人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:1994年( 19 )

NW誌への記事掲載と運命の出会いその2

入会した年だから色々とあったのか、1994年というのがそういうタイミングだったのかよくわからないが、この年はPR活動もこまめに行われていた。インターネットなどまだ一般化されていない時代だから、もっぱら新聞雑誌などのメディアへの記事掲載である。その一つが日経ウーマン誌への記事掲載で、小さい囲み記事ながら、女性向け雑誌ということで、女性からの問い合わせが殺到した。最終的に100名弱の問い合わせがあったのだから、まずまずの成果だったのではないだろうか。

そのNW誌を見て来ましたという女性ゲストの方が、私が初の役割を担った回の次の例会に見学に来ていた。NW誌系ゲスト第1号で小柄で感じのいい方だったが、ゲスト感想で大嶋夫妻の関係に言及するなど鋭い質問もされていた。入会希望とのことだったが、やはり江戸クラブのコアなメンバーがスピーチをしていたので、後で考え直したのか2度と来なかった。この回では新役員就任式も行っていた。

そしてこの次の8月の例会にもまたNW誌系ゲストが2人来て、その内の一人は後に入会した。この回では、テーブルトピックと論評のクラブコンテストが行われたが、その最後にゲストへもテーブルトピックが振られた。「天国と地獄とどちらへ行きたいか」という出題に対して、「地獄」と答えていたのが妙に印象に残ったその人が、後に私の伴侶となるのだが、これも一つの運命の出会いだろう。

この回で私はちょっといい話をした。「トーストマスターズに入ったワケ」という題で、なぜか原稿まで作っている。後の私のスピーチスタイルからは創造もできないが、まだスピーチに対して真摯に取り組んでいたのだろう。やはり入会した年というのは色々とあるものなのだろうか。
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by inv-pyramid | 2006-08-14 02:51 | 1994年

聴能言語士と運命の出会い

私が江戸クラブに入会した1994年というのは、例会以外のイベントが非常に多い年だった。元来好奇心旺盛な私はそのどれもに参加した。トーストマスターズをベースとして、色々な世界を知るきっかけとなったその最初のイベントが、大宮で開催された「日本聴能言語士総会ワークショップ」。聴能言語士(現在は言語療法士)とは、障害があって言語機能が正常に働かない人の言語治療に携わる医療技術者のことで、その総会が大宮で開かれていた。なぜその総会に江戸クラブが参加したのかといえば、当時筑波クラブのメンバーで、新たに浦和に埼玉クラブを立ち上げようとしていた梅本氏がその聴能言語士で、その総会にトーストマスターズのワークショップを組み込むことを企画されたからだった。ワークショップには江戸クラブ、はまクラブの日本語クラブの面々を中心として、ディベートの井上氏などの英語クラブの有力者も参加していた。

このワークショップに参加するまで私は聴能言語士のことなどまるで知らず、大いに勉強になった。また江戸以外の日本語クラブであるはまクラブの面々と会うのも初めてのことで、はまクラブの人たちともこれ以降よく付き合うようになった。そして梅本氏との出会いは、この後のことを考えると正に運命の出会いで、梅本氏とは数年後武蔵の設立で一緒に活動することになるのだが、この時はもちろんそんな展開になるとは思いもよらなかった。

肝心のワークショップだが、トーストマスターズの説明に始まり、モデル例会を行った後、「聴能言語士の仕事にトーストマスターズをどう生かせるか」をテーマとしたグループディスカッションの実習を行った。ここでの私の役割はまたもえーとカウンターだった。トーストマスターズの活動は、言語士のみなさんには好意的に受け止められたが、自分たちとの仕事との関連という点では、似て非なるものという感想を述べられた方が多かった。それは言語士の仕事が患者の話を聴く方に重点が置かれているかららしく、自分が話す方が主体のトーストマスターズとはちょっと違うと思われたからかも知れない。

