人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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カテゴリ:2000年後半( 60 )

[D76P編] ディストリクト初のニューズレター

8月27日(日)、ディストリクト76Pになってからの初のニューズレターが発行された。JTC時代ももちろんニューズレターは発行されていたが、発行体制は年度によってまちまちで、年1回のこともあれば、数回発行されることもあった。稲垣体制になってからは少なくとも季刊を目指していた。またこの年度は、言語のバイリンガル化を極力図ろう、という意識があり、ニューズレターもほぼ全ての記事が日英バイリンガルで書かれていた。これは役員の3分の1程度が日本語またはバイリンガルクラブのメンバーだったことも一因としてある。但し、まだまだ試行錯誤の面もあり、レイアウトなどについては注文をつける方もあった。

D76Pニューズレター初号の内容は、巻頭がまず稲垣ガバナーの挨拶。続いて、同じく稲垣氏によるディストリクト体制になっての組織、逆ピラミッドの理念を図解で説明。ディストリクトになって年間の活動や評議会がどう変わるかを述べられていた。その次はビジョンコミッティからの挨拶として、議長のキルパラニ氏がビジョンコミッティのこれまでの経緯と今後の活動方針を述べられた。ビジョンコミッティはJTCを準ディストリクトに昇格(TM流に言えば降格)させるために設置されたものであるため、その役割は一区切りついていたが、今後はスピーカーズビューローや新クラブの支援、日本語教材の提供などを目的とした活動をするとのことであった。

後半は年間の活動予定、そして新クラブ、設立中クラブの紹介。チャーターされたクラブとして、座間アーティキュレーターズクラブ(Zama Articulators Club)が紹介されている所に一つの時代を感じる。これは米軍の座間キャンプに突如としてできた英語クラブで、D76Pになってからは初のチャーターであった。残念ながら短命に終わり、現在は存在しない。米軍施設内のクラブにはよくあることである。また設立中クラブとして徳島、鶴ヶ島が紹介されている。最後の頁はエリア52ガバナーのモー氏の自己紹介。

この年度はD76Pのホームページが出来た年でもあり、その紹介も少しされている。現在は広報活動もホームページが主になり、印刷媒体の発行などはなくなったが、折に触れ見返すことができるのが紙媒体の良い所だろう。僅か10年前のことなのに、今となってはただ懐かしいだけである。
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by inv-pyramid | 2010-04-26 23:14 | 2000年後半

[Leader-ship編] 土曜日のクラブを創ろう

8月26日(土)10時より、新宿駅西口地下街の喫茶店で新クラブ設立のための準備会が行なわれた。後に " Leadership Toastmasters Club "と命名される英語クラブである。発起人は稲垣氏で、呼びかけに応じたのは、東京の我妻氏、湘南の小林S氏、そして私の4人であった。この時点ではまだクラブの名称までは決まっておらず、「土曜日トーストマスターズを造る会」という仮称にしていた。

最近は土曜日のクラブも乱立気味であるが、この当時の首都圏では、土曜日に活動しているクラブは神奈川県内が主で、他に筑波や千葉に点在するのみ、都内では羽村のウェスト東京があったが、23区内には英語はもちろん、日本語のクラブも存在しなかった。つまり、都内のクラブは勤め帰りの社会人が主な参加層なので平日クラブ、郊外は土日が休みの社会人他が参加する週末クラブという図式であった。しかし、中には勤め帰りでは平日クラブには参加できない方もいる。このためその様な方々は、土曜日に例会を行なうクラブを選択する他はなく、他県から越境して神奈川県のクラブに参加していた方もいた。

私はこの現状を見て、エリアガバナー就任時に稲垣氏に「都内には土日のクラブがありませんね」と漏らした所、「ならば創りましょう」、とすかさず返事があった。こうして稲垣氏が主だった方々に声を掛け、この日の準備会に漕ぎ着けた。稲垣氏が打合せメモに上げたスローガンは下記3つであった。

・日本初の「時間軸」に着目した新クラブ設立で多くの人にトーストマスターズを提供。
・地域(空間軸)は、東京都及び北関東などで特定の地域に属さない。
・土曜日にスピーチをしたい方は誰でも仲間

スケジュールとしては、9月にコアチームを結成し、10月までは広報活動、そして11月にデモ例会という流れが提示された。稲垣氏の構想としては、デモ例会に40名程度の参加者を呼び、その日の内に20名のチャーター基準を満たせたら素晴らしい、ということであった。これは一件絵に描いた餅の様な話にも聞こえたが、後にこれに近い形でチャーターしたクラブも出現したことを考えると、これくらいの意気込みがあった方がいいということだろう。参加者4人の内、3人が英語クラブの方で日本語クラブの参加者は私だけだったので、英語のクラブにすることがほぼ既定路線という雰囲気だったが、稲垣氏の発案で年に何度か日本語の日を設けて、日本語例会も行なうバイリンガルクラブはどうか、という案も出された。我妻、小林の両氏も賛同されたので、私も若干溜飲を下げた。

