人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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2007年 10月 22日 ( 1 )

[熊本編] 全日本スピーチコンテスト・許されし試み

かくして1999年4月24日14時から、熊本での全日本スピーチコンテストが始まった。JTC時代の日本語コンテストであるため、コンテストルールについては寛容で、台湾の方の出場も認められた。これによりコンテストは日台交流戦の色合いも濃くなった。くじ引きの時に並んだ出場者の数は総勢12名で、内台湾のメンバーは3名だった。私はよりによってトリを務めることになった。

大嶋ガバナーが欠席となったため、JTCの主賓はエリア5ガバナーの大石氏が務めた。総合司会は最近ではエリアやディビジョンのガバナーとしてすっかり全国区になられた嶋村氏、コンテストの司会は田代氏が勤められていた。このコンテストは初の日台交流コンテストという記念すべきものであるため、12名の出場者とスピーチの題名を紹介しておきたい。
    
東(はま)            「蛍を最近みたのはいつですか?」
ピアース(名古屋)       「菊と刀」
陳(サクセス)          「旅行の思い出」
黄(パシフィック)        「ゴキブリの歌」
甲斐(熊本)          「今さえよければ?」
鎌田(東海)          「旅の思い出」
パイザー(東京バイリンガル)「なぜ」
川上(武蔵)          「弟」
李(サクセス)         「ネズミ捕り物語」
松崎(東西)          「思い出にかわるまで」
永松(肥後)          「少年の非行増加を防ぐには!」
小原(江戸)          「走れメロスのように」

優勝は松崎氏、2位東氏、3位陳氏というのがその結果であった。この他特別賞が設けられ、ベストドレッサー賞が黄氏、ベスト共感賞に川上氏、そしてベストパフォーマー賞に私が選ばれた。特別賞の商品は熊本の名産品で私が頂いたものは馬刺し。他には熊本西瓜など、トロフィーよりもこちらの方が良かったかも知れない。
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優勝した松崎氏のスピーチはアメリカ留学時代の恋物語で、ロマンチックな話が軽やかな身振りと共に伝えられて文句なしの1位という感じであった。2位の東氏も身振り、声共によく、共感できる内容、3位陳氏は青春時代の台湾での旅の思い出を印象深く伝えられたのが良かった。特別賞は、黄氏のドレッサー賞は小道具に使われたメロンパンが効果的だった点、川上氏の共感賞は障碍を持った弟との兄弟愛が共感を呼んだ点、そして私のパフォーマンス賞は言わずもながのオーバーアクション気味の身振り手振りによるパフォーマンスが光っていた点が授与の理由で、これらは熊本クラブからによる粋な計らいであった。

総じて台湾の方の日本語力が素晴らしく、カタカナ言葉をほとんど用いない古き良き日本語によるスピーチは、我々日本人が忘れていたものを呼び覚ますのに十分なものがあった。これは後々台湾を訪れた人々が必ず口にすることで、台湾の日本語クラブの実力を日本のクラブの面々に知らしめた点で非常に有意義であった。
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コンテスト出場者の顔ぶれも常連の方々がほとんどなく、新鮮な感じがした。台湾の方を交えてのコンテストは翌年もう一度行われ、以降日台ともディストリクトに昇格してからはルールに従って、お互いに出場し合うことはなくなったが、いつかまた交流戦は行いたいものである。
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by inv-pyramid | 2007-10-22 01:48 | 1999年前半