しかしながら、今でもこうしてあの時のことを鮮明に覚えているということは、私にとってとても有意義なひとときであったに違いない。
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by inv-pyramid | 2006-08-14 02:05 | 1994年

あせらずに

かくして、私の江戸クラブでの活動がスタートした。1994年7月5日、第125回例会がその記念すべき初日で、奇しくもトーストマスターズの新年度からのスタートとなった。江戸クラブは朴新会長の下で、役員もフレッシュかつ個性的なメンバーで活気があった。

「あせらずに」というのは、私の入会後の初の役割である今夜の言葉で私が準備した言葉である。トーストマスターズには入会したけれども、あせらずにマイペースで行こう、という気持ちを込めたかどうかはもう忘れた。スピーチの上手な人が多いので気後れしないで行こう、と思っていたのかも知れない。当時は今夜の言葉とえーとカウンターがセットになっていた。この頃は、新入会員が担当する最初の役割はえーとカウンター/今夜の言葉と相場が決まっていて、最初のスピーチをするのは入会して2,3回後の例会で行うのが通例だった。

最近は入会初日に初スピーチを行う風潮があり、入会前のゲストにスピーチをさせたり、ゲストに初スピーチをさせることを条件に入会させたりする傾向もあるが、それは本来のやり方ではない。何しろマニュアルが手元にないのだから。マニュアルにも新入会員には然るべき手順を踏んでから初スピーチをして貰うように書いてある。トーストマスターズの例会でのスピーチはマニュアルの課題とその目標に沿って行うのが基本なのだから、マニュアルがない状態でスピーチをするというのは、既にトーストマスターズでのスピーチではない。然るべき手順を踏む、ということは古きよき時代の逸話ではなく、基本の基なのだ。

入会当時はそれが当たり前だと思っていた。最初に入会したクラブでの体験というのは、それが原体験となるのだから、そこからの刷り込みも大いにある。今も昔も江戸クラブ入会当時の体験は、私とってのスタンダードなのである。
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by inv-pyramid | 2006-08-14 01:21 | 1994年

モツ鍋の記憶

晴れて江戸クラブに入会した私は、2次会にも参加するようになった。会社は当時から目黒だったので、例会の日は行きは行き易かったが、帰りは相模原だったので、2次会に参加すると深夜帰宅になってしまうため、2次会にはまだ不参加だった。

当時の流行は「モツ鍋」。現在のもみじ茶屋と猪八戒の中間あたりの地下に「らむろ」というちょっと小洒落たモツ鍋レストランがあり、当時の江戸クラブの行きつけの2次会場だった。大嶋氏や朴氏などはもちろんマスターと顔馴染みで、いくつかの料理の後、モツ鍋で締めるのが、この頃の江戸クラブの2次会の流儀だった。

その後、モツ鍋ブームも下火となり、らむろもいつの間にか閉店していた。らむろなき後は、しばらくもみじ茶屋で2次会をしていた。ここはらむろが健在の頃もらむろが満員などの時の第2会場だったが、とにかく料理が出るのが遅く、メンバーの間では不評だった。

たまに社教館と代々木を結ぶ商店街通りの方へ繰り出すこともあり、地中海料理の「十番亭」やタイ料理店、イタリア料理店などで2次会をすることもあった。十番亭は一時期忘年会場としてよく利用していた。そうこうしている内に猪八戒が開店し、現在に至っている。
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by inv-pyramid | 2006-07-23 22:07 | 1994年

梅雨に入会

雨の季節を待って、というわけではないが、3回ほど例会をパスして、6月の最初の例会で入会宣言、続く6月21日の第124回例会にて晴れて江戸クラブに入会した。折りしもトーストマスターズの年度終わりだったのだが、もちろんそんなことは知らない。

