人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1998年( 46 )

[武蔵編] 秋晴れ×別所×デモ例会

かくして10月11日(日)、別所公民館大会議室にて記念すべき武蔵クラブの第1回例会が開催された。当日は絶好の行楽日和で、まさにこれから活動を開始する新しいクラブにふさわしい1日となる予感が朝からしていた。私は武蔵クラブがもし週末開催になったら自転車で通おうと思っていた。結局、日曜開催は最初のデモ例会のみとなったが、この日は自宅から自転車で別所公民館へ向かった。私の自宅のある和光から武蔵浦和までは自転車で約30分ほど。アップダウンのある和光市を抜けて、荒川を越え、戸田を横切って武蔵浦和へと辿り着く。久しぶりの長距離サイクリングで公民館に着いた時は少々息が切れた。

会場では既に梅本氏が準備をしていた。彼の家は公民館のすぐ裏手にあり、だから会場がここに決まったのだが、今日のトーストマスターのためタキシードを着ていた。この辺の演出というかこだわりが梅本氏らしく、以後もこの手の演出を例会の中でされていたが、その片鱗をこの日初めて見ることになった。14時の開場時刻が近づくにつれ、パイザー氏、藤山夫妻、渡辺氏、マッキンタイア氏、町田氏、大嶋夫妻などの蒼々たる顔ぶれが集まっていた。さらに埼玉クラブの面々や、ヴォート氏の友人、チラシを見てきた方、梅本氏に電車で声をかけられて来たという外国人など気が付けば30名近くの人数になっていた。
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14時にいよいよデモ例会がスタート。ヴォート会長の挨拶により例会が始まる。司会である今日のトーストマスターはタキシード姿の梅本氏。昼下がりの公民館でカジュアルな格好で参加している聴衆に対して黒のタキシードは微かな違和感があったが、そのアンバランスさもまた演出である。例会プログラムも梅本氏の作成で、ひらがなを多用した構成は我々には少々見難いものがあったが、梅本氏による武蔵の基本方針は「外国人への恩返し」であるから、これくらいのことは当然という感じだった。

例会の口火はP藤山氏によるジョークマスターで切られた。持参の封筒から取り出されたのは1枚のトーストというベタなトーストマスターネタが笑いを誘う。役割紹介に続いては私によるテーブルトピックス。特に関連のないテーマで「ひったくりにあったら」(この時期県内でひったくり事件が多発していた)、「気象予報士としての今冬の予報」、「埼玉県に後どれくらいTMが必要か」という出題を、エリアガバナーとして来られた前田氏、東京バイリンガルクラブの町田氏、マッキンタイア氏にそれぞれ投げかけた。

スピーチはヴォート会長と山下氏の2名。ヴォート会長のスピーチはアイスブレーカーで「どうして日本が私を選んだのかしら」という英国人らしい捻りのある題で日本に来た経緯を披露。山下氏のスピーチは学んだ話術を駆使せよ「福来る」。埼玉県の日本語クラブ誕生、武蔵=福という流れがデモ例会に合っていた。論評は大嶋T氏とパイザー氏が担当。総合論評も大嶋T氏が務めた。約90分のデモ例会の後、休憩を挟んで「トーストマスターズで何をしたいか」などのテーマでグループディスカッションを行った。その後武蔵クラブについての説明と質疑応答を行い、最後に庭先へ出て集合写真を撮影して閉会となった。
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その後、有志がマリンファンタジーに場所を移して2次会を行った。10月の夕暮れは早い。話し込んでいたらすっかり暗くなっていた。この2次会の席にはこのデモ例会参加後実に7年の時を越えて武蔵に入会された関東クラブの井上氏の姿もあった。総じて良い雰囲気に包まれて武蔵のデモ例会は終わった。幸先の良いスタート、と誰もが信じて疑わなかった。
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by inv-pyramid | 2007-07-05 12:55 | 1998年