喫茶店のモーニングセットをつつきながらの議論はこの後、クラブ設立の焦点とも言えるクラブ名の検討に移った。みなそれぞれに考えがあり、" Metoropolitan ", " Capital ", " Akebono ", " Asahi ", " Subaru ", " Saturday Talkers " 等の案が出された。流石にこの場ではまとまらないのでクラブ名については持ち越しとなった。

我妻氏の都合で会合は11時で終了、他のメンバーはまだ時間があるということで、会場を新宿南口の某ホテルのラウンジに移して2次会を行なった。ここで準備金の話になり、この場の3名が1万円ずつ出し合って3万円を原資とした。チャーターまでは小林S氏が会計を担当することになった。また小林S氏はこのクラブ設立をハイパフォーマンスリーダーシップのテーマとしたい旨要望されたので、稲垣氏と私が協力することになった。この時点では私はハイパフォーマンスリーダーシップの「ハ」の字も知らなかったので、ただ従うのみであった。

実はこの日の午後、私は大嶋R氏のスピーキングエッセイの会合でモデルスピーチを行なうことになっていたのだが、その話をすると小林S氏は、新クラブの協力者を募りたいので同行したい旨申し出られたので、一緒に会場である東京国際フォーラムへ出掛けた。小林S氏とはこの後クラブがチャーターするまで活動を共にすることになったが、その行動力、決断力にはただ圧倒されるのみであった。

こうして武蔵、鶴ヶ島に続いての3つ目のクラブ設立への参加と相成ったが、このクラブへの参加は私にとって大いにプラスになるものであった。
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by inv-pyramid | 2010-01-17 21:38 | 2000年後半

[武蔵編] 縁は異なもの

8月24日(木)第45回例会、この日武蔵にまた新たなキーパーソンが入会した。堀口氏である。堀口氏は前回の例会が初参加で、2回目で入会を決められた。武蔵を訪れたきっかけは、武蔵浦和駅ガード下にあるスーパーの掲示板に張られていた武蔵のチラシを見てとのことであった。しかもそれは、たまたま雨宿りをしていた所にそのチラシがあったから見つけたとのことで、正に縁は異なものという表現が相応しいものであった。

ちなみにこの回は、私が「働いて旅したオーストラリア」という題でスピーチをしており、後でご本人に聞いた話では、この時の私のスピーチに触発され、私のようなスピーチがしたい、ということで入会を決められたそうである。何とも恐縮する次第だが、自分が気が付かない所で誰かに影響を与えることもあるのだな、と思った。

堀口氏はこの後武蔵の会長も務められ、またやまのてや響の設立にも貢献して頂いた。特に人を連れてくる才能には脱帽するばかりで、堀口氏の誘いで入会された方々は数多い。この様な人物がTMに入会されたきっかけが前述のようなものだった、ということを考えると、やはり縁は異なものと思わざるを得ない。そしてそのスーパーにチラシを掲示した梅本氏の慧眼もまた流石であった。
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by inv-pyramid | 2010-01-14 02:04 | 2000年後半

[横浜&武蔵編] D76P論評WS&コンテスト打合せ(その1)

8月15日(火)夜、麹町の某会社オフィスにて、横浜クラブと武蔵クラブで共催する今期のディストリクト76P論評ワークショップ及びコンテストの第1回打合せが行なわれた。都内での打合せとなったのは、横浜の関係者が皆都内勤務であることと、埼玉から来る武蔵の関係者のことを考慮してのことだった。打合せはこの後何度か行なわれたが、皆横浜のメンバーの勤務先会社の会議室だった。私にとって英語クラブと日本語クラブの共催でのコンテスト運営は初めてのことなので、色々と気を遣うことが多かったが、ディストリクト体制になって初、しかも今後のコンテスト運営の試金石ともなるので、何としてでも成功させたいと思っていた。

武蔵の運営スタッフは、ワークショップ担当が加藤氏、コンテスト担当が梅本氏、会長の佐藤氏はオブザーバーで、私は渉外を受け持った。横浜はワークショップ担当が花田氏、コンテスト担当が中尾氏、その他会長の岡野氏、サポートに吉田氏という布陣。第1回の打合せは8月のお盆休みの真っ只中だったが、事前の確認でみな特に問題ないとのことだったので、この日がキックオフということになった。第1回打合せでは会場と日程の確認、プログラム案の検討などが行なわれた。日程は10月21日(土)で10時~17時の内、午前中にワークショップ、午後に日本語コンテスト、英語コンテストの順で行なうこととした。ワークショップについては、花田氏がかなり具体的なコンセプトで計画されていて、基本的には、"The Art of Effective Evaluation"(効果的な論評の技術)というTMのワークショップマニュアルを用いて行なうとのことであった。詳細は加藤氏と詰めることになった。