3回目の見学から入会まで間が空いたのは、単純にお金の問題だった。当時の入会金は3000円、会費は半年分前払いで6000円と現在と変わらない。物価も本部納入金も値上がりしているのに、10年以上も据え置き(実際は一時5000円に値下げしている)というのはひとえに千駄ヶ谷社教館が無料だからだが、それにしてもサラリーマンが1回でポンと出すには1万円弱という金額は大きい。これは価値観の問題だろうが、私には大金であり、そんなお金を出して入会してから先、コンスタントに続けられるかどうか微妙な心理が働いたのは確かである。現在の私からすれば全くの杞憂であるが、誰でも最初に入会を考えるときはそんなものではないだろうか、とも思う。

最古参メンバーの大嶋女史などは、もう来ないかと思っていたそうだ。まあ連続して見学に来ていた人間がぷつりと来なくなったのだから、それはそうだろう。今でも時々そういう人を見かける。江戸クラブの会長は大嶋氏から朴氏へとバトンタッチされようとしていた。
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by inv-pyramid | 2006-07-23 21:42 | 1994年

3度目の正直

1994年4月5日。3回目の例会見学は、3度目の正直で今度こそ通常例会だった。第120回である。この頃はまだパソコンやワープロなどはそれほど普及しておらず、手書きのプログラムも結構多かった。それが段々と文書のワープロ化が進んでくると、時には手書きのプログラムはけしからん、と仰る御仁も出てくる有様で、10年ほどしか違わないのに、今の世とは隔世の感すらある。

プログラムの進行は、トーストマスターズの標準通り、テーブルトピック、スピーチ、論評、という流れだったが、今夜のちょっといい話がなんと総合論評の後に行われていた。ちょっといい話は例会の最初の方で会の堅い雰囲気を和ませるために行われるショートスピーチ、というのが定説になっている現在からするとかなり違和感があるかも知れない。しかし当時の私には初めて触れるトーストマスターズの通常プログラムであり、こんなものなのかな、と思うしかなかった。当時会長だった大嶋氏が基本マニュアル#8説得力を持って話せで、「日本語スピーチに必要性はあるのか」というスピーチをされていたのが興味深い。

この頃はゲストは3回まで見学が許されることになっていた。3度目の正直で入会するか否かを決めるわけである。私の腹は決まっていた。しかし入会するにはもう少し時間が必要だった。
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by inv-pyramid | 2006-07-04 23:08 | 1994年

社教館まつり

江戸クラブは1994年当時は既に千駄ヶ谷社会教育館(以下、社教館)で月2回の例会をしていた。社教館というのは、都内の各区に存在する、公民館とはまた違った性格の施設で、区民が自主的に社会教育活動を行うことを支援する施設という位置づけを持っている。貸し会議室が無料というところがポイントだが、これには条件があり、団体登録をし、なおかつ構成員の半数以上がその社教館が存在する区の在住、在勤、在学者でなければならない。ちなみに千駄ヶ谷社教館は渋谷区の施設である。それまで会場を転々としていた江戸クラブがなぜ千駄ヶ谷に拠点を移したのかといえば、それは当時の会員だった中野氏という方が千駄ヶ谷在住だったからだ。

登録団体となったからには、ただ会議室を借りるのではなく、地域活動にも参加して社教館への印象をよくしておく必要がある、という意図があったかどうか定かではないが、当時の江戸クラブは社教館が毎年3月に行っている、「社教館まつり」という登録団体の活動発表の場、つまり文化祭のようなものにも参加していた。

スピーチコンテスト、ディベートと続いてさらに社教館まつりでのデモ例会と、1ヶ月の間に3度も特別な例会を行うことのできるエネルギッシュなものが当時の江戸クラブにはあった。クラブを支える中心メンバーの志の高さ、とでも言うのだろうか。それが私が入会を決める一つの要因になったことは間違いない。後に私が会長になった時、私もまた社教館まつりに参加し、デモ例会を行ったのは、この頃の江戸クラブに対するリスペクトがあったからかも知れない。
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by inv-pyramid | 2006-06-20 01:12 | 1994年

