人はいかにして逆ピラミッドの境地へと達するのか。記憶の中のトーストマスターズの出来事をたどり、現在そして明日への指標を探る、ささやかな独白です(H2O, DTM)。


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2007年 09月 02日 ( 4 )

[江戸編] 我が心の千駄ヶ谷社教館まつり

2月28日の日曜、予てから準備されていた第10回社教館まつりが千駄ヶ谷社教館で開催された。当日は小春日和とも言える様な暖かさで、地域の文化祭に相応しい1日となった。前にも述べた通り、私は江戸クラブを千駄ヶ谷という地域へアピールすべく、このイベントに参加することを決め、地域の方々に混ざって実行委員会の委員にもなって、毎月1回程度開かれた準備会にも参加していた。その過程の中では、まつりのキャッチフレーズのアイディアを出したり、ポスターを江戸クラブで引き受けたり(池田氏デザインによる)と、気が付けば積極的にのめり込んでいた。会社の帰りに例会とは別に社教館へ寄ることで、それまで感じていた千駄ヶ谷への親しみが更に増した感があった。社教館職員の方々とも冗談を言い合うほど親しくなった。

当日は実行委員ということもあり、社教館側の人間として振舞うこととなった。社教館の半被を着て来客に対応することには少々照れもあったが、滅多に出来ることではないので、関係者の顔で来客に接していた。

江戸クラブは当日の13時から公開ミーティングとして、いつもの学習室中で例会を行うことになっていたが、いつもと違うのは部屋の扉が外されていて、オープン会場になっていることだった。デモ例会として公開するのだからこれは当然の演出だったが、ガラス張りならぬ、遮る物が何もないという状況下での例会には多少の抵抗もあった。既に低迷期の江戸クラブにとって日曜の午後に召集をかけて人を集めるのは難しい面もあったが、休会気味のメンバーや他クラブの応援も借りて何とか8名の参加を得ることができた。
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普段ともう一つ違ったことは後ろの窓から日が射していたことである。日頃夜の例会に慣れている身にとって、明るく開放感のある例会は一味違っていた。司会は野島氏にお願いした。私は半被を着ながらの会長挨拶で、ここでも若干の照れがあった。テーブルトピックははまの山下氏で、デモということもあってゲストの方には全て当ててもらい、TMの雰囲気を味わって頂いた。スピーチは本当なら異なる課題で揃えたかったが、奇しくも同じ基本#5の「声を豊かに」で、パイザーM氏と久しぶりの芦沢氏が行った。ただ同じ課題が並んだことで、擬音を駆使したパイザーM氏と、演説口調が持ち味の芦沢氏の違いが際立つことになった。総合論評は大嶋R、個人論評は小原、野島が担当した。ゲスト感想からは好意的なコメントを頂き、ぜひ連絡を下さいという方もいた。

江戸の面々は例会終了と共に解散したが、私は実行委員であるためまつりの最後まで残らなければならなかった。まつりの最後は地下体育室でのファッションショーで締められた。これは洋裁サークルの活動発表の場で、結構楽しめた。まつり閉会後は実行委員長の村上氏のマンションで打ち上げを行った。村上氏は社教館の顔役的存在で、地元民でもないのに積極的に準備活動に参加していた私に一目置いていたらしく、準備会の後はよく飲みに誘われた。

こうしておよそ半年に渡った私の千駄ヶ谷での地域活動もようやく終わったが、住民でもない私を地域の仲間として受け入れてくれた千駄ヶ谷の方々の暖かさは何時までも忘れられない。TMでの成果を発揮するのは、まさにこういう場でのコミュニケーション力、リーダーシップ力である、ということをしみじみと感じた。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 20:15 | 1999年前半

[武蔵編] 北北西の風

2月25日の第9回例会より、いよいよ私の武蔵での初スピーチが始まった。既に上級マニュアルへも取り組んでいたが、新しく参加したクラブではアイスブレーカーから始めるという考えの下、この日も4度目となるアイスブレーカーを披露した。「北北西の風」というのはその題で、東京中心部から見て武蔵浦和はちょうど北北西の方向にあり、北北西の方向から東京へと新しい風を送り込む、つまり武蔵クラブがTMの新しい風になるということを伝える内容で話した。論評は梅本氏だったが、梅本氏は私を経験のあるTMという視点で評価され、身振りが足りないなど少々厳しい論評を受けた。新しいクラブでの初スピーチということで、私にも緊張感はあった。

武蔵でのスピーチの取り組みでは少し新しい試みをしようと思い、毎回連続でスピーチをするつもりだった。チャーター前のクラブで、人がまだ集まっていないクラブだからこそできることでもあったが、自分としては連続で話せるだけのネタがあるのかどうかということと、マニュアルのそれぞれの課題に沿ったスピーチができるのかどうかということを短期間で実践したいという気持ちがあった。この試みには武蔵のメンバーにも特に異論はなかった様で、私の我がままを受け入れてくれたのがただ有難かった。

この回では、その後の私のTM活動に大きく影響を与えた方との出会いがあった。当時ウェスト東京クラブに所属されていた滑川氏で、同じクラブだった渡辺氏の紹介で武蔵へ来られていた。日本語クラブに興味があるということで、この日もゲストで日本語スピーチをされていた。滑川氏はフランス文学の大学教授で、仏文系の大学教員の方と膝を交えて話しができるなど、まさしくTMならではのことで、その教養のあるスピーチには多大な影響を受けた。滑川氏はその後もリーダーシップや響にも参加され、以後の私とはTM活動の中で交流を深めることとなった。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 19:33 | 1999年前半

