人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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2007年 09月 03日 ( 2 )

[東京BL編] 激突!東京vs東京BL

3月3日のひな祭りの日、東京都生涯学習センターにて東京クラブと東京バイリンガルクラブという、当時東京都心で例会を行うTMとして覇権を争っていた(?)2大クラブによる豪華な合同例会が行われた。2強激突とも言える両クラブによる合同例会はいくつもの図式で見ることができた。曰く、親クラブ対子クラブ、古豪対新興、英語対バイリンガル、大手町対有楽町などなど。現在の東京バイリンガルクラブの状況からは想像もつかないが、当時は巨星東京クラブと少なくとも人数的には対等に合同例会ができる勢いがまだ残っていた。この頃が東京バイリンガルの絶頂期の末期であった。

当日は両クラブ合わせて40名弱が参加。東京クラブの参加者には藤山夫妻や我妻氏といった有力者、当時の外国人会員の看板だったホリデイ夫妻やキルパラニ氏、その他最近コンテストで知り合った方々などの顔が見えた。現LGETの白鳥氏(当時は植木氏)とは、年末の東京バイリンガル忘年会以来の再会で、この頃の出会いが後のやまのて設立への伏線にもなっていた。

例会は東京クラブに配慮して英語で行われた。司会はパイザー氏。テーブルトピックスは東京からP藤山氏、東京バイリンガルからターボクス氏という二人の司会による2ラウンドで行われた。スピーチは中川(東京)、福重(東京バイリンガル)、Rホリデイ(東京)の3氏。中川氏は少し前に行われた、Tall Tales Contest の入賞者で、元々は関西の方。関西人らしい愛嬌のあるスピーチが秀逸だった。東京バイリンガルの若手ホープ福重氏は#9をノストラダムスネタで料理。ホリデイ氏はボディランゲージたっぷりで、会場を広く使ったゼスチャーで聴衆を魅了した(ホリデイ氏がベストスピーカー)。

論評はマッキンタイア(東京バイリンガル)、青山(東京)、江坂(東京バイリンガル)の3氏で、江坂氏がベスト論評。総合論評は我妻氏がお手本のような総合論評を披露した。私は聴衆として傍観していただけだったが、この時の興奮は忘れられない。いくつものシーンが脳裏に蘇るほど鮮烈なものがあった。

熱狂冷めやらず、隣接するロイヤルカフェテリアでの2次会は大いに盛り上がり、またやりましょう、という声も聞こえた。最初で最後の2強激突は東京クラブの面々に東京バイリンガルの存在を認めさせたことで成功に終わったと言えた。今の心境は兵どもも夢のあと、といった所か。
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by inv-pyramid | 2007-09-03 22:08 | 1999年前半

[さくら編] 渡りに舟

年明けてさくらクラブの例会場は有楽町に移っていた。有楽町はさくらクラブの出発点であり、当初は有楽町トーストマスターズと名乗っていたのだから、紆余曲折を経て古巣へと回帰したということだろう。ただ、ここまで短期間で場所を転々とすることはクラブにいい影響を与えるはずもなく、場所が変わったことで離れていった人もいた。場所というのはTMのような会では重要な要素である。高田馬場、表参道、有楽町という変わりようは、都内ではそれほどの距離感はないように思えるが、参加者にとっては通勤ルート上だったり、会社または自宅から近いか遠いかというのは、特に平日の夜の集まりでは大きな問題である。

場所が変わったことで1999年初頭は例会の参加者数も著しく減っていた。さくらクラブは5月にエリアコンテストを運営することになっていたので、この時期に会員が減ることで、運営を懸念する声も出始めた。元々コンテスト運営は、比較的安定していた高田馬場時代に決められたことであり、事情が変われば計画の見直しも必要である。2月10日の例会ではスピーチ枠をキャンセルし、急遽例会の半分の時間を割いてコンテスト運営についてのディスカッションを持つことになった。この時の議題として、この難局(?)の打開策として、東西クラブとの共催案が出ていた。というのは東西クラブもエリアコンテストを運営する予定だったが(さくらはエリア1、東西はエリア2)、会場が見つからないので、さくらが既に押さえていた代々木のオリンピックセンターを時間を分けることで、同じ日に運営できないかという話を持ちかけられていたのである。渡りに舟とはまさにこのことで、両クラブの利害が一致し、エリア1・エリア2合同スピーチコンテストのプランが出来上がった。

まだ役の割り当てなどの問題が残っていたが、3ヵ月後のコンテスト運営を目指して、運営の目処が立ったことがこの頃の収穫であった。
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by inv-pyramid | 2007-09-03 21:08 | 1999年前半