人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1995年( 14 )

暗転は突然に

11月の最初の例会を欠席した。荷物は他の人に預けることになった。その例会が終わった後の荷物はどうなったか。聞けばらむろに預けてあるという。マスターとの交渉で今後はらむろで預かってもらえることになった、というのが野島会長、大嶋副会長の話だった。これが暗転の始まりだった。

その次の例会が始まる前、私はらむろへ荷物を受け取りに行った。マスターに事情を話すと、少し訝しげに私を見て、トーストグッズの入った鞄を店の奥のロッカーから取り出してきた。私が「今度からこちらで荷物を預かって頂けるという話らしいのですが」と尋ねると、マスターはそんな話は知らない様子だった。話が通っていなかったのだ。或いは野島、大嶋氏らが話を都合よく解釈したのかも知れなかった。よくある話だ。

例会が終わって2次会となり再びらむろへ行くと、今度はマスターと野島氏らの話が通じたらしく、マスターは先ほどとは打って変わって愛想の良い顔を私に見せてきた。その態度に不信感を持った私は、野島氏らと荷物の管理方法を巡って話し合ったが、らむろに預かってもらうという態度に賛同できなかった私は12月の例会からの不参加を決めた。事実上の休会である。

会場にロッカーなどの設備のないクラブでは、荷物の持ち運びを巡ってのトラブルが生じるケースがある、ということを前にも述べた。江戸の場合、私以前の会場係が会場の近くに会社や自宅があったこともあり、荷物の持ち運びを特定の人に任せることができたので、そのような問題が表面化することがなかったのかも知れない。しかしそんなに自分で運ぶのがいやなのだろうか。他の人に荷物管理のことにもっと目を向けて欲しかった気持ちも無きにしも非ずで、私の休会は翌年4月まで続いた。

あまり思い出したくない事柄ではあるが、クラブ経営という点から一筆啓上しておく意義はあると思う。若かりし日々の一つの思い出である。
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by inv-pyramid | 2006-10-18 00:12 | 1995年

いざ、鎌倉ハイキング

10月15日の日曜には恒例のハイキング企画が行われた。今回は鎌倉で、留学生に日本語を教えている田辺氏の教え子さんたちとの合同ということになった。鎌倉散策というのはトーストマスターのイベントでは割と定番で、他のクラブでも時々行われていた。海外からのゲストを呼んだときも連れて行く先はたいてい鎌倉である。

コースは大仏から銭洗い弁天、源氏山公園で昼食、化粧坂を下って鶴岡八幡宮から報国寺へと至るもので、私の趣味で主に鎌倉の山側を歩いた。間中氏のガールフレンドの参加もあり、色々なメンバーが参加してにぎやかな会となった。晴天にも恵まれ、最後に報国寺の竹やぶを眺めながらお茶をいただくひと時は、日ごろの例会では味わえない雰囲気を醸し出していた。

私の周辺では最近はあまりアウトドア企画が見られないが、たまには青空の下に集うのもいいのではないだろうか。
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by inv-pyramid | 2006-10-15 09:52 | 1995年

江戸クラブのキャッチフレーズ

9月19日の第150回例会は、150回記念例会ということでプログラムも特別編成となった。50回、100回という回数は、何周年記念という区切りと合わせて区切りのよさから記念行事などが行われやすいものである。最近の例では、やまのてクラブが来年早々100回、武蔵クラブが200回を迎える。まあそれにかこつけて飲みたいという輩の方が多いのかも知れない。

150回記念例会では、3人一組のリレー形式のテーブルトピックがまず行われた。これは一つの出題を一人1分の持ち時間で3人でつないでいくもので、最初と最後で話の辻褄をいかに合わせるかが焦点となる。もちろん辻褄の合わなさを楽しむという向きもあると思う。記念会向けの趣向である。

もう一つの趣向が、上級マニュアル討論の司会進行#1「セミナー方式の討論」でのグループディスカッション。テーマが「江戸クラブのキャッチフレーズ」ということで、3人一組のグループをいくつか作って、キャッチフレーズのアイディアを出すというもので、この頃の世相を反映してか、前回ゲスト参加のマクレナン氏らによる「あなたもビル・クリントンになれる」などのユニークなフレーズも出された。ベストキャッチフレーズには「インターネットより熱いネットワークを江戸トーストマスターズに」が選ばれた。コミュニケーション不全症候群などが叫ばれていた世相もあるだろうが、現代にも通じるキャッチフレーズだと思う。口頭でのコミュニケーション、これこそがやはり普遍的な人と人との交流に欠かせないものであり、それが実感できる場がトーストマスターズであるということだ。