[東京BL編] 横須賀×論評×緊張!の日

2月20日(土)、JTC主催による1999年の論評ワークショップとコンテストが開催された。東京バイリンガルクラブと三笠クラブの合同運営で、場所は三笠の例会場でもある横須賀の米軍基地内のキニック高等学校講堂であった。TMに参加していると普段ならまず行くことはない場所に行くことがある。その一つが米軍関係の施設である。これまでにもアメリカンクラブや根岸の米軍施設に入ったことがあったが、横須賀の基地は初めてだった。米軍基地となると警戒も厳重で、コンテストの事前には各クラブに「顔写真付きの身分証明書のご持参を必ずお願いします」というファックスが送られるほどであった。

当日は品川から京浜急行に乗り換えて横須賀へと赴いた。横須賀中央駅へ降り立った時から既に普段とは違った空気が感じられた。基地のゲートに辿り着き、米兵の前で身分証明を見せた時にはすっかり緊張していた。一歩足を踏み入れればそこはもう日本ではなくアメリカなのだ。会場の講堂へはゲートからシャトルバスに乗っていく手筈で、集合時間も決められており、ゲートにはTMの関係者が勢揃いしていた。講堂の周辺は文教区域でもあるのだろう。それほど米軍基地ということは意識しなくてもよかった。ただ昼食は近くのカフェテリアで取ることになっていて、ここでまたアメリカ文化を感じることになった(因みに昼食はマック)。

コンテストは13時からで、司会進行は三笠の萩原氏が務めていた。三笠の会長はドレッドヘアが良く似合う黒人のビュシー氏で、このキニック高校の先生ということだった。力強く、それでいてしなやかなスピーチからは我々にはないものを感じた。ゲストとして基地の指揮官であるアームストロング氏が歓迎スピーチをされていたのが、いかにも米軍基地でのコンテストという雰囲気を醸し出していた。コンテストはまず日本語から始まり、モデルスピーチは東京バイリンガルの福重氏が「ほめ不足問題を考える」という題で行った。米不足に「ほめ」を掛け、日本人のほめ言葉の少なさを指摘し、まず自分自身をほめることから始めよう、というメッセージで締められたスピーチだった。

論評の準備時間を取った後、いよいよ前にも述べた手順で各出場者がビデオカメラのセットされた別室へと分散した。私の撮影担当は東京バイリンガルの西出氏で、個室で二人だけ、それもカメラを前に論評するというのは実際にやってみるとかなり違和感があり、人前でスピーチをするのとは別の緊張感が体の中を走った。撮影が終わると再び講堂へと戻り、聴衆の前でビデオを再生。出場者は5人だったが、ここでまた自分のスピーチを聴衆と共に観る(聴く)という行為に、話す時とは別の緊張感を強いられた。

表彰は英語部門が終わってから最後にまとめてするというこで、カフェテリアでお茶を飲んで休憩後、英語のビデオ論評の模様を拝聴し、結果を待った。英語のモデルスピーカーは三笠のオルソン氏で、出場者は8名だった。日本語部門の結果は1位:マッキンタイア(東京バイリンガル)、2位:川上(武蔵)、3位:小原(江戸)という順で、川上氏はまだチャーターしていない武蔵からの出場だったが、JTC時代はチャーター前クラブにも出場は認めていたので、このような結果になった。ちなみにこの時は武蔵と同じようにチャーターを目指していた東海クラブの鎌田会長が出場されていた。鎌田氏は旧やまのてクラブの解散時のメンバーで、名古屋方面へ転勤されて東海クラブの設立に参加されていた。英語部門の優勝者は東西の市橋氏だった。
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閉会後は東京バイリンガルの面々は三笠と打ち上げに流れ、日本語クラブの関係者は横浜へと移動し、駅ビルの崎陽軒で2次会を行った。最初で最後のビデオによる論評コンテストは緊張の連続とともに幕を閉じた。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 18:39 | 1999年前半

[武蔵編] 世界の中心で"I"を叫ぶ

1999年初頭から武蔵会長のヴォート氏の苗字はご結婚によりスギモト氏に変わっていた。苗字がカタカナなのはご主人が日系2世だったからである。ご主人のスギモト氏は武蔵の第1回例会にも参加されていたが、その時はまだ結婚相手ということは知らなかった。

この頃の例会では毎回のように会員募集、広報活動についての話し合いが持たれていた。設立中のクラブでは広報活動が非常に重要なことは言うまでもないが、この事に特に熱心だったのが梅本氏と渡辺氏で、その方法論の提示と実践については、クラブ内で一番の経験者ということもあったが、情熱の注ぎ方が他のメンバーとは一味も二味も違っていた。例えば、2月18日の例会で梅本氏はディスカッションリーダーのテーマとして、「仲間を増やそう-会員募集について」という題でグループディスカッションをされたが、その資料として、「武蔵トーストマスターズクラブ知名度調査」として実際に武蔵浦和の駅前で、街頭アンケートを行って、その結果を分析した報告書を作っていた。結果は回答者全てが「トーストマスターズを知らない」ということだったが、このような行動を取ることで広報活動の重要性、トーストマスターズの知名度アップを説いているのだから、我々としても積極的に取り組まざるを得なかった。

とにかくその広報への取り組みは後発の新クラブとは一線を画していた。最近の様にまず他のクラブへ訪問してチラシを配ったりするという内向きの広報ではなく、最初から地域団体や地域メディア、駅頭でのチラシ配りなどの外向きの広報に重きを置いていた点がである。これだけやっても結果がついて来なかったのは、TMに関心のある人の所まで我々の声が届かなかったということだろう。最終的には口コミで集まった人が最も多かったのだから。しかし2月の時点ではまだ8回目の例会ということもあり、新しいクラブをみんなで作っていくという情熱が先走っていて、悲壮感はなかった。
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by inv-pyramid | 2007-09-02 17:35 | 1999年前半