[武蔵編] 夜明け前

話が前後するが、合同例会が行われた後の9月24日、3回目の準備会が行われた。今回は最初の準備会からの3人に加えて、はまクラブの山下氏がはるばる横須賀から駆けつけて来られた。合同例会での宣伝で新たな日本語クラブの設立に興味を持つ人が増えたのだ。10月に開催予定のデモ例会へ向けての最後の詰めの準備会であった。

3回目の議題はデモ例会の内容をどうするかということと、広報活動をどう広げるかということに焦点が置かれた。デモ例会の司会は梅本氏が行うことが既に内定済みで、テーブルトピックスが小原、スピーチがヴォート、山下の2名というところまでがこの時点で決められた。私はデモ例会がどのように行われるかなどまったく初めてのことなので、準備は梅本氏に完全にお任せであった。ただ順序としてはマニュアル通りで、例会のデモを行った後に、クラブの入会案内を行うことをみんなで確認した。またスポンサークラブを江戸クラブ、埼玉クラブ、スポンサーを大嶋R氏、渡邊氏、メンターをパイザー氏へ依頼することが既に決まっていた。

追い込みの広報活動としては、広報用のチラシを英語版をヴォート氏、日本語版を梅本氏が新たに作成し、武蔵浦和や川口駅前でのビラ配りも行われた。私もチラシを駅のスタンドに置いたりした。そしてデモ例会前日の10月10日付け毎日新聞朝刊の地域版には、梅本氏とヴォート氏の写真入りのデモ例会の案内記事が掲載された。新聞記者の手による記事はTMの活動内容が簡潔にまとめられていた。ここまではほぼ準備万端、後は翌日のデモ例会本番を待つばかりであった。
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by inv-pyramid | 2007-07-01 19:46 | 1998年

[さくら編] 居心地

さくらクラブに入会したのは、3回の見学を経た後の9月9日の例会でのことである。既に高田馬場は引き払い、東京ウィメンズプラザを新たな拠点としていた。英語クラブにも関わらず入会を決意したのはその居心地の良さに他ならなかった。現在までに参加した延べ9クラブの中でどこが最も居心地が良かったかと訪ねられれば、迷わずにさくらクラブと答えるだろう。初めて見学に訪れた時のクラブの印象というのはそれほど重要なのだ。例会の雰囲気が暗かったり、偏屈な人がいたり、スピーチが面白くなかったりするだけで見学者は2度と来ない。ゲストを笑顔で暖かく迎えるということはとても基本的で大切なことである。

ではどんな所に居心地の良さを感じたのかと言えば、それはやはり自分と同年代の人が大勢いたから、というのが最大の理由のような気がする。当時のさくらクラブには極端に年配の人はおらず、30代から40代の人がほとんどで、内半数程度が女性であった。私は別に仲良しクラブを求めていたわけではないが、同年代で価値観が共有できる仲間が大勢いれば、話も弾むし打ち解け易い。江戸や東京バイリンガルで異業種、異文化、世代間交流のただ中に身を置いていただけに、自分と同世代の仲間を何処かで求めていたのかも知れなかった。英語はあまり出来なかったものの、2次会での会話は大いに弾んだ。

会場を公共の会場に移したことで、9月から会費も一気に引き下げられ、半年6000円という標準額に見直されたことも大きかった。されに重籍会員については2割引が適用された。人数的にも毎回15名程度の参加があり、適度な規模のクラブになっていた。
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by inv-pyramid | 2007-07-01 18:46 | 1998年

[江戸編] 千駄ヶ谷で会いましょう

9月19日(土)には千駄ヶ谷社教館で合同例会が行われた。例年8月か9月に横浜で行われていた江戸とはまの合同例会だったが、この年ははまの太田会長との事前打ち合わせで、たまには東京でやりましょうという話になり、千駄ヶ谷社教館での開催となった。首都圏の日本語クラブによる合同例会という位置づけとし、東京バイリンガルの他、設立準備中の武蔵にも声をかけた。

