる、ということである。東京バイリンガルではメンター制は敷いてなく、もちろん江戸クラブもそうだったので、私がメンターなる言葉を耳にしたのは、実にこの回が始めてだった。今では新会員に対してメンターを割り当てるのは当たり前のように行われているが、この頃は稀であった。梅本氏はその辺はTMの常識として行われていることを普通に行っているクラブに所属されていたので、メンター制についても当たり前のこととして言及したのだった。

この回の2次会で梅本氏と雑談をして、私が今度埼玉クラブを見学してみたい旨伝えたら、それより今度武蔵浦和で新しい日本語クラブを作るので来てくれないか、と誘われた。これが私が武蔵クラブの創設に関わるきっかけであった。
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by inv-pyramid | 2007-06-15 04:07 | 1998年

[東京BL編] 論評の悪夢

8月5日の例会は日本語が先で英語が後だった。8月という月はたいていの英語クラブは夏休みで例会を行わない。それは外国人会員が長期間の休みを取って旅行や一時帰国をするからで、逆に日本人ばかりのクラブなら通常通り例会を行うこともある。東京バイリンガルの場合は、8月の最初の例会のみ開催としていた。奇しくもこの回は日本人ばかりとなり、私が2回目の英語スピーチに当たっていたのだが、もう一人のスピーカーが欠席となり、穴埋めとして私に対する論評が3人立つことになった。これが悪夢の始まりであった。

大嶋R氏の司会の下、"7 years in T..." という題で行った私のスピーチの目的は#2の "Be in earnest"(熱意を示せ:旧マニュアル)で、私の働き中毒状態から燃え尽き症候群となって転職に至るまでの過程を時系列で話したもので、今までに日本語でも何度か形を変えて話した内容だった。英語力のない私は、経過を示すためのカレンダーを作成し、それをフリップチャートの形で聴衆に見せ、その裏に英語原稿を貼るという形でスピーチを行った。自分でも散々な出来であることはわかっているのに、それをさらに3人の論評者が論評するという、まさに悪夢の体験となった。3人の論評者は翻訳業のK氏、日系人のE氏、そしてクラブのご意見番のA氏で、3人3様の論評はしかし物の見方は人によって変われば変わる物だということをまた思い知らされた。K氏はマニュアルに忠実な指摘、E氏は日系人らしく前向きなコメント、A氏は私の英語力へ言及され、もっと英語力を上げて出直して来い、というようなニュアンスの発言をされていた。

トーストマスターズは言語の勉強会ではないので、少なくともクラブで扱っている言語でスピーチするための言語力は当然必要となる。しかし実際は日本人にとっては英語、外国人にとっては日本語の勉強の場になっていることは否めない。その辺は母国語でない人に対しては多少許容する必要もあると思う。だからという訳ではないないが、私の英語力に対しての言及は少し辛らつな気がした。と同時にこの日を境に私も論評についてより深く考えるようになった。

論評については前にも書いたが、その根底にあるものは励ましである。論じて評することから、我々はつい批評的観点から得々と改善点などを述べる場合もあるが、何の言葉が相手を傷つけるのかはわからない。言葉選びには慎重さが伴う。私も時々、辛口な指摘をすることはある。そんな時はこの日の悪夢の出来事を思い出す。そしてまた相手のやる気を引き出すような論評が出来たら、と思い描くのである。そういう意味ではこの日の出来事は貴重な体験だったと思う。
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by inv-pyramid | 2007-06-14 23:53 | 1998年

[東京BL編] TM足らしめるもの

東京バイリンガルクラブの新年度初例会は7月1日に行われた。全日本スピーチコンテストの余韻を引きずる中、会長はパイザー氏から久利氏へと引き継がれた。この時、引継ぎの証として、チャータークラブの証として本部から授与されるクラブ認定証がパイザー氏から久利氏へ渡された。江戸クラブでは終ぞ見たことのなかった認定証を間近に見て、私は少なからず感銘を覚えたが、同時にこの時が東京バイリンガルの認定証を見た最後の瞬間であった。