本番まで2ヶ月という状況であったが、初会合で打ち解けることができたことがこの日の収穫だった。この後、岡野氏により専用のMLが開設され、綿密な打合せがされていった。
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by inv-pyramid | 2010-01-04 22:18 | 2000年後半

[江戸編] ついに!?拙宅でのホームパーティー

8月12日(土)の午後から江戸クラブの納涼ホームパーティーを和光の拙宅で初めて行なった。この頃はまだ新居に引っ越したばかりで荷物も少なく、スペースが空いていたのでホームパーティーを行なうにはちょうど良いタイミングであった。私が入会してからは江戸のホームパーティーといえば大嶋邸であったが、大嶋夫妻は既に退会されているので、新たな会場として名乗りを上げてのことであった。参加者は我々夫婦を除いて6名で座卓を囲むにはちょうどよい人数であった。
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形態は基本的には持ち寄り形式のポットラックパーティーだったが、私の手料理を振舞うというお約束もあった。既に料理室納会では披露していたので、味については織り込み済み(?)。この頃はとにかく武蔵の陳氏から教わった餃子作りの腕前を披露するのが一つの楽しみだったので、機会があれば餃子を作っていた。

我が家は所謂日本式マンションの3LDKで、まだ1室が丸々家具などが置いていないスペースになっていた。なのでパーティーを行なうにはちょうど良かった。拙宅でのホームパーティーはこの後、武蔵、やまのてと続いた。
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by inv-pyramid | 2010-01-02 13:43 | 2000年後半

[鶴ヶ島編] 何故?鶴ヶ島にクラブ誕生

8月11日(金)夜、鶴ヶ島クラブの第2回例会に参加した。鶴ヶ島は埼玉県内の小都市で、鉄道路線で見ると東武東上線の沿線で川越以遠になる。最寄り駅は鶴ヶ島駅。埼玉県内では、埼玉、武蔵に続く3番目のクラブである。

何故この鶴ヶ島にクラブが出来たかと言えば、話は少々ややこしい。クラブ設立の中心メンバーは鶴ヶ島市在住で、元々は羽村のウェスト東京クラブに在籍していた。つまり鶴ヶ島から羽村まで通っていたのである。車でおよそ1、2時間という所だろうか。しかしやはり越境して通うのは大変なので、地元にクラブが作れないかと模索していた。ただ当時のウェスト東京クラブは少人数だったため、鶴ヶ島への新クラブ設立でメンバーが移籍することはクラブの弱体化を意味した。それがウェスト東京の他のメンバーには快く思われなかったようで、「クラブを出て行くなら**するぞ」などと脅されもしたらしい。結局なかば分裂する様な形での設立になったとのことである。2次会で伺った話なので、真相は当事者のみぞ知る、という所か。

ちなみに発起人メンバーは3人であった。その内の一人中村氏は、以前ウェスト東京からエリアスピーチコンテストに出場されていた方で面識があった。また武蔵の近藤K氏が中村氏と旧知の仲とのことで、近藤K氏も鶴ヶ島のメンバーに誘われていた。

鶴ヶ島の例会場は鶴ヶ島市南公民館で、東上線の鶴ヶ島駅からは徒歩でも行けるが、途中民家を抜けて行くので初めて行く人にはわかりずらい所にある。私はこの時は夏休み中ということもあり、車で出かけた。私が参加した回は、近所の主婦の方などが参加されていた。2次会の席でスポンサーを依頼されたので、同じ東上線沿線ということもあり引き受けることにした。
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by inv-pyramid | 2010-01-02 13:36 | 2000年後半

[武蔵編] 涙のどたキャン

8月10日(木)の武蔵第44回例会。この日は、稲垣DGと佐々木LGETが揃って武蔵例会を訪問されていた。稲垣氏は夏休み中なので、あちこちのクラブを訪問中とのこと、また佐々木氏は梅本氏のスピーチ、対人関係のコミュニケーションの相方を依頼されてのことであった。両氏がディストリクトのイベント以外で揃い踏みするということは、まだ蜜月が保たれていた頃ならではの出来事だろう。そしもう一人埼玉クラブの広瀬氏がゲスト参加されていた。

この日はちょっとした事件があった。会長の佐藤氏がスピーチにも関わらず遅れてこられ、スピーチの紹介の時に紹介された題名が「お詫び」ということであった。しかし実はこれは題名ではなく、スピーチが準備できなかったことへの「お詫び」。一同仰け反ったが、これだけなら単なるどたキャンである。問題はこの後、総合論評で広瀬氏がこの件を糾弾されたことであった。つまりスピーチが準備できないのなら事前に連絡しておくべき、ということを述べられていた。広瀬氏は歯に衣着せぬご意見を述べられる方で、指摘ももっともなことであったが、佐藤氏は閉会の挨拶後、足早に会場を後にされていた。気になったので後を追いかけると、目頭を熱くされていた。