参加者は総勢30名弱というところで、会場は社教館の大会議室を使った。司会は大嶋R氏。ちょっといい話を武蔵のヴォート氏が少しひねりを加えた「桃太郎」で行った。テーブルトピックははまの清水氏が司会で5名に出題、この時5人目の話し手となったのが、後に江戸に入会され私が江戸を退会した以降の一頃まで最古参メンバーとして残っていた細川氏で、この時がゲストとしての初参加だった。この頃はまだ筑波在住で平日の例会には参加できないので、たまたま合同例会が土曜に行われるということでお誘いしたのだった。

スピーチは東(はま)、三村(江戸)、梅本(武蔵)、庄司(江戸)という実力派揃いで、特にはまクラブ東氏の「海」という題で行われたスピーチは、身振りで示せで行われたことも相まって迫力満点で、後に数々のコンテストで入賞を果たされたのも頷けるものであった。ちなみに私は東氏と一緒に出場したコンテストではいつも東氏の後塵を拝する有様だった(東氏2位、私3位など)。もちろんこの時も最優秀スピーカーに選ばれた。

2次会はこの頃はもう定番となっていた猪八戒で行われた。この時はちょうどJTC広報担当の渡邊氏も参加されていて、2次会の席で梅本氏ともども武蔵の広報用チラシを浦和近隣の各団体へ郵送するための準備作業をされていた。渡邊氏は後に武蔵のスポンサーになり、また武蔵会員にもなって初期武蔵の広報に一役買っていた。千駄ヶ谷ではまとの合同例会が行われたのは後にも先にもこの一度きりであった。
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by inv-pyramid | 2007-07-01 06:09 | 1998年

[江戸編] 触発

会長職を受けたこの年度は、同時多発的に色々なことに取り組み始めたのは既に述べた通りである。英語クラブへの参加、新クラブ設立への参加、自分の在住地ではない地域活動への参加。それは色々な人と接することによって触発され、自分に磨きをかけるという欲もあったが、同時に多くの人と交流し、クラブを行き来することによって江戸クラブの活性化に繋げたい、という気持ちが働いていたのもまた事実でる。特に合同例会やコンテストの開催などでは、他クラブの人たちと顔見知りになっておくということは重要で、知り合いになっておけば役割の依頼などもし易いものである。

7月下旬に私は大嶋R氏のお供で、田園都市クラブを訪問した。田園都市クラブには前から興味があり、大嶋R氏がガバナーとしてクラブ訪問するということ、またこの少し前に同クラブの岡田氏が江戸クラブにゲスト参加され、7月から会長職につくのでよろしくということだったので、私も同じ会長職として表敬訪問することにしたのだった。

田園都市クラブは東京クラブの斎藤氏が立ち上げた英語クラブで田園都市線の市ヶ尾駅近くの青葉国際交流ラウンジという場所で例会を行っていた。田園都市線沿線ということで郊外の主婦層が中心のクラブということを聞いていたが、果たしてその通りで主婦層と普段は都内へ通勤しているのだろう男性陣が多数を占めていた。田園都市クラブはこの年度、湘南クラブと合同で藤沢で全日本スピーチコンテストを運営することが決まっており、例会からもその勢いが感じられた。私が特に注目したのは入会式で、この日はIT企業会社員で若手の小左見氏の入会式が行われていたが、入会宣誓の後、クラブメンバー全員が列をなして入会者と握手を交わしていたのが新鮮だった。私は入会式自体を見ることが初めてだったので、これが正式の入会式なのか、と少し感銘を覚えた。マニュアルでは握手については特に明記されていないことが後日判明したが、この時の印象は鮮烈で、後に日本語クラブでは初めて響クラブでこのやり方を採用した。

さらに例会の後一部有志が残って、斎藤氏が用意した英字新聞の切り抜きを参加者全員が輪読していた。英語クラブはやはり英語の勉強会なんだな、という印象を強く持ったが、ゲストながら私も参加を促され、英文を読み上げた。この後さらに近くの喫茶店での2次会まで付き合って、彼らの日本語クラブへの印象なども拝聴した。