入会して早や3ヶ月が経過していたが、まだまだ毎回初顔合わせの会員がいたのが驚きであった。見学時から数えれば半年が経過していたが、その間1,2回しか会ったことのない方もいた。外国人会員にその傾向が強く、毎回出席ということには拘泥しないドライさを感じた。TMは多彩な顔ぶれが集まる会だと思うが、東京バイリンガルはそれが顕著であった。それは今夜のトーストマスターの時に特によく感じた。毎回のプログラムには各人の個性の発露があった。東京バイリンガルの例会プログラムには例会回数や時間の掲載がないことは前にも述べたが、役名なども個人の好み或いは解釈で適当に付けられたりしていた。例えば「えーとカウンター」が「耳障り音キャッチャー」になったり、「役割紹介」が「今日の黒子」になったり。外国人が作る日本語プログラムにその傾向が強かった。

共通した傾向としてはその「素っ気無さ」。プログラムは毎回英語と日本語の順番が入れ替わるため、「開会」、「閉会」などが明記されず、いきなり「今夜のトーストマスター」または「司会者」から始まっていた。スピーチの目的などが書いてあるのは稀であった。
ちなみに江戸クラブでの文法チェッカーに当たる役割が「日本語の生かし方」であったが、これも役割に対する認識がない方が多かったのか、役割から落とされるケースが多かった。

それでもトーストマスターズ足りえていたのは、まだ人数も多くて役員がしっかりしていたからだろう。TT、スピーチ、論評という3本柱を外さなければとりあえず例会は成立する。ただこのアバウトさがいずれ命取りになるだろう、という予感はあった。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 20:57 | 1998年

[さくら編] 愉しきかな、英語クラブ

江戸で新役員就任式が行われた日の翌日の7月8日、私はさくらクラブを見学した。英語のみのクラブを見学するのは初めてのことで、見学初日は期待と緊張がない交ぜになっていた。とはいえ見学することにしたのは極めて軽い気持ちからであった。

さくらクラブはかつては有楽町トーストマスターズクラブという名称で例会も有楽町で行っていた。それなりに名を馳せたクラブであり、江戸例会にも男性および女性の児玉氏や青木氏、その他の会員がゲストで参加されたこともあって比較的馴染みがあった。名前が変わったのは無論、例会が有楽町で行われなくなったからである。初期の頃はJPモルガン社の会議室で例会が行われていたのが、場所の提供者が退会することで他の場所へ移ることを余儀なくされ、クラブ名も変えたとのことであった。クラブ名は外国人が考えたものらしく、地名にするのはまた場所が変わったときに困るので、日本を代表する花の名前がいい、という理由で今の名称になったそうである。「ジプシークラブ」の異名も持ち、私が見学した時は高田馬場で例会が行われていた。場所はどこかの予備校の教室を借りて行われていたが、この教室の使用料が1回1万2千円とまた高く、そのため会費も月2000円を3ヶ月ごとに徴収していた。まさに所変われば品変わるといった所で、私も話を聞いて驚きを隠せなかった。

さくらクラブもこの日が新年度の初日であったはずだが、新役員就任式は行われていなかった。会長は江戸にも参加している梶谷氏で、顔馴染みがいるということも見学を決めた理由の一つだった。例会は19時からで会員に外国人はいなく、日本人のみ10名前後が集まっていた。会場が教室ということもあってか、さながら英会話教室の様であった。人数が少なかったので、私にもすぐ Um-ah counter の役が振られた。私はとりあえずテーブルトピックが当たらなければ何とかなるだろうくらいにしか考えが及ばなかった。テーブルトピックはスピーチを挟んで2ラウンド設定されていたが、さすがにゲストということで指名されることはなかった。会員は総じて私と同年代が多く、あまり年配の方はいなかった。その辺が親しみ易さを感じた理由でもあった。

ちなみに私の心の中では、"Sakura" は「桜」ではなく「さくら」で、それはやはりクラブの雰囲気が柔らかく親しみ易かったからだと思う。3回の見学を経て入会を決めたのは単にその敷居の低さからであった。ゲストを繋ぎとめるにはやはり雰囲気が重要である。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 01:16 | 1998年

[江戸編] 夏への扉

7月7日の七夕に行われた第211回例会、この日が私の江戸会長としてのデビューの日であった。7月初回といえば、この頃はまだ新役員就任式が行われていた季節である。私の時は現在サンライズクラブの会員でもあるエリアガバナーの前田氏を迎えて、新役員就任式が行われた。就任演説で何を話したのかはもう覚えていない。恐らくこの前の項に述べたこととほぼ同じことを話したと思う。他のゲストとしては、はまクラブより大嶋T氏、山下氏が来られていた。また一般ゲストとして見学2回目の平川氏という女性の参加もあった。この平川氏との出会いが後に私がさくらクラブへ入会するきっかけともなった。