どたキャンの功罪はよく言われることだが、出来なかったことを責めるのではなく、出来なかった場合に備えて代役を立てるなどの工夫をした方がTMらしく建設的であると思う。TMで女性の涙は見たくないものである。
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by inv-pyramid | 2010-01-02 07:59 | 2000年後半

[武蔵編] 喫茶スペースでお茶なし役員会

8月3日(木)19時15分より、武蔵浦和駅ガード下のマーレ飲食店街の喫茶スペースで武蔵クラブ今期初の役員会が行なわれた。この頃の武蔵の2次会はマーレのサイゼリヤに定着していた。正直な所、例会場の別所公民館とは反対側でマーレの一番端にあるので、移動にも時間が掛かるのだが、駐車場には逆に近く、当時の武蔵メンバーは車で来られる方も多かったので、駐車に躊躇することなく2次会に参加できるのが良かった。何より飲食代が安く済むのが有難かった。

役員会はその飲食店街の中央に設置されている喫茶スペースで、特に飲食することもなく行なわれた。夏休み中にも関わらず全員出席していた。内容はマニュアルの使用法や例会の進行方法の確認、各役員の役割の分担決め等の基本的なことが中心だった。注目すべき点としては、「進歩したで賞」を新たに設置したことであった。これは投票用紙の " MOST INPROVED "欄に注目された方がいて、「これは何」という質問が上がった事から表面化した。これは前回から比べて進歩が見られる方に投票するもので、国際本部ではこの投票欄に対応するミニ賞状をちゃんと用意しているのだが、この賞を例会で設けているクラブは他に見たことはなかった。現在でもこの賞を活用しているクラブは私の知る限りはない。

最近はクラブ独自の賞を設けることが流行っているが、規定されているにも関わらず、意外と見過ごされていることがあるということである。そしてこの様な意見を議題で取り上げ、議論して決定することができる雰囲気があるということが新設クラブの良さだろう。真夏の夜、お茶も飲まずに喫茶スペースの片隅で我々は熱い議論を繰り広げていた。
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by inv-pyramid | 2010-01-02 07:57 | 2000年後半

[江戸編] 苦肉の策!?今夜のディベート

8月1日の第254回例会から一つの試みをスタートさせた。「今夜のディベート」である。実際に「今夜のディベート」と題して始めたのはその次の例会からだったが、この日が事実上の始まりであった。内容は以前も時々ワークショップとして行っていたミニディベートを毎回行なうということであった.これは少ない出席者数とそれに伴うプログラムの貧弱化を補うための打開策というか苦肉の策であったが、2回目からは定刻に人数が揃わないというもう一つの弱点を補う目的も持たせて、例会開始早々、今夜のトーストマスターの紹介前の最初の30分で行なうことに路線変更した。ミニディベートだけなら4,5人でもでき、その間に人数が揃って通常例会ができるというメリットが得られた。

この手法は当時の江戸に合っていたので受け入れられ易く、3回目以降からは毎回行なわれるようになり、しばらくは江戸の名物になっていた。
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by inv-pyramid | 2010-01-02 07:55 | 2000年後半

[横浜編] アメリカを感じたサマーパーティー

7月23日(日)に横浜クラブのサマーパーティーに誘われて参加した。場所は京急沿線のストロガノフ氏のアパート。ストロガノフ氏はまもなく帰国されるとのことで、送別会も兼ねてのパーティーであった。

このパーティーは色々な意味でカルチャーショックであった。アパート自体は何の変哲もない日本家屋だったが、ストロガノフ氏に案内されて氏のベッドルームを拝見するとそこには巨大なベッドが置かれていた。帰国するので処分したいとのことだったが、組み立て式でもないがっしりとしたベッドにただ圧倒された。一方、テーブルは日曜大工で作ったような折りたたみ式で、そこにテーブルクロスを掛けて使用していた。これはいかにも合理的であった。飲み物はこれも巨大なクーラーボックスに色々なものが入れてあり、好きなものを飲めと言う。さらに食べものは何とバルコニーに置かれたバーベキューグリルで焼いていた。近所から苦情は来ないのか、と余計な心配をしていたが、これがアメリカ式のやり方なのかな、と思った。

そうこうしている内に横浜のメンバーも集まってきて、クーラーの効かない狭い室内で夜まで盛り上がっていた。色々と度肝を抜かれたサマーパーティーであった。
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by inv-pyramid | 2009-11-24 00:20 | 2000年後半