ディベートの洗礼

さて、初見学に続けて3月の第3火曜日の例会も見学した。手元の控えでは119回例会とある。今回はディベート勉強会。前回のスピーチコンテストに続いて2回連続での特別プログラムである。最近の例会の風潮として、スピーチマラソンなど個人の課題スピーチばかりを進める傾向が目に付くが、当時は何回かに1回は特別なプログラムがあった。それはまだ、日本のトーストマスターズが国際本部から正式な地区として認められていなかったという時代背景もあるだろう。正式な地区、日本支部として認定された現在では、それに伴い上級トーストマスターを年間数百人も認定せよ、というノルマが課せられるため、勢い個人のスピーチプロジェクトの消化が例会の活動の中心になる。それを否定はしないが、トーストマスターズのプログラムはもっと幅広い。昔の方が柔軟に活動できていたように思うのは私だけだろうか。

話が横道にそれたが、この日私はディベートというものを目の当たりにした。2組のチームがある論題に対して肯定側と否定側に分かれ、立論、尋問、最終弁論という流れで論陣を張る論戦の場。いかにも訴訟社会のアメリカで発達したような議論の手法は、私の目には新鮮に映った。この日の論題は「日本政府は1994年に関税を撤廃し、食用米の輸入を自由化すべきである」。当時の時代背景が偲ばれる。大嶋夫妻に野島、鹿野といった当時の江戸の論客たちによる舌戦は熱がこもり、これがディベートか、と見る者を納得させる迫力があった。と同時に最後に審査で肯定側、否定側どちらかが勝利を収めるという終わり方には釈然としないものも感じた。しかしこれは法廷などで最後に判決が下されることを考えればしごく当然なことなのだろう。2つのチームがそれぞれの意見を戦わせ、最後は第3者が判定を下す。この日以後、私はトーストマスターズにおいて何度かディベートに関わることになる。その記念すべき初日がこの日となった。
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by inv-pyramid | 2006-06-08 00:30 | 1994年

1994年、江戸・東京。

手元の記録では1994年3月1日とある。恐らくまだ寒い夕刻、私は千駄ヶ谷駅の改札を出たはずである。左手に東京体育館を見ながら、江戸クラブの例会会場である千駄ヶ谷社教館を目指した。まさかこの日から数年間、ここに通うなどとはまだ思っていなかった。もちろん逆ピラミッドの理念などは、この時点ではこれっぽちも頭の中にはない。鳩の森神社、もみじ茶屋のある5差路の風景は、現在とほぼ同じだった。

初めて訪れた江戸クラブでは、スピーチコンテストのクラブ内予選を行っていた。トーストマスターズでは毎年5月に全国のクラブが集まり、全日本スピーチコンテスト(現在は国際スピーチコンテスト)を開催している。その第1関門がクラブでのコンテストだった。審査員には、今をときめく井上氏が名を連ねていた。この頃はまだ日本語クラブにもよく顔を出されていた。

例会は千駄ヶ谷社教館の2階中会議室だった。現在もここで同じように例会が行われていることを考えると、感慨深いものがある。私は窓側の席に座った。クラブコンテストでは7、8人のメンバーが次々にスピーチを披露していた。大嶋、朴、間中、鹿野の各氏など当時の江戸クラブを支えていた方々は一人一人が個性的で、私はただ圧倒された。カルチャーショックと場違いな所へ来たという思い、そして興味深さとがない交ぜになった気持ちでトーストマスターズとの邂逅は終わった。

この時はまだ、江戸クラブ以外に他のトーストマスターズがあること、英語のクラブがあることなどは知らなかった。初めて参加したクラブが日本語クラブだったということは、その後の私の歩みを考えると、幸せなことだったのかも知れない。今も昔も私にとっては、トーストマスターズ=日本語クラブ、否、母国語クラブなのだから。
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by inv-pyramid | 2006-06-01 01:09 | 1994年