続く第212回例会は、会場を東京都生涯学習センターに移しての開催となった。私が入会して以来、例会を千駄ヶ谷社教館以外で行った例としては、社教館が借りられなかった時の保険として、社教館登録代表の中野氏の会社事務所で行ったことがあるが、それとて千駄ヶ谷である。千駄ヶ谷の外で例会を行ったのは実に数年ぶりのことであった。この頃は第1、第3火曜が休日であったり、社教館が休館日であったりした時は例会は休みとしていた。TM憲章においても会則で定めた例会日、場所はむやみに変えてはならない旨が定めてある。それはその時間場所で行うことを広報しているのだから、そのつもりで来たゲストに対して失礼だから、というのが理由の一つとしてはあると思う。最近は割りと気軽に第1第3がだめなら第2第4に変更したりということが行われているが、実際そういう時に第1第3のつもりで来たら例会がなかった、という例もある。見学者のことを考えるなら、やはりむやみに変えるのは慎んだ方がいいだろう。

とはいえ、この頃の私は社教館が休館日なら他の会場を探せばよいのではないか、と思っていたので、代替会場探しにも余念がなかった。代替会場としては東京ウィメンズプラザや東京ボランティアセンターなど、現在も他のクラブが会場として使っている場所も候補としていたが、当時有楽町の東京国際フォーラムの地下にあった東京都生涯学習センターという施設が比較的新しく、場所も駅直結でよかったので、ここを第2会場にすることに決め、団体登録をした。国際フォーラムの中では地味な施設でまだ意外と利用者が少なく、後には東京バイリンガルやさくら、リーダーシップの各クラブ例会、ディストリクトの役員会も行われたほどだったが、当時はTMでの利用は皆無であった。

例会当日はパイザー氏やさくらクラブの児玉、青木氏らのゲスト参加もあり、特に大手町や日本橋近辺が勤務地であった江戸会員にとっては好評であった。もう少し条件がよかったり、有料会場でなかったらこちらに会場を移していたかも知れなかったが、数年後には都の事情により廃館となってしまった。2次会にはカフェテリアが使えたりと立地条件は本当に申し分なかっただけに残念であった。江戸での使用は結局2回に留まったが、他クラブの定例会場としては頻繁に出入りしていたので、それなりに思い出深い場所である。

会長としてのこの年の夏は、同時多発的に色々なイベントが発生して個人的には忙しい季節となった。
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by inv-pyramid | 2007-06-10 00:17 | 1998年

[江戸編] 誰が為に鐘は鳴る

1998年前半はクラブを揺るがす事件も起きたが、新旧役員交代の頃には小康状態を保っていた。ただ新しく入られた方の中には数回の出席で姿を見せなくなるケースも多く、新会員の定着率は芳しくなかった。このような状況で舵取りを任された身としては、まずは会員増強を計画するべきだったかも知れない。しかし私の方針としては、まずクラブの地固めを先決したかった。

私が入会した頃の江戸クラブは対外行事やレク活動も多く、また社教館との関係もそれなりに連携が取れていた。それが徐々にマンネリ化していたのは、一つにはクラブの質が落ちたからとも言えた。質の低下というか変化は人に起因するもので、メンバーが入れ替われば雰囲気が変わるのは致し方ない。そこで新たな流れを作るか現状維持とするか、消極的になるか積極的になるかで、次の展開が変わってくる。私はとにかく昔できていて今できていないことはきちんとやるということを心がけようと思った。それは合同例会の実施、レク活動の復活、社教館祭りへの参加など、ごく当たり前のことへの取り組みである。特に注力したかったのが社教館祭りへの参加で、千駄ヶ谷という地域へのアピールという身近な所からの広報活動に力を入れようと思っていた。

活動計画とは別にクラブの財源である会費についても見直しを図った。この頃は1ドルが140円の時代だったがクラブの財政にはまだ余裕があった。前年度に半年4800円へと引き下げたばかりだったが、会計の立場からみてつり銭の準備などに手間が掛かるなどの理由から、半年5000円という切りの良い金額に改めた。入会金は3000円のまま、重籍会員については半年4000円という金額を設定した。この時口座をシティバンクにするのはどうかという案が出たが、口座維持費が掛かるとの理由で却下された。