田園都市クラブへはこの後もう一度、湘南クラブとの合同例会の折りに参加したが、雰囲気的に似ている両クラブの合同例会は郊外の英語クラブの香りが濃厚で、緩やかな時間の過ごし方が平日夜のクラブと対照的だと思った。
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by inv-pyramid | 2007-07-01 04:58 | 1998年

[江戸編] 出会いは無限大

千駄ヶ谷社教館では毎年春に「社教館祭り」という登録団体の学習成果発表会を行っている、ということはこれまでにも何度か述べている通りである。江戸クラブも千駄ヶ谷を拠点とするようになってから最初の何年かはこの集いに参加していたが、いつしか参加しなくなっていた。それはやはりこの祭りが地域のイベントであるから、非在住者が中心の江戸クラブとしてはこの手のイベントに積極的に音頭を取って参加する有志がいなくなれば、疎遠になるのもまた当然と言えた。私はそんな状況を打破すべく、また将来も千駄ヶ谷で活動を続けるなら地域住民の参加は必須条件であると考え、久しぶりにこの祭りに参加することに決めた。

7月に社教館に登録している団体で祭りに参加する団体の初顔合わせがあり、私も参加して江戸クラブの存在をアピールした。続いて9月に2回目の会合があり、私も実行委員会に参加することになり、演出部会のメンバーとなった。以降は月1,2回のペースで各担当部会ごとに集まって打ち合わせることになった。演出部会は祭り全体をプロデュースする係りで重要な役割だった。この頃は祭りのテーマを決める時期で、色々なアイディアが出た。私も「出会いは無限大」という案を出したが、結局最終的にこれに決まった。ついでにポスター制作もグラフィックデザイナーの池田氏がいる関係で江戸クラブで引き受けることになった。これで江戸の知名度も少しは上がったかに見えた。

打ち合わせの後は、もみじ茶屋で館長や地域役員の方と飲む事もしばしばあった。当時の館長は打ち解け易く話のわかる人だったので、年齢的に近い私とは結構ウマが合った。職員と通じることは一つ間違うと問題にもなるかも知れなかったが、それで何かの便宜を払ってもらおうなどとは思ってもいなかった。
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by inv-pyramid | 2007-06-30 03:24 | 1998年

[武蔵編] ゼロからの出発

9月10日夜、別所公民館にて2度目の準備会が行われた。参加者は梅本、ヴォート、小原の3名で前回と同じ顔ぶれ。2回目の会合では主にデモ例会のプログラム内容の確認と、それに向けての広報活動をどうするかが話し合われた。デモ例会の内容についてはクラブ設立マニュアルに書いてある通りに準備された。つまり今日のトーストマスターがいて、スピーカーが2名いて、総合論評者がいてという具合である。デモ例会の進行の仕方は全てマニュアルに書いてあり、デモ例会を含めて計8回の例会を行って会員を募り、正クラブへの認証=チャーターに持っていくのが基本プランであった。ただし武蔵の場合は通常例会は平日夜で行く方針であったものの、デモ例会は日曜午後に行うことにしたので、デモ例会とその後の例会のやり方については分けて考える必要があった。

広報活動については梅本氏が入念に準備をされていて、地元の色々なサークルや教育団体、ライオンズやロータリークラブのリスト等を集め、その一つ一つに武蔵の案内を送るというのがまず一つあった。他には新聞への記事掲載依頼、ビラ配り等考えられるものはほぼすべて行うことになった。まさにローラー作戦である。受け持ち区域は電車の路線ごとに担当することになり、埼京線下り方面が梅本、上り方面がヴォート、武蔵野線上り方面が小原ということになった。各人の住居、通勤範囲ということである。当時私の住居は今と同じ和光で、それが故に同じ埼玉県内で近隣の浦和での日本語クラブ設立にも協力することにしたのだが、平日夜の開催では例会へ行くときは会社から電車で武蔵浦和へ直行するため、わざわざ赴くという感が強かった。私は例会の土日開催を望んだのだが、梅本氏は土日は家族と過ごしたいということで平日開催を譲らなかった。結局梅本氏が発起人であるため、私の方が折れざるを得なかった。

