人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1996年( 9 )

雌伏の時

1996年後半、トースト年度としては前半となるこの時期、個人的には新生活をスタートさせて至福の日々だったが、江戸クラブには目立った動きはなく、懇親イベントなどが行われることもなく、今ひとつ盛り上がりに欠けた例会が続いていた。雌伏の時であった。

クラブの魅力的なプログラム作りの中心となるのは教育担当副会長である。当時の教育担当は営業の仕事をされていた庄司氏で、忙しい最中例会計画を立てておられたが、毎回型通りに終始していた感は否めなかった。現在の様にトーストマスターズのシステムに関する情報交換の機会も少ない中では、何らかのアドバイスなしでは教育プログラムも単調になりがちで、一部のベテランに寄りかかり過ぎのきらいもあった。

その年の暮れになり、恒例のクリスマスミーティングが近づいてきた。田辺会長からは私にある指令が下った。それは恒例の持ち寄りプレゼントの交換は止めて何か他の工夫をして欲しいというものだった。曰く、500円程度の(しょぼい)プレゼントを交換して何の面白みがあるのか、というこの人独特の視点でのご意見で、私はこの指示に従った。特に反対する理由もなかった。私が考えたのは、会費で3種類程度の景品(文具)を購入し、それをくじ引き形式の全員指名テーブルトピックで、指名された人にくじを引いて貰ってその番号と一致した番号の景品をトピック終了後に差し上げるというものだった。ちなみに文具の購入先は銀座の伊東屋で、直前の日曜に外出した際に買い求めた。クリスマスミーティング自体は5名のゲスト参加があり、翌年から会員になった方も何人かおられた。

振り返れば1996年は個人的に目まぐるしい変化が訪れた年で、江戸クラブに対する印象は薄い。基本マニュアルが修了して新たな目標を模索する必要にも迫られていた。
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by inv-pyramid | 2006-11-19 00:13 | 1996年

人として

1996年はトースト婚のみならず、結婚された方の多い年で、江戸クラブでもW田辺氏、レイサイド氏などの結婚が相次いだ。ライフステージの変化はトーストマスターへの参加状況にそのまま反映され、メンバー構成にも著しい移り変わりがあった。とりわけあれほど懸念された女性会員の躍進が減少に転じたことは、江戸クラブの華やかな雰囲気の終焉を予感させた。

個人的には11月の第176回例会で、ようやく基本#10の聴衆を感動させよの課題に辿り着いた。「人として」という題がその時のスピーチで、人との出会いと別れを同名の曲に照らし合わせて綴ってみた。ほぼ3ヶ月に1度のペースでのスピーチで、入会して2年半程度での基本マニュアル修了は、割と平均的なペースだと思う。

もっとも10回終わったからといって特別な感慨はなく、CTMの申請もこの後しばらく保留にしていた。それは周囲にCTMとして上級スピーチを行っていた人が大嶋R氏ぐらいで、上級マニュアルの面白さやTMのシステムについての理解度が現在ほど浸透していなかったこともあると思う。江戸クラブもこの頃はまだ創立8年で比較的若いクラブだったのだ。ほとんどのメンバーが数年間しか在籍せず、スピーチを10回終えるか終えないかで退会していく状況では、そこに次のステップを見出すのは難しいことだった。
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by inv-pyramid | 2006-11-13 01:24 | 1996年

所謂トースト婚について

1996年前後はクラブ内結婚、所謂トースト婚の多い年であった。曰く、横浜クラブ1組、はまクラブ1組、そして江戸クラブ1組である。江戸クラブの1組というのは私のことで、9月28日に挙式を行った。他の人の挙式スケジュールを縫うような格好で日取りを決めたので、披露宴は親戚関係と友人関係で分けた。人によっては電撃婚のように思ったことだろう。それまでクラブ内では一言もその話題には触れなかったから。友人関係の披露宴には、当時在籍していた江戸クラブのメンバーは全て招待した。司会は大嶋夫妻。内容もテーブルトピックなどを盛り込み、さながらトーストマスターの例会のような宴になってしまった。

トーストマスターズという一つのクラブの中で知りあって結婚するというのは、本人同士が意気投合しているなら自然な流れだと思う。職場結婚などと同じ流れである。強いて言えばトーストマスターの場合はスピーチを通してお互いに人となりを知ることができることが大きなポイントではないだろうか。