かくしてこの後、さくら、武蔵、2クラブへの参加、そして社教館祭りの実行委員会への参加なども待ち受ける前途多難な日々が幕を開けた。
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by inv-pyramid | 2007-06-08 00:00 | 1998年

[江戸編] 日本語クラブのDNA

話が前後するが、6月9日、千駄ヶ谷社教館にて江戸クラブの引継ぎの役員会が行われた。最近の通例なら何処かの飲食店で行うのだろうが、この時は話に集中したいということで、役員会のために社教館を押さえた。議題としては、各役員の役割確認、年間スケジュールの策定、会場の確保、予算、広報計画等、引継ぎ会で交わされる話題が主であった。

江戸クラブが緩やかな下降線を辿っていることは前にも述べたが、今年度も次年度も役員数は6名で、7名には一人足りないという状況がそれを裏付けていた。この時期の会員数は21名で、内休会者は2名。毎回の例会出席者は10名前後といった所で、盛り上がりは今一つだった。この年まで江戸クラブを牽引していた大嶋R氏もJTCガバナー就任ということで、クラブ役員も幾分若返り、私を中心として比較的同年代の会員で構成された役員会となった。それは創立以来続いていた江戸クラブの一つの系譜が終わりを告げ、日本語クラブのDNAが引き継がれた瞬間でもあった。

最近でこそ日本語クラブやバイリンガルのクラブが増えて、見学者のクラブ訪問の選択の幅も広がっているが、私がTMの門を叩いた頃は江戸とはましかなかったので、日本語クラブといえば江戸クラブのことであった。これは前にも書いた通りであるが、私が入会した頃の江戸クラブは例会の進行やクラブ運営なども比較的TM憲章に即したやり方で行われていた。だから江戸のやり方こそが正統であると信じて疑わないほど、そのやり方は体に染みついている。それは日本語クラブのDNAであると共に、TMのDNAでもあると言えた。であるからこそ、未だに一部で「だから日本語クラブは○○なんだ」と言われるのを聞くのは堪えがたい。日本語クラブの矜持を保つためにも、日本語のクラブは日本語へのこだわり、そしてTMのやり方を遵守するということをもっと肝に銘じて活動に励むことが望まれる、と思う。
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by inv-pyramid | 2007-06-07 01:29 | 1998年

[番外編] あすへの話題

6月23日の日経新聞夕刊のコラム「あすへの話題」にある記事が寄せられた。そのものズバリの「トーストマスターズ」なる題名の記事は、キッコーマン社長茂木氏によるもので、氏が米国滞在中にTMに参加されていた時の思い出が綴られていた。

少し抜粋すると、「1960年代前後、米国のコロンビア大学ビジネススクールに留学中、私はトーストマスターズクラブに参加していた。トーストマスターとは、司会者とか乾杯の音頭を取る人という意味だが、この会はスピーチとプレゼンテーションの仕方を勉強するための集まりだった。(中略)アメリカではビジネスマンになろうという人たちの間でスピーチやプレゼンテーションの仕方についての関心が強いように思われる。なぜならば、それがビジネスを展開する際に非常に大切だからだ。(中略)わが国においてもトーストマスターズクラブはある。しかしまだ一部の人たちが参加している状況であるようだ。学生やビジネスマンの勉強のために、このような集まりがもう少し普及してもよいように思える」といった内容で、TMに関してとても端的にわかりやすく説明されている。何より経済紙上での経済界トップによる述懐というのが非常に説得力があり、TM関係者の間では大きな反響を呼んだ。もちろん一般の方で興味を持たれた方も多く、この記事をみて新聞社に電話をかけ、TMのことを調べて例会に見学に来られた方もいた。

私は日経紙は読んでいないので、こういう記事が載ったということを聞いてから後で図書館でこの記事を読んだクチである。2007年現在でもまだまだTMの知名度は低い。この活動をもっと広く知らしめるには、クラブ例会の広報などとは別に、このような著名人によるPRがもっと必要だと思う。そのような意味からも、この記事の掲載は日本のTM史上画期的なことであった。
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by inv-pyramid | 2007-06-02 13:48 | 1998年