ちなみにこの会では、江戸創立期のメンバーだった韓国大使館の孫氏が顔を見せられた。インドネシアから日本にまた赴任先が変わったということで、江戸クラブに再びカムバックしたいということだった。
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by inv-pyramid | 2006-10-09 11:00 | 1995年

ひらがなタイムスがやってきた

9月5日の第149回例会では久しぶりの雑誌取材として、ひらがなタイムスの記者の方の来訪があった。ひらがなタイムスは在日外国人向けの情報誌で、記事は日本語と英語のバイリンガル表記、しかも日本語の漢字部分にはひらがなのルビがふってあるというユニークな雑誌である。ひらがなタイムスには前にも一度江戸クラブの紹介記事が掲載されていたので、今回は2回目だった。

奇しくもこの日は小生が今夜のトーストマスターを務めていた。また2名の欧米系外国人のゲスト参加もあり、取材、特に撮影にはうってつけの格好になった。もちろん外国人会員獲得のためである。これより少し前にイギリス人の大学講師レイサイド氏の加入があり、クラブの外国人率を高めるために例会を盛り上げる機運が高まっていた。

私は別に外国人会員の多い少ないには特にこだわりはない。日本人だけのクラブでもいいと思っている。ただ外国人、特にアメリカ人からはやはりTM流のスピーチ術に関しては大いに学ぶべきところがあるとは思う。そして何より江戸クラブの創立時は外国人が中心だったこともあり、この頃のクラブの中には外国人に多く参加して欲しいという雰囲気もあったことは確かである。

ちなみにこの時の取材を元にした江戸クラブの紹介記事はこの年の12月号に掲載された。
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by inv-pyramid | 2006-10-05 23:23 | 1995年

8月の横浜、暑き昼下がりの合同例会

8月5日に横浜で江戸とはまの合同例会が行われた。場所ははま例会場である産業貿易センター内の国際交流施設ヨークである。江戸とはまの合同例会だったが、春日井クラブの嶋田氏らも参加されていた。

余談だが、この頃は合同例会ではなくジョイントミーティングと呼んでいた。普通の例会もミーティングで、「例会」と日本語読みに変わったのはこの後のことである。日本語クラブなのに何故とも思えるが、この辺りに当初外国人主体で始まった日本語クラブであることが伺える。

天気もよく8月初旬の真夏らしい日であったことを覚えている。合同例会の前には江戸クラブの役員会が行われ、女性5、男性2の全役員が参加した。男女構成比はともかくとして、野島、大嶋の2枚看板率いる役員会はそれなりに盛り上がっていた。何の話をしたのかはもう忘れたが。

合同例会での私の担当はテーブルトピックで、スポーツをテーマとした。ラグビーワールドカップが南アフリカで10月に開催された年で、最初の出題がラグビーネタだった。その他テニスの松岡修造がウィンブルドンベスト8、野茂英雄がメジャーデビューを飾った年でもあり、その辺のネタを盛り込んだわけだが、改めて書き連ねると結構色々な話題があった年である。

スピーチ5本の中で、記憶に残るのが横浜クラブ川野氏による上級・広報宣伝活動の課題で行われた「ネットワークしま専科」なるスピーチ。インターネット時代到来で、ネットによるコミュニケーションの利便性などを説かれていた。パソコン通信からインターネットへの端境期で、まだネットによるコミュニケーションもそれほど普及していない時代だったこともあり、当時の私には興味深いものがあった。ちなみに川野氏は現在使われている日本語マニュアルの翻訳委員を務められた方で、マニュアルの1ページ目にお名前が記載されている。

この頃は合同例会は決まって横浜で開催されていた。それははまの例会が土曜開催で、会場などもはまの例会場で行っていた関係もあるが、年に1度、横浜に繰り出すのも悪くはなかった。横浜は港町ということもあるが、東京とは明らかに空気が違う。また休日の例会はみな格好がカジュアルなので、雰囲気もリラックスしていた。
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by inv-pyramid | 2006-10-03 23:26 | 1995年