ちなみに江戸クラブではこの時点までに3組のカップルが成立していた。最近では、響クラブ、徳島クラブなどでの例がある。またクラブ間結婚の例としては、リーダーシップと東西の人同士でのゴールインなどの話も聞く。いずれにしても、ここまで漕ぎ着けるにはどこかで一歩を踏み出す必要はあるだろう。それはトーストマスターズで培われた技術を実践する場であるかも知れない。いつの時代でもそれが恋愛の基本なのだから。
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by inv-pyramid | 2006-11-06 12:54 | 1996年

黒船の襲来

8月6日の第169回例会では、東京バイリンガルクラブから3名のゲストがやってきた。身長2mはあろうかという大男のマッキンタイア氏、バイリンガルクラブの牽引役的存在の町田氏、JTCで会計を務められた節田氏という錚々たるメンバーの来訪は、さながら幕末に江戸を訪れた黒船のようだった。実際に東京バイリンガルのメンバーが江戸を訪れたのは今回が初めてで、少し活動が停滞気味の江戸クラブにとってはいいカンフル剤となった。

この日は他にもJTCガバナーの富田氏や東西クラブの矢浪氏もゲスト参加されていた。富田氏はゲストスピーチ、マッキンタイア氏はゲスト論評、町田氏は文法チェッカーを飛び入りで担当された。特に町田氏の文法チェックは圧巻で、まさに微に入り細に入りといった感じでこと細かくチェックされていた。彼女の手法は以後江戸クラブのスタンダードとなった。この日のベストパフォーマーに選ばれたのも納得であった。

続く9月の例会では論評コンテストが行われたが、この日はまたしても東京バイリンガルクラブから河原崎氏がモデルスピーカーとしてやってきた。河原崎氏はつい最近の代々木での全日本スピーチコンテスト英語の部でも2位入賞の実力派で、この日は「難しい選択」という安楽死の問題を扱った題のスピーチを披露。優勝は大嶋T氏だった。

東京バイリンガルクラブという手強い存在の実力をまざまざと見せ付けられて、江戸クラブの夏の陣は終わった。
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by inv-pyramid | 2006-10-29 21:53 | 1996年

束の間の安息

7月に入って新年度。新たな会長として田辺氏が就任した。教育副会長に庄司氏、メンバーシップ(会員)副会長には私が選ばれた。年間目標としてはまたもやディベートコンテストの開催運営が組み込まれ、さらに外国人獲得キャンペーンを行う、メンター制度を導入するなどの方針が定められた。

この頃の江戸クラブは女性会員の入会も落ち着き、メンバーにあまり変動もなく、毎回のゲストもちらほらといった程度で、一つの安定期に入っていた。この年の終わり頃からまたメンバーの入れ替わりが激しくなり始めたので、この時期は差し詰め「束の間の安息」とでもいえる状況だった。
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by inv-pyramid | 2006-10-28 00:42 | 1996年

東京バイリンガルクラブの台頭

この年の6月、恒例の江戸、はま合同例会が横浜産業貿易センターにて開催された。今回はここ最近台頭著しい東京バイリンガルクラブや名古屋からのメンバーを交えて賑やかに行われた。

東京バイリンガルクラブは1993年に設立されたクラブで、1回の例会の枠の中で日本語と英語の例会を1時間ずつ行うというスタイルを取っていた。日英のバイリンガルクラブといえば名古屋が老舗だが、こちらは月2回の例会の内1回が日本語、もう1回が英語というスタイルで、2時間の例会を日本語と英語の2つに分けるというやり方は東京バイリンガルが初めてだった。このやり方は現在のやまのて、大和バイリンガルが継承している。

江戸やはまとは当初は交流がなかったが、JTCでの活動を通じて相互の交流が活発になり、今回の合同例会につながった。日本語を扱うトーストマスターズとしては当時最も勢いのあったクラブで、我々も大いに刺激を受けた。

この合同例会で私は「ワーカホリック症候群」なる題で基本#8説得力を持って話せの課題に取り組んだ。20代の頃のハードワーク体験を同僚の過労死に直面した時に感じたことなどを織り交ぜて話したが、内容が重すぎたのか場内が静まり返っていた記憶がある。この時の論評は名古屋の大御所の山中氏。私が尊敬するTMメンバーの一人で、ディビジョンガバナーも務められ、初期の台湾との交流にも尽力された。この合同例会がその山中氏との記念すべき初顔合わせとなった。
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by inv-pyramid | 2006-10-27 21:01 | 1996年