こうして広報活動が行われることになったが、梅本氏は物怖じしない性格なのか、自分の受け持ち区域の家のポストにチラシを配ったり、通勤の電車の中で一人一人声をかけたりといった逸話を度々聞かされた。私はこの手の作業は苦手分野で物怖じすることもしばしばあったが、地元の公的施設やスーパーなどを回ってチラシの掲示などのお願いに回った。購読している新聞の支局に例会案内の記事をファクスで送ったりもした。それが掲載されたのを読んだ時は正直嬉しかった。この時の体験が後のクラブ作りに生きることになる。そういう意味では梅本氏こそは正に私のクラブ作りの師匠であった。
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by inv-pyramid | 2007-06-25 01:40 | 1998年

[武蔵編] その名は「武蔵」

このブログもかれこれ1年、1994年の江戸入会時から1998年までのいきさつを綴ってきたが、まだ現在に繋がるまでは至らない。まさに遥かなる道のりである。そしてここまで綴ってようやく武蔵のプロローグ編に辿り着いた。武蔵は私が初めて創設に関わったクラブであり、ここからの話は私のTMライフが次のステップへと移ったことを意味する。

忘れもしない8月13日木曜日。蒸し暑い入盆の日。その日私は初めて武蔵浦和の駅に降り立った。TM関連で荒川を越えたのは実に4年前の大宮での聴能言語士ワークショップ以来のことだった。その頃埼玉には埼玉クラブがあったが日本語クラブはまだなかった。その頃の関東の日本語クラブは江戸とはま、東京バイリンガルで交流していたので、東京、神奈川エリアがもっぱらの活動領域であった。私は梅本氏に誘われるままに埼玉の日本語クラブ設立のための準備会に参加するべく、武蔵浦和の別所公民館を訪れていた。余談だが、私が今まで設立に関わった5クラブどれもが夏に最初の集まりを行っており、クラブ設立といえば必ず思い出されるのが「蒸し暑さ」の記憶である。

最初の準備会には梅本氏、ヴォート氏と私の3人が参加した。ヴォート氏というと何やら堅い響きがするが、川口市に国際交流員として来日されていた英国人女性で、ちょうど埼玉クラブに見学に訪れたところを梅本氏にスカウトされ、日本語クラブ設立に関わることになったという。当時の梅本氏は私から見れば掴みどころのない人物で、TMのことに関してはよく精通していた。聞けば海外のTMともよくパソコンでチャットしていたという。クラブ設立に関しても資料をよく準備されていた。その時私はクラブ設立マニュアルの存在を知らなかったが、後に私が発起人となってクラブ作りを始めてマニュアルを読み込んでいた時、梅本氏が極めてマニュアル通りに準備会を進めていたことがよく理解できた。とにかく私の知らない事をよく知っていたので、その頃の私はただうなずくしかなかった。

スケジュールとしては10月にデモ例会を行うこととし、それに併せて広報などを準備することになった。この日の最大の焦点はクラブ名の決定。梅本氏の頭の中には既に「さきたま」のイメージがあった様だが、準備会の時点では「むさし」を仮称としていた。準備会で3人で話し合った結果、漢字の「武蔵」で行くことが決まった。由緒ある「さきたま」の名前はこの後梅本氏が立ち上げた英語クラブのさきたまクラブに引き継がれた。

準備会の後、埼京線ガード下の今はなきマリンファンタジーという店で、3人でピザをつつきながらささやかな結成式をしたのも懐かしき思い出である。それは武蔵クラブがどのような雰囲気のクラブに育つのかを予感させるものであった。
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by inv-pyramid | 2007-06-20 03:38 | 1998年