クラブの生命線

クラブの生命線とは何だろうか。人によってとらえ方が異なると思うが、私はそれは会場だと思う。我々のようなコミュニティクラブでは初めに会場ありきでなければ、たちまち運営が立ち行かなくなる。会場探しの苦労というのは、だからやったことのある人でしかわからない。備品の管理もまた然りである。

江戸クラブは今でこそ千駄ヶ谷社教館を根城としているが、それ以前は会場を転々としていた。ゲストが時々「何で千駄ヶ谷なんですか」と尋ねることもあるが、私は千駄ヶ谷でよかったと思っている。ただ会場は無料でよかったが、備品の管理は厄介だった。今でこそロッカーがあるが、この頃はそんなものはなく、毎回会場係が運んでいた。私が会場係を行う前は、鹿野氏が会場係で、社教館の登録上の代表者である中野氏の会社が千駄ヶ谷にあるため、そこに荷物を置かせて頂き、鹿野氏が毎回取りに行っていた。それは鹿野氏が中野氏の下で仕事をしていた関係もあった。それが私の代になったので、毎回私が運搬することとなった。私は自宅から運搬していた。

当時は演台(レクターン)が自作のものでかなり大きく、必然的に鞄も大きかった。私が運ぶことになってからは、私の鞄で納まるようにすべく、演台を小型の物に作り変えた。これが現在まで続いている自作演台の始まりであった。当時は段ボールではなく板で作っていた。バナー、ギャベルなどと合わせても十分通勤鞄で収まるサイズとなった。

しかし、会場近くに預けるのではなく自力運搬となったため、会場係としては例会を欠席するわけには行かなくなり、これを負担に感じることもあった。これは会場係を経験したことのある人なら、一度は実感することだろう。他クラブでも同様の問題を抱えているところはあり、会場係はクラブの生命線であると同時にアキレス腱でもあった。
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by inv-pyramid | 2006-09-24 08:30 | 1995年

女性会員の台頭

7月4日と聞くとつい「7月4日に生まれて」という映画を思い浮かべてしまうが、アメリカ合衆国独立記念日のこの日は第145回例会。新年度の始まりである。恒例の新役員就任式で幕を開けた。

新会長は大嶋氏以来の女性会長として野島氏が就任した。以下、女性4名、男性2名という布陣はこの頃の江戸クラブのメンバー構成を良く物語っていた。この日の例会ですら、男性5名、女性7名という割合だった。まさに女性会員の台頭である。ちょうど現在のやまのてクラブのような状況だった。その中で私は初入閣で会場係を拝命した。今にして思えばこの日が暗転の始まりだったのかも知れない。

私は別にフェミニストでもなければ女性差別主義者でもない。私はただ会のバランスを重視したかった。男性中心のクラブと女性中心のクラブでは雰囲気が自ずと違ってくる。男性中心のクラブでは話題も結構硬いものが好まれるが、女性中心のクラブでは生活的なものなど身の回りのネタが多い。男性ばかりの中に女性が一人入ってくるだけで雰囲気が柔らかくなる。しかしそれが半々ぐらいの割合になってくると、面と向かっての議論なども難しくなってくる。話がこじれて感情的になってくるともう収拾がつかない。トーストマスターズといえども所詮は人間の集まりなのだ。時として理性より本能の方が勝ってしまう場合もあるだろう。

とにかく私は色々な面で危惧を感じていた。しかしまだこの頃は問題が表面化するはずもなく、夏の開放感の中で忍び寄る秋の気配、そして冬の訪れを静かに感じていた。
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by inv-pyramid | 2006-09-23 00:58 | 1995年

全日本スピーチコンテストinアメリカンクラブ

1995年の全日本スピーチコンテストは、6月24日東京アメリカンクラブで行われた。JTC時代はまだ秋季大会、春季大会の様な形で年次大会は行われておらず、毎年6月にスピーチコンテストと総会を行うのみだった。また日本語と英語のコンテストは別々に行われていて、たいていは英語のコンテストの1,2ヶ月前に日本語のコンテストが行われていた。ただ、この年は珍しく日本語と英語が同じ日に同じ場所でコンテストを行った。午後がはまクラブ運営での日本語コンテスト、夜が東京クラブ運営での英語コンテストだった。