復活の日

5月7日の第163回例会から江戸クラブに復帰した。その少し前に復帰する旨は伝えてあったので、復帰初日からスピーチをした。元々意見の食い違いで休会しただけで、TMの活動を否定したわけではない。ただ会場係としての職務を全うしなかったことで、若干の申し訳なさは感じていた。しかし復帰に際して、メンバーの誰からも私を非難する声は聞かれなかった。既に半年前のことで過去の出来事になっていた。会場係は新しく入会された谷岡氏が担当していた。日赤の学生さんで千駄ヶ谷近辺に住んでいることもあり、すんなりと決まったようだった。

この時点で私は基本マニュアルの#6までを終えていた。この日#7学んだ話術を駆使せよ、で披露したスピーチは「愛と就職の方程式」。私の遠距離恋愛体験を軸に、恋愛と就職の両方を成就させることの難しさ(?)と、そこから導き出された方程式(!)について面白おかしく話した。ベテランの大嶋R氏を差し置いてベストスピーカーに選ばれたこのスピーチは自分としても会心の出来で、以降形を変えながら持ちネタの一つになっている。

この時期は役員改選の時期だったが、備品管理のゴタゴタもあってか、一度は会場係を廃止する方向で話が進んでいた。しかし、その後立候補者があったので、最終的には全役員が揃った。私はメンバーシップ(会員担当)副会長を拝命する予定になっていた。
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by inv-pyramid | 2006-10-23 01:50 | 1996年

ほとぼりが冷めるまで

1996年初頭の江戸クラブは、会場係の私が休会したことで著しく混乱したらしい。野島会長からは何度か復帰を促す手紙が届いた。この時期は会社の繁忙期ということもあり、私はしばらく様子を見ることにした。

この間の江戸クラブはといえば、1月の例会では論評コンテストのクラブ予選が行われた。モデルスピーチには有楽町クラブ(現さくらクラブ)の児玉J氏が招待された。有楽町クラブは英語クラブで、児玉氏は何度か江戸の例会にゲスト参加されていた。

2月10日(土)はその本大会が横浜の産業貿易センター内の神奈川国際交流協会にて開催された。はまクラブの運営である。翌日は横浜駅前ジャストホールにて、江戸運営によるディベートワークショップ及びコンテストが開催された。前年に引き続きの運営で、当時はいかにディベートのイベント開催が重要な位置を占めていたかがよくわかる。この頃のディベートの推進役ははまクラブの田中氏で、教育関係団体で行われていたディベートの資料などを元に、ディベートの普及活動を行っていた。

そして4月には1年の締めくくりである全日本スピーチコンテストが熊本で開催された。江戸からの出場者は野島会長、審査員として大嶋R氏が参加された。優勝は東京バイリンガルクラブのジャンゼンバーグ氏で野島氏は3位だった。この頃は熊本でも毎年何がしかのコンテストが開催されていた。それは日本語クラブが全国でまだ7クラブで、持ち回りでコンテストを運営していたからだった。熊本でコンテストが開催されなくなって既に数年が立つ。寂しい限りである。
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by inv-pyramid | 2006-10-22 23:07 | 1996年

1996年、トンネルを抜けるとそこは...

1996年はアトランタオリンピックが開催された年である。日本がブラジルを1-0で破ったマイアミの奇跡はまだ記憶に新しい。マラソン有森選手の「自分で自分を褒めてあげたい」というフレーズはトーストマスターでもよく使われた。

私はといえば半分は自分の身勝手な理由で休会中の身だったが、一方では自分にとってもこの1995年後半から1996年にかけての年は色々と記念すべきことがあった年で、自分の人生の中での一つの節目ともなった。

その一つは自分の趣味として取り組んでいた日本百名山を完登したことである。最近では色々と問題が取り沙汰される百名山ではあるが、百の山を登ったことで日本の風土を自分なりに感じ取ることができたことは、自分が生きた証として小さくはなかった。そしてもう一つはこれからの生きる証として人生の伴侶を得たことである。トーストマスターズの活動の中で。自分の中で何かが終わり、何かが始まった年がこの年だった。
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by inv-pyramid | 2006-10-19 12:53 | 1996年