[さくら編] ジプシークラブと呼ばれて

さくらクラブほど例会の場所を転々としたクラブも珍しい。江戸も現在の千駄ヶ谷に落ち着くまでは何度か場所を変えているが、さくらの場合は私が入会してからの半年間で実に4回も場所が変わった。半ば自嘲的にジプシークラブと呼ばれる所以でもあった。

高田馬場は当時会員の児玉氏の勤務先があったり、丸山氏の住まいがあったりで利便性は申し分なかったが、如何せん利用料が高かったので、会員の中でも「場所を変えたほうがいい」という声が上がっていた。当時の会長梶谷氏も代替地の目星は既につけていて、8月の26日はとりあえず表参道の東京ウィメンズプラザで行なわれることとなった。現在キーフォースクラブが例会を行なっている場所である。しかし公的会場は予約受付が2ヶ月前、3ヶ月前という所がほとんどなので、まだ東京ウィメンズプラザに固定するわけにもままならず、東京都生涯学習センターを併用することになった。この状態がこの年の年内まで続いた。

さくらクラブに入会したのは9月であるが、この現状から私はすかさず梶谷氏に千駄ヶ谷社教館に団体登録するのはどうか、と申し出た。彼女はあまり関心を示さなかったが、とりあえず予備会場として予約できる状態にはしておくということになり、社教館に団体登録の申請をした。この頃私は3月に行なわれる社教館祭りの実行委員会にも参加しており、館の職員の方とも顔なじみになっていたので、比較的話は通りやすかった。それでも当初は江戸クラブが既にあったので、同じような名称のクラブがあるのは紛らわしいという理由で難色も示された。私は江戸は日本語、さくらは英語のクラブであることを強調した。半数が渋谷区民という条件については、私の知人関係にお願いすることでクリアした。

この間さくらの例会はウィメンズプラザと生涯学習センターを行ったり来たりしていた。梶谷氏はウィメンズプラザを固定会場にする考えだったが、後のある事件によりプラザより利用停止を申し渡され、結局翌年からは千駄ヶ谷社教館を本拠地とすることになった。
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by inv-pyramid | 2007-06-18 00:46 | 1998年

[江戸編] 蝉時雨れる日吉の森にて

8月8日土曜日、日吉の某大学校舎の森の裏手にある閑静な住宅街の一角で、江戸クラブの夏企画として納涼ホームパーティーが行なわれた。ペントハウス付の部屋からは新幹線も見えるこの場所は大嶋夫妻の居宅で、夫妻のご好意により実現したホームパーティーであった。江戸クラブでクラブを挙げてのホームパーティーを行なうことは、私が入会してからは恐らく始めてのことだった。

江戸クラブはこの年のJTCイベントを運営するに当たり、ディベートコンテストを選択しており、当日はテーブルトピックコンテストを同じ日に合同運営する予定のはまクラブとの合同での打ち合わせがパーティーに先駆けて行なわれた。この年のはま会長は知的な眼差しのする太田氏で、私と同い年ということもあって何かと意気投合して打ち合わせが進んだ。ディベートは過去の経験からコンテスト形式にすると何かと時間がかかるので、最終的にワークショップという形で行なうことになった。ただ過去のやり方を踏襲するだけでは面白くないので、田中氏の意見を参考に、ディベートに関するペーパーテストを前座として行なうこととし、ワークショップ講師としては、当時の江戸クラブきっての熱弁家である芦沢氏にお願いすることとした。

打ち合わせ後のホームパーティーでは、事前の予告で私が手料理を振舞うことにしていたので、3品ほどを作った。他の方も自前の食べ物を提供して、総勢10名ちょっとのパーティーは夜遅くまで続き、一部の方はそのまま泊まることになった。時間を気にせず語らいの時間が取れるのがホームパーティーの良さで、大嶋夫妻宅ではその後も何度か行なわれた他、私の自宅でも後には何度か行なうことになった。
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by inv-pyramid | 2007-06-18 00:45 | 1998年