アメリカンクラブでのコンテストは、丸テーブルを6個ほど並べての会食スタイルだったが、日本語コンテストはお茶とお菓子のみだった。私は全国レベルのコンテストには参加したことがなく、カジュアルな格好で遅れて参加したが、中に入ったら格式の高そうな会場の中でみな正装で着席していたので、場違いな所へ来てしまった、というのが正直な気持ちだった。出場者は全部で6名で、関東地区の他、名古屋、熊本からの参加もあった。硬派なスピーチもあればユーモアのあるスピーチもありで、コンテスト独特の緊張感をたっぷりと味わった。もちろん会場が治外法権下にあるアメリカンクラブということも手伝っていた。

優勝は横浜クラブから出場した梅原氏「自由って何?」。時折見せる神がかったような表情が印象的な方で、信ずるものは救われる、というようなことを訴えられていた。スピーチに引き込まれる、という感覚を初めて味わった。私にとって決して忘れることのできない話し手である。江戸から出場した田辺氏はここでも唯一の女性出場者で、見事3位入賞を果たした。

一部のはまのメンバーはそのまま夜の英語コンテストに参加し、その他のメンバーはコンテスト終了後はアメリカンクラブを後にし、当時まだできて間もない恵比寿ガーデンプレイスに繰り出した。その後のことは知らない。
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by inv-pyramid | 2006-09-20 00:36 | 1995年

スピーチコンテスト初挑戦

1995年6月6日の第143回例会では、全日本スピーチコンテストのクラブ内予選が行われた。最近はインハウスコンテストなどと呼ばれることが多くなってきたが、この頃はクラブ内予選という呼び方が一般的だった。インハウスコンテストという呼び方は英語クラブからの影響だろうが、TMのマニュアルにはインハウスコンテストという呼称は実はどこにもない。正しくはスピーチコンテストのクラブレベル、もしくはクラブスピーチコンテストである。日本語クラブなのだから、せめて日本語らしく呼び習わしたいものである。

それはさておき、私はこのクラブ内予選に初出場した。私はこの時点までにでちょうど6回のスピーチを終えていた。ただこの頃は日本がまだ正式なTMの一地区ではなかったこともあり、日本語クラブでは基本マニュアルを4まで終えていればよかった。予選への出場者は4名で、私のスピーチは「雪山の掟」なる題の山ネタ。ピッケルなどの小道具を使って、山での遭難体験を話した。優勝は唯一の女性出場者の田辺氏で題が「戦争と平和」。一部の審査委員の話では私のスピーチが1位という声もあったようではあるが、まだまだ上手な方が多く、毎年の様に全国大会へ出場するようになるのはまだ先の話だった。
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by inv-pyramid | 2006-09-17 00:26 | 1995年

新たなる潮流

1995年といえば、ウインドウズ95が発売された年である。それまでパソコンといえばPC98が圧倒的多数で、しかしそれでもパソコンユーザーはまだまだ少なかった。江戸クラブでも例会プログラムは手書きとワープロでの作成が半々ぐらいで、またワープロも現在の用に多数の書体を使えるものではなかったので、画一的で平板な文字によるものが多かった。本格的なインターネットの活用は次のウインドウズ98の到来まで待つ必要があった。今日のようなメールでのやりとりなどまだまだ考えられない時代だった。

江戸クラブのメンバー構成も微妙に変わりつつあった。創立初期は外国人会員が多かったわけだが、外国人は徐々に減り始め日本人主体のクラブになりつつあった。私の入会時で外国人は3人、この時点では会長の朴氏一人になっていた。代わって台頭してきたのが女性会員である。これはやはり前年の日経ウーマン誌への広報効果が大きく、95年に入ってからは例会の男女比の割合が、4:6、5:5、6:4など、女性が占める割合が増えてきた。女性の社会進出がクローズアップされていた当時の社会情勢をよく反映しているとも言える。

女性が増えると会の雰囲気も変わるもので、特にスピーチなどは女性好みのネタが多かった。比較的多い話題が結婚ネタで、自分の見合い話経験や結婚します、しました宣言をスピーチの中でする方もいた。私はこの状況に少なからず危機感を覚えていた。次年度の役員構成が女性5、男性2となったことでその思いはさらに強くなった。このまま女性主体のクラブになるのではないかと思えたほどである。新たなる潮流の訪れを予感した。
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by inv-pyramid | 2006-09-16 23:59 | 1995年