[東京BL編] 宴の後、或いは前夜祭

雨にたたられた全日本スピーチコンテストの翌日、同じオリセンにてJTCの総会が行われた。この日も朝から雨が降っていた。総会の前に議事運営手順のワークショップが行われていたが、英語で行われており、あまりにも白熱した議論だったので私はてっきり総会が行われていたのだと勘違いしていた。これがいわゆるTMの議事運営手順を生で見た初めての機会であった。曰く、"motion","second"といったかけ声、書記による定足数の確認など、通常のクラブ例会では滅多に見ることのないやりとりが普通に行われていたのを見て、私は少し感銘を覚えた。

続く総会では各報告の後、役員選挙に入ったが、次年度のJTCガバナーには指名委員会候補者の大嶋R氏に対して、対立候補に大町氏が擁立されていた。通常は何事もなければ指名委員会選定の候補者がそのまま信任されるはずで、対立候補が擁立される時というのは、何処かに不協和音があるということだろう。今までに総会レベルで対立候補が出た例としては、2000-2001年度の稲垣氏、2003-2004年度のギボンズ氏が選出された時のケースがある。

この年の総会でなぜ大町氏が対立候補者となったのかとえば、それは一言で言えば日本語クラブからガバナーを輩出するのを阻止せんがためである。日本語クラブが増えた現在でもまだまだ日本語クラブを一段低く見る傾向は根強いが、この頃はそれがもっと顕著であった。総会に出席している日本語クラブの人間などほんの僅かで、我々は後ろの方でただじっと動向を見守るだけであった。東京バイリンガルによる日英同日開催コンテストが成功したその日にでさえ、「我々は(日本語コンテストが終わるまで)耐えてたんだ」というコメントを残す英語クラブの方もいたほどだ。二人の候補者による演説が終わった後投票が行われ、過半数以上の票を集めた大嶋R氏が結局次期ガバナーに選ばれた。大町氏もこの後2度に渡ってガバナーを務められたのだから、この結果は結果的には良かったと今でも思う。

こうして初の日本語クラブからの、しかも女性のガバナーが誕生した。それは同時に江戸クラブにとっても20世紀最後の輝きを放つ前触れとも言えた。
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by inv-pyramid | 2007-05-30 12:56 | 1998年

[東京BL編] 晴舞台は雨音を聞きながら

6月13日(土)、お馴染みの国立オリンピック記念青少年総合センター、通称オリセンで1998年の全日本スピーチコンテストが開催された。前述の通り、今回は東京バイリンガルクラブの単独運営による日英同日開催で、日本語部門にもゲストスピーカーを呼ぶなどの趣向も凝らされていた。当日は東京バイリンガルのメンバーが総出で運営に当たっており、その意気込みが感じられた。

進行の順序は受付が14時からで、開会が14時30分、以降英語コンテスト、パーティー、日本語コンテスト、表彰という順で行われた。英語と日本語の間にパーティーを挟む、表彰は日英合同で最後に行うなどの工夫がなされ、特に日本語コンテストに配慮された時間配分は、集客の点で生かされた。日本語だけのコンテストであれば50人も集まればよいところを、英語と一緒に行うことで集客効果が上げられ、盛り上がったコンテストになった。また英語を先に行うことで、英語コンテストで集まった人々を逃さずに日本語コンテストへも残って頂くなどの工夫で日本語クラブの関係者は大いに溜飲が下がったと思う。

ゲストスピーカーは英語の部がイーウーマン代表の佐々木かをり氏、日本語部門がタレントのピーター・バラカン氏という豪華な顔ぶれで、英語が日本人、日本語が外国人という趣向もバイリンガルクラブらしいものであった。肝心のコンテストは英語10人、日本語6人で、大嶋T氏が両方に出場、大嶋R氏が日本語への出場を果たした。英語コンテストの出場者では他にソーリー氏や吉川氏といった顔ぶれもあり、優勝は東京クラブのシャーリー寺本氏、日本語コンテストは優勝がコール氏、第2位大嶋R氏、第3位大嶋T氏という結果で、夫婦揃っての入賞という実績は流石であった。

JTC時代の英語コンテストでは、パーティーの席で色々なスポンサーから集められた景品をくじで当たった人に配るというのが慣例として行われており、今回も多数のスポンサーからの協力を得ていた。
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by inv-pyramid | 2007-05-29 23:24 | 1998年